紺浦交差点から牛窓燈籠堂まで

牛窓往来6 紺浦交差点から牛窓燈籠堂まで

 歩行日 平成28年10月31日(月)距離 約2.6キロ


 掲載内容は点検をしていますが、まちがいの可能性もあります。情報の利用にはご注意ください。
牛窓往来


 JR赤穂線邑久駅から邑久駅まで行き、邑久駅から牛窓行きのバスで紺浦口に到着。疫神社の階段の下である。

紺浦口バス停   牛窓では吉備温故に書かれた経路の地名が、バス停名としてよく出てくる。細かい道筋は別として、大まかにはあっているのだろう、と安心する。

 紺浦の交差点から10時30分頃到着。出発。道標の左側の道を県道と並行に歩き始める。
正面の背の高い建物は瀬戸内市役所牛窓庁舎である。
紺浦 紺浦

 100メートルほど歩けば、県道に合流する。ここからしばらく県道岡山牛窓線(28号線)を進む。
 県道の左側に瀬戸内市役所牛窓庁舎。2階の図書館には2回行ったが3階と4階にある美術館には行ったことがない。
 県道の右側には高祖酒造がある。天保元年(1803)創業(同社のサイトより:確認平成29年1月22日)。販売所で「千寿 純米吟醸ひやおろし」を買ったら、ラベルは唐子踊りの絵柄だった。
牛窓庁舎 高祖酒造

 高祖酒造千寿蔵の続きに立派なお宅がある。その東端、千寿の看板の手前に右側に入ると塩釜神社がある。ここでも、唐子踊りが奉納される。神社は石の祠。神功皇后が腰掛けて唐子踊りを見たという腰掛け石がある。干拓、宅地造成などの影響により転々としたようだ。安産祈願の石でもあった由。(牛窓風土物語p19-20)。
塩釜神社 塩釜神社

 県道を進む。右手に牛窓中学校があり、すこし行くと三階建ての瀬戸内警察署の建物が左側にある。
 瀬戸内署の少し先、県道から右に分岐するに風情のある路地がある(右写真)。そちらに行きたくなるが、調査報告7の地図だとこのまま県道を行くようだ。右側も少し歩いて行ってみたが、御霊(ごりょう)社との位置関係を考えると、地図通りで良いようだ。県道を進む。
瀬戸内警察 気になる分岐

 瀬戸内署前から490メートルほど進むと、左側に福岡屋旅館の建物が見える。その手前左側に御霊社の入口がある。入口右側にだんじり庫がある。綾浦の獅子だんじりである。
 御霊社は太刀踊りが奉納される。
瀬戸内警察 御霊社入口

 御霊社の前から県道を150メートルほど進むと牛窓町綾浦の交差点に着く。この先からがかっての牛窓湊である。
 右図は、明治二十八年に大日本帝国陸地測量部により測量され、同三十一年に印刷された「岡山近傍八号」の「牛窓」(二万分之一)である。現在の地図(yahooの航空写真:サイト確認平成29年1月22日)と比較すると、湊の海岸の形が分かる。
牛窓町綾浦 牛窓湊

 旧道は、交差点から斜め左に入る。
 牛窓郵便局の裏側を通る。郵便局の東側にある分岐は左(右写真)。郵便局から離れる。
綾浦の旧道 綾浦の旧道

 郵便局の東の分岐から50メートル弱進むと、左側山に向う分岐がある。

室谷山道標その手前角に『室谷山』と刻まれた石柱が立っている。「室谷山」のことを知らなかったので、寄り道として行ってみた。

【寄り道】
 途中道が狭くなる。家が切れて、右側が雑木林、左側が草原のところを登って行くと、お寺があった。室谷山金剛頂寺真光院である。地元では西寺(にしでら)と呼び習わす(妙福院が東寺と呼ばれる)。瀬戸内観音霊場の第五番札所である(※1)。
室谷山への道 室谷山金剛頂寺真光院

 本堂は瀬戸内市指定重要文化財である。報恩大師の建立とされる備前四十八寺(※2)の一つである。寛文六年(1666)の寺院淘汰で一度廃寺になり、元禄九年(1696)に再興されている。
(ここの記述は牛窓風土物語p208と同寺の説明板に基づく)。

