急な階段を息を弾ませながら上るが、頂上付近には説明碑以外、それらしいものは何もない。詳しい人ならば、地形で堀切だとか何だとか区別がつくのだろうが素人目にはめぼしいものはない。
乙子城は、宇喜多直家が浦上宗景に仕えていたときに初めて与えられた城である(岡山県の歴史散歩p75)。(参照:岡山シティミュージアム 乙子(おとご)城。サイト確認:平成28年12月22日)。それで山の西側、永江川のそばに「宇喜多直家国とりの碑」を設置したのだろう。
干拓前は近くまで海が迫っていて、交通の要衝だったようだ。周囲を監視していたと思われるが、今は木が生い茂って下はほとんど見えない。
宇喜多直家は謀略家として有名であるようだが、本当の謀略家であればその謀略が人に知られるだろうか。この辺、備前軍記などの記述をあまり信用していない。個人的には宇喜多秀家よりは直家の方が好きである。
違う道を降りて墓地の横を通る。そのあと山腹にある乙子神社へ参拝する。
注連柱の向って右には『弘化三丙午三月吉日』、左には『願主 當所武田屋周蔵』とある。
その後ろの階段両横の石垣にも『嘉永七甲寅』の文字がある。
拝殿と本殿。
乙子神社については、岡山県神社庁ホームページの岡山の神社[神社検索]を参照ください。(サイト確認:平成28年12月22日)
訪問日平成28年10月12日・同12月25日
西側には永江川樋門がある(右写真は少し下流から振り返って撮った)。周囲を回ってみたが、施設の名称を示す掲示はなかったが、永江川ポンプ場が隣接(写真奥に見える)しており、これが永江川樋門であると判断した。
樋門近くの土手(ポンプ場が近くにある)から東を見れば乙子城山が見渡せる。左下に鳥居、山の中腹に「大国主神」神社。
永江川樋門と思われるところから土手下(東側)の道を歩くと、右(川側)に『木野山神社』がある。その横に二体の石仏が鎮座されている。
道が土手に上ったところに常夜燈が立っている。
『とは、岡山市東区升田などの漁業者十数名が出資してつくった魚類の販売会社で、玉島・妹尾に支店をもつ勢いであったが、近年競争激化により解散を決したとある。(『山陽新聞』明治二十四年四月二十八日付)』とある。乙子辺は鰻が良く獲れたようだ。
さらに『乙子常夜燈は、乙子地区の魚類買い集め舟の目標として造られたものと考えられ』ることや、『平成十二年十月六日鳥取県西部地震により頂部(宝珠)が落下紛失したが、平成十九年秋、工事請負業者の善意により再生された。』ことなどが記される。
管理人がこの常夜燈を見学した平成28年にも10月21日に鳥取で強い地震があった。
また『平成二十二年、吉井川左岸堤防が西に新しく築堤されたため、地元の要望により乙子常夜燈も、西南西約17mに往時と同じような水際の現在地に移築された。』とする。
その先乙子樋門まで行って戻った。戻る途中、乙子排水機場の排水口(と推測)のところで、たくさんの人が大きな網で水面をすくっていた。近づいて尋ねると『アミ』が潮に乗ってくるのをすくっているということだった。
この日は年末であまり時間がなかったが、いずれもう一度ゆっくり散策してみたい。