沖新田四番沖田宮前より、五番川内清内橋を渡り六番七番
素直に読めば、沖田宮の前から清内橋を渡る、と書いてある。
最初は「川内」を地名だと捉えたので混乱した。「川内」は、堀替橋の東(百間川の東、砂川の北)の地域である。清内橋を渡った後、川内を通るのは不自然だ。
その後百間川がかっては二筋に分流し、東側が五番川、西側が宮川という名前であったことが「沖新田東西之図」(以下「東西之図」)によって判明した。
前記の解釈を「五番川の内、清内橋を渡る」とした。(宮川は細く、橋も比較的小規模で話題に上らなかった、と考えた。図でも橋は書き込んであるが名前は書いていない)。
その後、「沖新田東西之図」(以下「東西之図」)、「備前之国沖新田図」(以下「沖新田図」)に『牛窓道』と書き込まれた箇所があるのに気づいた。
沖新田図には現在の堀替橋の位置(ただし、この部分でも百間川は分流しており、橋は川の東よりにかかっており、短い)にハンタイハシ(バンダイバシ?)があり、その西詰に『牛窓道』と書き込んである。
一方東西之図には内七番から金岡新田に入ったところとその先、都合二ヵ所に『牛窓道』の書き込みがある。
沖新田図の書き込みに着目するならば、牛窓往来はハンタイハシを渡り、清内橋を渡らない。つまり、調査報告7の地図(備陽国志が示すと思われる道筋)のままであり、官道の道筋変更はなかった、ということになる。
その場合、吉備温故の沖新田以下の文書は経路を示しているのではなく、目印を補記している。
東西之図及び沖新田図を眺めながら、次のことを考えた。
二つの絵図とも道筋を示す線の太さが異なる。太い線が幹線ならば、砂川を渡る甚兵衛橋(沖新田図では「長松ハシ」、東西之図には名前の書き込みはない)へ至る道は幹線ではない。幹線は北から南に流れてくる砂川の西岸を北上する道、及び流れの向きを変えて東から西に百間川に流れ込む砂川の南岸の道である。
東西之図の脚注に用水や道の長さが記されている。そのなかに「貳拾八町貳拾九間 六番用水筋 牛窓道ヨリ沖堤迄」の表記がある。これは、牛窓道を基点として、沖堤迄の六番用水の長さが28町29間半あることを示している。
東西之図に書き込まれている「牛窓道」は、この脚注の目印のためと思われる。絵図と脚注を参照し、甚兵衛橋から降りてきた道が東用水にぶつかって左折し、東に向う道筋を示していると判断した。
このことから、次の仮説を立てた。
このことから、次の仮説を立てた。
上記東西之図の脚注では、南北に流れる用水のあとに、道筋の距離が記述される。左から順に「牛窓道」「宮道」「小仕切道」「大仕切道」と距離の下に道の名前が記述される。牛窓道と宮道は別に書いており、区域(内七番、六番、五番)ごとの距離も異なる。 さらに、宮道、小仕切道、大仕切道は北から南に並んでおり、一番最初にある牛窓道は最北だと思われる。
このことから、次の仮説を立てた
倉富・倉益の北端の土手道を歩いて、まっすぐ行くのが基準とする『備陽国志』の道である。清内橋回りは右に折れて南下する。
沖新田八十八ヵ所霊場の83番札所の前を通る。
国道2号線牛窓バイパスに向ってまっすぐ南下する。
9号BOXと書かれた小さなトンネルをくぐる。
バイパスの南側に出た先に路地道が続く。百間川は大正・昭和と大幅に改修され、堤防も変わっており、土手も高くなっている。土手下の道も新しい。
交通量の多い土手直下の道(県道216号線)、その西側にも道がある。そのさらに西側に路地のような道(左写真)がある。道の進入角度などを踏まえて、この道が旧道であろうと判断し、細い路地道を進む。
そのまま進むと、路地を抜けた先に沖新田八十八ヵ所の31番と思われる建物がある。最初は公民館だと思ったが地元の人が「中に石仏がある」と教えてくれた。鍵がかかっていたが隙間から確認した。札所に出会う向きなどを検討して、9号BOXを出てからここまでの道筋は、選択した路地道で良いのではないか、と判断した。