 嘉永二年と記されている木碑(右写真の額。寺名を書いた扁額の右側にあった)に「四国西国 百八十八番 秩父坂東」とある。
 「四国西国 百八十八番」について調べると「観音霊場百か所(西国三十三番・坂東三十三番・秩父三十四番計百か所)の観音霊場と四国八十八か所のことであるらしい(国立国会図書館レファレンス協同データベースによる:サイト確認 平成29年1月23日)。
「備前牛窓 紺浦 のふ」とあるので女性だろうか。これをすべて巡拝したということであれば大変な旅だ。時間と体力はもちろんだが、お金もたくさんかかる。お接待だけで旅をするわけにはいかないだろう(例外はもちろんある)。
 田辺聖子の「姥ざかり花の旅笠」を連想するが、どんな旅だったのだろう。ただし、本当に巡拝したかどうか木碑だけでは分からない。
室谷山金剛頂寺真光院 室谷山金剛頂寺真光院

 説明板にかっての鬼瓦(享保16年作)の説明があった。写真は新しい鬼瓦。
 眼下には瀬戸が広がる。
真光院の鬼瓦 真光院からの景色

※1 瀬戸内三十三観音霊場(せとうちさんじゅうさんかんのんれいじょう)は、兵庫県西部(播磨)・岡山県(備前・備中)・広島県(備後)の観音菩薩を祀る寺院三十三箇所を巡る霊場巡拝である。昭和60年(1985年)3月3日に開創された。(ウィキペディアで確認。平成29年1月23日)
※2 牛窓往来5でも記したが、牛窓町史通史編p258では、『備前天台四十八か寺』と表記している。また多くは中世末以降の伝承である、とする。

 元の道にもどり、しばらく進むと右側に『中浦クラブ』という看板を下げた建物がある。その先少し行くと、左手に分岐する道の先に豪壮な屋敷が見えた。入口はさらに東に進んだところにあった。

 左側に寄り道したら、屋敷は外から見るだけだったが、向かいの坂を上っていくと、祠や石碑があった。詳細は不明
詳細不明の祠 詳細不明の石碑

 先ほどの豪壮な屋敷の入口は少し奥まったところにある長屋門。
 その先左側は服部本家酒造場である。焼板の腰壁と漆喰の組み合わせは味があるが、現在営業はされてない(地元の人に確認)。
右側は日本オリーブである(裏側を通る)。
大きな家の長屋門 服部本家酒造場

 服部本家酒造場の先で北から来た県道226号線と交差(左写真)。交差点の向こう側右手のお菓子屋さんで『唐子踊まんじゅう』と『オリーブ煎餅』を買った。ほかに『オリーブ羊羹』などもある。
 そこから130メートルほど進むとT字路にぶつかる。右に曲がる。
 その先40メートルほどで県道岡山牛窓線にぶつかる(右写真)。正面に白いホテルがある。県道手前で左折し、本蓮寺入口方面に進む。
交差点 本蓮寺へ

 そこから50メートルほどで、経王山本蓮寺の門前に着く。
 日蓮宗本門流の名刹で、本山は本能寺である。天正二年(1347)大覚大僧正が四国布教の途中に牛窓を訪れ、地方豪族の石原佐渡守を教化し、法花堂を建てたことを始まりとするという。
 中世、法華宗布教の拠点の一つであったようだが、朝鮮通信使の接待・宿泊の場所としても有名である。境内は国指定史跡である(しおまち唐琴通りにある井戸と一括で指定されている)。


【本蓮寺参拝】
本蓮寺 本蓮寺境内

 階段上の中門(左写真)、本堂(右写真)とも国指定重要文化財である。
本蓮寺中門 本蓮寺本堂

 左写真は祖師堂。右写真は番神堂の覆屋。国指定重要文化財の番神堂はこのなかにある。一間社が三つ並んでおり、それぞれ創建や祭神が異なる。
番神堂 祖師堂

 他にも鬼子母神堂や三重塔などあるが割愛。また、仁科琴浦先生碑も興味深かったがこれも割愛。ここの記録は、牛窓を歩くp88-100、瀬戸内市のホームページを参考にした(サイト確認:平成29年1月23日)。

 目の前は唐琴瀬戸。一文字波戸が見える。左を見れば、前島フェリーが見える。
一文字波戸 前島フェリー

 海を背に新しい石碑がある。女王丸遭難の慰霊碑である。

女王丸碑  昭和二三年一月二八日に関西汽船所属の「女王丸」(401.49トン)が、牛窓港沖で機雷に接触して沈没した。機雷はアジア太平洋戦争末期に米英連合軍が瀬戸内海封鎖のために投下したものであった。
 女王丸は10分後に船首を屹立させ、船尾から沈没した。乗客296名のうち死亡21名、行方不明184名、負傷4名、船員は行方不明4名、負傷者1名の惨事となった。
 夜明けとともに応急処置を加えられた生存者を関町海岸に移送、収容した。身元が確認できない人の通夜は本蓮寺で行われた。(牛窓町史通史編p1021-1022)
 沈没した日に毎年慰霊祭が本蓮寺で行われる。(毎日新聞デジタル版2016年1月29日)


 本蓮寺の前から70メートルほど進む。右側に海遊文化館がある(裏側を通る)。角に『しおまち唐琴通り』の看板がある。その向こう側は県道岡山牛窓線、さらに唐琴瀬戸だ(左写真)。
 看板の前をそのまま西向きに進む。左側に『牛転:USHIMAROBI書いた看板が下がった店がある。昭和初期の旧牛窓郵便局の建物(唐琴通りの地図+インターネット情報による)で喫茶店のようだ。
しおまち唐琴通りの看板 牛転の道

【牛転:牛窓の地名由来伝説】
 神功皇后のみ舟、備前の会場を過ぎたまひし時、大きなる牛あり、出でてみ舟を覆さむとしき。住吉の明神、老翁と化りて、其の角を以ちて投げ倒したまひき。故に其の處を名づけて牛転(うしまろび)と曰(い)ひき。今、牛窓と云ふは訛(よこな)まれるなり
 牛窓を歩くp15 「備前国風土記逸文」よりとして。

 かなり有名な伝説で古今のいろいろな書物に牛窓の地名由来として登場する。

 改訂邑久町史上p39では

 牛窓町本土と南前島と相迫る七町の間は、潮流急にして船舶は逆航し得ずと云う。牛窓の名称もこの海峡より起りしものか。潮真戸(うしまど)とは潮勢の壮なるに真の美称を副えたるものなるべし。
とする。

また、備前藩士(船手組)松本亮之介は「東備郡村志」で

 (上記の伝説の後半、牛が鬼となり、その後死んで、今の前島になるという伝説に対して)何ぞ牛の化して島となるの理あらんや。其妄は三尺の児童も信ぜざること煥然(カンゼン:あきらかの意味)たり。上古と雖(いえど)もかゝる大怪あらんや。今の古に於るや、後世の今に於けるが如し。(中略)乃(すなわ)ち牛転の説も附会に似たり。古書には宇島門に作るこれを得たりとす。或説に宇島門は大島門の訓転なりと、尤も叶へる説なり。(以下略)

と説く。後者二説はあまり流布していないようだ。店名やお土産品に遊びで書くのは楽しいと思うが、郷土資料にはこちらの補足もあった方が良い気がする。
※ 東備郡村志:天保八[1837]~十三[1842]に成立したと推定される地誌。引用は吉備群書集成(二)p447-448による。松本亮之介と「東備郡村志」については、岡山の古文献p41-45によった。また、( )の注は管理人による。

 牛窓とは直接関係ないけれど、あちこちの伝説を見聞きしていると、伝説や神話も時の流行によって流布したり、忘れられたりするようだ。中には、時流に合わせて変えられたり、作られたりすることもあると思う。