建物の前に指矢印の遍路道標がある。「三十一番 是ヨリ五丁」と読める。位置的にはこれが三十一番だと思う。おそらく道標を移設したのではないか。
建物の南側に石碑がある。右側のものは「奉納大乗妙典供養為菩提」と読める。
建物の前を南に向って進む。ここからは路地はなく、土手から西へ二番目の道を歩く。右先に沖田神社の木々が見える。
すぐに沖田神社の北東端。ショウ儀型地神塔と石の祠がある。
左側を通る道路(県道216号線)の先に土手に上がる階段がある。ここがかっての清内橋の位置だ。上って見たら旧清内橋がかすかに見えた。
沖田神社の南東角に道標がある。
石の材質のためか刻んだ文字が読めない。やっと「左 西大寺 船□」「左 九ばん 金岡」などが拾えた。一緒に歩いている人がもっと読んでいたがメモをするのを忘れた。
境内に津田永忠の座像がある。
人柱伝説の個々の妥当性は判断できないが、いつも「その結果、工事がうまく行った」という終り方に得心がいかない。人柱を立てたからといって駄目な工事がうまくいくはずがない。人の思いが自然の摂理を左右することはできない。仮にできたら天災で亡くなる人はいなくなる。
岡山藩主池田光政は淫祠とされた神社10,527社を廃祀させている。その光政の家来であることで一生を貫いた観のある津田永忠が、もし人柱による工事の成功を信じたのであれば、淫祠邪教の追放といってもずいぶん都合の良いものだと思える。
百間川沿いに進み、新しい清内橋の歩道階段を上がる。清内橋はかなり長く、交通量も多い。速度を上げて走る車が横を通るのは楽しくない。
百間川の上流側に旧清内橋が見える。右写真はあとで行ってみて、橋の東詰から西を見たところ。狭い旧百間川の幅である。つまりはこの部分が“五間川”?昭和三十五年三月と書いてあった。
新しい清内橋の東詰。橋から真っ直ぐ延びる道(県道215号線)は新しい道なので、左に曲り、川上(左)に少し上る。堤から見た宮道筋と土手道への入口。両備バスの沖元西大寺線の清内橋バス停(岡山方面行き)がある。
横にある道標は調査報告7p5にも取り上げられている。高さ135センチある。
ここから清内橋回りAとBに分かれる。(清内橋回りB)
バス停の向かいに土手下道への入口がある。
河原に進んでから360メートルほどで、2号線バイパス百間川橋をくぐる。
百間川橋の下をくぐったあとは、170メートルほどで、百間川と分かれを告げ、砂川南岸の堤になる。一番高いところは、近年改修した堤。改修に合わせてかっての堤のところにあった神社は移転した(地元の方のお話)。土手ののり面に見える道が、かっての土手の道。昔はみんな土手を歩いていた(これも地元の方のお話)。
曲りきったあとは西に向ってまっすぐ進む。
神社の前を曲りきった用水沿いの道(昔の土手の内側に延びている)。この道も沖新田東西之図に描かれている。
政津までまっすぐである。「沖新田東西之図」では、この辺家が多い。最初この道が往来かと思って歩いた。あとで土手道だろうと判断して、歩き直した。
この道は昔は狭くリヤカーがやっと通れるくらいだった。用水を埋めて道を広げた。
宮道はその頃でもバスが通っていた。
昔は川の水を飲んでいたから、川の近くに家が集まっていた。
もとの道に戻って進む。ここから1.5キロほど真っ直ぐである。祠がいくつもある。遍路道でもあったのか。
最初の祠。道の右側。座像石仏がまん中、その横は立像に見える(左写真)。
さらに行くと、少し上り坂になる。惣九橋を架けるために道を上げている。橋のたもと右側に祠。沖新田八十八所霊場の八十番札所である(右写真)。前に、砂川の北岸を歩いた時にも、拝礼した。
惣九橋の南詰を横切るとその先は土手道である。土手道はあとからできたところだから、橋の手前の道を右に降りる。降りて道路トンネルをくぐり、土手根の公会堂の横を左に入ると、右側にまっすぐ道が延びている。
橋の南詰をそのまま土手まで行って、下に降りても良いが、土手根の公会堂は一見の価値がある(右写真)。
すぐ先にブロック作りの祠。光背を背負われた石仏。