 牛転から少し先、左側に「港まち牛窓は井戸のまち! 上之町井戸 ←」という看板があった。下津井も井戸の町だった。水は町の人だけでなく、船でも必要とする。牛窓風土物語p298によれば、牛窓に碇泊する船舶の飲料水は、水を売る水汲仲間(たご株)の手を経なければならない定めだったそうだ。幕末に水を巡る争いがあり、死者が出たそうだ(安政の水騒動、牛窓風土物語p297-298)。そんな殺伐とした話とは別に、この先猫をよく見た。それも下津井と一緒だ。
上之町井戸 上之町井戸

 民家の間を進む。少し先に行くと、「風まち亭」がある。牛窓まちかど交流プラザということで、時々見かける地元の人と観光客の交流の場所らしい。いろんな展示があった。
 中に牛王宝印の由来記を見た。寛文六年(1666)の寺院淘汰と結びつけ、幕府巡検使に仏教徒だと見せるためにお札を貼るようになった、と書いてあった。厄除けの護符として正月ごとに張り替えるということだ。
かぜまち亭 牛王宝印

 鹿忍の民家の軒先でも見たが、妙福寺、金剛頂寺、本蓮寺の三通りがあった。妙福寺は東寺(ひがしでら)、金剛頂寺は西寺(にしでら)どちらも真言宗。本蓮寺はさきほど行った法華。宗派に関係ないようだ。三つのお寺でそれぞれ表記が異なる。妙福寺の護符は『牛王』が『牛玉』なのは、「悪魔をびっくりさせ、退散させるねらい」だそうだ(牛窓を歩くp101)。
牛王宝印

 少し行くと、「地元人おすすめビューポイント 見返りの塔」の説明板があった。ここで見返ると本蓮寺の三重の塔が見える。ちょっと京都みたいだけど、個人的には海遊文化館前の県道から見た三重の塔と鐘楼が好み。

 振り返ったあとは前を向いて進む。右側に『牛窓名物 潮風しるこ』(旧字で左から右に書いてある)の看板がある。もうだいぶ傷んでいるのでいつまでここにあるだろうか。
 その先映画カンゾー先生のロケ地の碑がある。
中庭の道 カンゾー先生のロケ地

 その先に左側に関町のだんじり蔵がある。その辺はミニ公園になっているようだ。東屋風の休憩場所、しおまち唐琴通りの地図、『牛窓の起点であることを示す道路元標』があったことを示す看板と、石柱がある。
関町のだんじり蔵 牛窓の道路元標

 この辺はかって町の中心だったのだろう。説明板の地図には、旧町役場跡や高祖酒造発祥の地が書き込まれている。旧牛窓町役場は天神社への参道右側にあったようだが今は何も残っていない。右側の石の門柱と火の見櫓はそのなごりだろうか。
牛窓町役場跡

 高祖酒造の旧建物は文化庁の登録有形文化財として保存管理がなされている。
酒蔵などがあったと思われる裏地は空き地になっていて、レンガ製の煙突が立っていた。
高祖酒造 レンガの煙突

 高祖酒造の建物の向かいに『学校の井戸』がある。

学校の井戸  「牛窓風土物語 続」p70-73によると、牛窓小学校は民家(同書には『現、関町公民館』とある)を借りて開校し、明治十六年に西町の山手(同書では現在『現、牛窓荘』)に校舎を建築している。『国民宿舎 牛窓荘』は現在『国民宿舎シープラザ牛窓』になっている。背後の山に学校があった。
 往来を歩いていると、小学校や中学校の設置状況は地域の活力を示す指標の一つのように思える。

 この辺になると気分は散策で、あちこち寄った。煩雑なので往来の道筋から外れるものは別にまとめた。(牛窓散歩2)。

 ここから道はS字を下から行くように曲がりながら、両側に旧跡が残る道を進んでいく。
 少し行くと『中屋発祥の地』と刻まれた石柱が立っている。手持ちの資料に載ってなかったのでさまざまなインターネットサイトで調べると、中屋は中屋高祖と呼ばれた豪商だったようだ。ただし、千寿酒造の高祖さんとは別の系統の由。
 「つげ義春旅写真」(北冬書房のサイト。万力のある家で閲覧。サイト確認:平成29年1月24日)で1971年頃の唐琴通りの写真らしいもの(右上から2コマめ)があるが、そこに中屋らしい建物が写っている。今は何もない。
 石柱の側面に『高祖保生誕の地』と刻まれている。高祖保は、詩人で牛窓で生れ少年時代を過ごした詩人。ビルマ野戦病院で昭和20年亡くなった(岡山県大百科上p953。吉備路文学館のサイト:サイト確認 平成29年1月24日)。
 知らない詩人だったので青空文庫で作品のいくつかを読んだ。空き地の奥に史料館『なかなか庵』がある。10月に行ったときは、開いていたが、1月に行ったときは2月まで休業と書いていた。
中屋発祥の地 高祖保の碑