その先右側に小さな神社があった。進行方向では後ろの黒板壁が見えた。お酒と塩が奉納?してあった。写真は少し先から振り返って撮った。
しばらく行くと左側に二の堰跡の碑。すぐ先の右側に緋鯉地蔵尊の祠がある。
二の堰は砂川を百間川まで伸ばし、その下流に堰を設けて、灌漑と塩分の流れ込み防止を図ったものだ。途中昭和8年にコンクリートに改修され、平成12年砂川の改修で一の堰と二の堰は統合されて役目を終えて撤去された(碑文より)。
緋鯉地蔵尊は、昭和43年頃行方不明になっていた地蔵尊が緋鯉が縁で見つかり、祠を再建した由(碑文より)。
さらに進む。砂川大橋が近くに見える手前右に沖新田八十八所霊場の七十七番札所がある。手前の石柱に「七十七番道隆寺」と読める。その側面に「七福元屋柳平」とあるのは願主か。
中には立像石仏。
その先砂川橋南詰に到着。10月に歩いた時は、砂川橋を渡り、上流に進んだ。
砂川の北岸から来た備陽国志の道とここで合流することになるが、本来は甚兵衛橋を渡ってくるので、さらに進んだところを合流点とする。
すこし行くと、前に見た祠がある。
さらに進んで、沖新田八十八ヵ所の七十三番まで行く。ここから先は備陽国志と同じ道だ。
新しい清内橋の東詰。橋から真っ直ぐ延びる道(県道215号線)は新しい道なので、左に曲り、川上(左)に少し上る。堤から見た宮道筋と土手道への入口。両備バスの沖元西大寺線の清内橋バス停(岡山方面行き)がある。(ここまでA・Bとも同じ)
こちらがかっての宮道。まっすぐ、東が見通せる。
少し進んで、左側に入る道がある。この道は百間川、砂川の土手したをぐるっと回る道で、少し先に木山神社がある。道標もある。(清内橋回りAの【寄り道】参照)。
元の道にもどって少し進むと、左側に清内橋のバス停がある。こちらは、西大寺バスセンター方面。県道215号線ができるまでは、こちらが幹線だったのだろう。
まっすぐな道をひたすら歩く。両側に家が少ない。「沖新田東西之図」を見ても、宮道の両側には家はほとんどない。地元の人と話したとき、「昔は川(用水)の水を飲んでいたから川のところに家が集まった」と言われていた。
宮道沿いの用水は砂川から少し離れている。きれいな水ではなかったのかも知れない。そうすると茶屋もなかったということか。
しばらく行くと左側に岡山東警察所の政津駐在所がある。
駐在所の斜め向かい右側に石仏。用水に渡した石板の上に鎮座されている。舟形の光背を背負われた座像石仏。線描のようである。右の写真は振り返って撮った。
左側に備前焼きの窯元らしい煙突が見えたり、右側に「ラジューム温泉」がある(左写真)。
右から来たやや広い用水が道にぶつかって道沿いに東に延びる。その反対側に祠がある。祠の横には沖田神社の大麻があった(右写真)。
用水と道はまっすぐ延びる。その先に上南中学校がある。その手前に祠がある。
中には座像石仏がおられる。祠の横の立て札に「本山寺七十番正一位 心像開全地蔵菩薩 正二位 心像先目地蔵菩薩」と書いてある。(先目には「せんげん」とふりがながあった)。沖新田八十八ヵ所70番札所のようだ。
道は中学校の手前で南北に分かれる。正面の樋は嘉平樋である。沖新田東西之図が描かれた頃、宮道はここから先に延びていなかった。
左(北)と右(南)両方歩いてみた。その結果、右(南)に下がって金岡に向う道は吉備温故の官道の牛窓往来候補から外した。右写真は左側を遠望したところ。そちら側に進むことにする。
北へ向う道の左側に祠がある。
上南中学校前から560メートルほど歩くと、君津インターの1号BOX(トンネル)が見える。君津の常夜燈から来た備陽国志の道である。右側の通行不能区域の先にB1トンネルが見える。12月に再調査したときに出てきたところである。
堀替橋を渡って砂川北岸を通って来た備陽国志の道、及びそれと合流した清内橋回りAとここで合流し、金岡・塩浜の道標へと進んで行く。
備陽国志の道との合流点へ進む。
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