 しばらく行くと左側家の陰に最一稲荷がある。
 その先左側に金比羅宮と荒神社への参道を示す看板がある。荒神社と金比羅宮の参拝は、牛窓散歩2で記載する。
最一稲荷 金比羅神社への分岐

 その先のレンガ作りの建物は、街角ミュゼ牛窓文化館である。推測だが、フランス語の博物館のことではないのか。フランス語はまったく分からないので、正直言えばどういう施設かピンと来なかった。どうせならギリシャ語にしたら良かった?
 牛窓文化館に到達する前右手に西町倶楽部と看板がかかった建物があり、その前に『ししこま』の説明板がある。
ししこま

ししこま

 牛窓地方では女の子が生れてはじめての八朔(旧暦八月一日)に「ししこま」を作り、雛壇に供えるとともに近隣の子どもたちに貸していました。いつかあなたのうちに女の子が生れたら返してもらう、喜びを分かち合うという考え方です。
 前日には近隣や親類の人々が集まって米の粉を練り、これを蒸して臼でついてだんごにし、ヘラやクシなどを使って、たい、えび、かぼちゃやみかんなど海の幸、山の幸の形を作り色粉、金粉で彩色して仕上げます。
 今では保存会で年二回伝統行事として紹介しています。[上記説明板より]

ししこま 左写真は、牛窓文化館内に展示してあった「ししこま」。

補足:現在は瀬戸内市指定である。

 道の左側に牛窓文化館、右側に御茶屋跡がある。牛窓文化館は大正四年(1915)旧牛窓銀行本店として建てられたものである。昭和55年に移転するまで中国銀行牛窓支店だった。(建物の説明板。瀬戸内市のホームページなど:サイト確認 平成29年1月24日)。
 中国銀行牛窓支店は今はもっと西にある。表通りにいろんな施設が移っていくのは津山往来(弓削駅の近く)でも経験した。
最一稲荷 牛窓文化館

 牛窓文化館の向かいにある建物のところが御茶屋のあったところである。「御茶屋はもともと藩主の保養を目的に建築されたが、他にも海上往来の幕吏、西国諸侯の接待、休憩所にもあてられた。さらに天保二年(1682)の第四回朝鮮通信使から宿泊所にも選ばれ」た。(牛窓町史 民俗編p180)
 明治4年7月に廃止され、その後村有になり、さらに個人所有となった。建物は撤去され、石垣だけが当時のものである。(牛窓風土物語 続p39)。牛窓町史p180から推測すれば、現在海沿いの道路のところはかっては海で、御茶屋は海に張り出していたようだ。
御茶屋 御茶屋石垣

 海側の石垣の方が作りがしっかりしている。(同前)
御茶屋石垣 御茶屋石垣

 少しもどるが、牛窓文化館の手前の路地を70メートルほど行くと、御茶屋井戸がある。井戸の横の説明板によると、御茶屋で朝鮮通信使を迎えるために承応三(1654)年に岡山藩によって掘られた、と井戸枠の側面に刻まれている、という。
御茶屋井戸 御茶屋井戸側面

 朝鮮通信使は慶長12年(1607)以降文化8年(1811)まで都合12回来朝している。
 首都漢陽( 現在のソウル)を出て、400キロ以上南下して釜山に到着。釜山から対馬へ行き、そして壱岐を経て福岡へ。福岡-下関、そこから瀬戸内海を大阪まで東に進む。瀬戸内海では、上関、蒲刈、鞆浦、牛窓、室津、兵庫が接待地である。大阪の河口で外洋船を吃水の浅い川御座船に替えて、淀川を遡る。
 淀からは陸路を江戸まで進む。途中臨時の橋を架けたりもしている。「朝鮮通信使」(仲尾宏著、岩波新書、2007)巻末の寛永13年(1636)の経路図を見ると、江戸を過ぎて日光まで延びている。すごい距離だ。資料を読むと病人や死人が出ているが無理もない。
 何より大部隊なのに驚く。正確なことは資料によっていただきたいが、一行の総人数は一番少ない文化8年(1811)で、328名、一番多い慶長12年(1607)で504名である。
 これに、対馬藩士をはじめとした警護や荷物運びなどを入れると千数百人になる。この大集団が移動していくのは見る分には面白いだろうが(江戸で見物のための絵図を売る話を題材にした「唐人さんがやって来る」[植松三十里著、中央公論、2013]という小説がある)、段取りをする藩士や手伝いを命じられた領民はたまったものじゃなかったろう。知行が十万石を越える岡山藩は費用は自弁である。
 これだけの人数、それに加えて岡山からも指揮を執ったり、手伝いのため藩士が大勢来るだろう。宿泊だけ考えても牛窓だけでは収まり切らなかったのではないか。来航を見張り連絡をし、護衛をしたりと、作業量もすごい。それら全部を考えると気が遠くなるようだ。
 小規模の行列の写真などを見ていたので、その大変さに思いが及ばなかった。

 御茶屋跡に続いて、湊在番所や足軽屋敷跡が続く(『しおまち唐琴通り』の地図)ようだが、それらしいものは特にない。石垣も堤防道路のコンクリートに覆われているが、最上段は顔をのぞかせているという(牛窓町史民俗編p182-183)。見て回ったがよく分らなかった。

 その先右側に木製の「和洋船舶用品商」という看板が出ている。電話番号などは古い形だが、看板は何となく新しい。
 その先進むと、左側の空き地に『由来記』と書いた看板がある。昭和三十年に両備バスに合併された邑久自動車というバス会社のバス・ターミナルだったところだという。『しおまち唐琴通り』の看板には、旧バス終点と書いているところだ。今は何もない。
御茶屋井戸側面 邑久自動車

 焼板壁の風情ある屋なみの先に堤防と海が見える。堤防道路に出て左を見れば『ともづな石』、『本町太鼓台収蔵庫』、そして『燈籠堂』が見える。
ともづな石は、神功皇后が神功皇后が、その船のとも綱を結んだといわれる。
唐琴瀬戸手前 燈籠堂

 左を見れば五香宮の参道がある。右の海は唐琴の瀬戸だ。
前島との間を流れる潮流により、渦ができるほどの奔流になるというが、このときも川が流れるように波立っていた。(参考:唐琴の瀬戸を参照)瀬戸内牛窓観光ポータルMOO。サイト確認:平成29年1月24日)。
五香宮 唐琴瀬戸

 牛窓の燈籠堂の役目は今の灯台と同じである。延宝元年(1673)に建設され明治初年に廃止された。高さは10メートル、海上三里を照らした。現在の燈籠堂は昭和63年に復元された。

五香宮から見た燈籠堂池田家履歴略記
 海上通船の者、夜中標とすべきため、燈籠堂を下津井に建て、夜毎に火点然るべし。と曹源公の命にて、頓て此堂を造作あり。同八年に至り、福島川口にも同様に灯台を建てられ、十月朔日より初て火を点じける。邑久郡牛窓・和気郡大漂にも灯台あり。此二所のうち大漂は元禄十一年に初て湊となりければ、其年より燈籠堂作られしにや、牛窓の灯堂は何れの年作られし事所見なけれ共、下津井と同時に造られしも知るべからず。

 この燈籠は鯨油を使用していたようだ。また、正徳三年(1713)犬が油をなめるので犬よけの戸を付けている。(撮要録)

左写真は五香宮から。ここの記述は牛窓風土物語p85-87及び瀬戸内市ホームページによった。

 牛窓往来の旅の終わり。この後船で難波に行ったか、讃岐へ行ったか。それとも赤間が関まで行って大里から長崎へ向うか。


牛窓散歩
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