牛窓往来・清内橋回り

清内橋回り

  1. 道筋の検討
  2. 歩行記録

  3. 清内橋回りの検討

    道筋の検討

     吉備温故秘録(以下「吉備温故」)の沖新田近辺の道筋を推測する過程で、以下の仮説を立てた。それを元に、「清内橋回りA」を定め、補遺として「清内橋回りB」を定めた。推測の根拠とともに検討経緯を示す。

    仮説1

     吉備温故秘録(以下「吉備温故」)の沖新田に関する記述と地図を見てみる。

    沖新田四番沖田宮前より、五番川内清内橋を渡り六番七番

    清内橋回りの牛窓往来図

     素直に読めば、沖田宮の前から清内橋を渡る、と書いてある。

     最初は「川内」を地名だと捉えたので混乱した。「川内」は、堀替橋の東(百間川の東、砂川の北)の地域である。清内橋を渡った後、川内を通るのは不自然だ。
     その後百間川がかっては二筋に分流し、東側が五番川、西側が宮川という名前であったことが「沖新田東西之図」(以下「東西之図」)によって判明した。
     前記の解釈を「五番川の内、清内橋を渡る」とした。(宮川は細く、橋も比較的小規模で話題に上らなかった、と考えた。図でも橋は書き込んであるが名前は書いていない)。

     その後、「沖新田東西之図」(以下「東西之図」)、「備前之国沖新田図」(以下「沖新田図」)に『牛窓道』と書き込まれた箇所があるのに気づいた。
     沖新田図には現在の堀替橋の位置(ただし、この部分でも百間川は分流しており、橋は川の東よりにかかっており、短い)にハンタイハシ(バンダイバシ?)があり、その西詰に『牛窓道』と書き込んである。
     一方東西之図には内七番から金岡新田に入ったところとその先、都合二ヵ所に『牛窓道』の書き込みがある。

     沖新田図の書き込みに着目するならば、牛窓往来はハンタイハシを渡り、清内橋を渡らない。つまり、調査報告7の地図(備陽国志が示すと思われる道筋)のままであり、官道の道筋変更はなかった、ということになる。
     その場合、吉備温故の沖新田以下の文書は経路を示しているのではなく、目印を補記している。

     津山往来を歩いたとき、吉備温故に同様の記述があり、うしろの絵図を元に「八幡宮」(現「天計神社」)の前を通るのではなく、目印として記したと判断したことがあった。ただし、牛窓往来(「牛窓港に至る六里二十八町」)には道筋を示す絵図がついていない。

     東西之図及び沖新田図を眺めながら、次のことを考えた。

    二つの絵図とも道筋を示す線の太さが異なる。太い線が幹線ならば、砂川を渡る甚兵衛橋(沖新田図では「長松ハシ」、東西之図には名前の書き込みはない)へ至る道は幹線ではない。幹線は北から南に流れてくる砂川の西岸を北上する道、及び流れの向きを変えて東から西に百間川に流れ込む砂川の南岸の道である。

     東西之図の脚注に用水や道の長さが記されている。そのなかに「貳拾八町貳拾九間 六番用水筋 牛窓道ヨリ沖堤迄」の表記がある。これは、牛窓道を基点として、沖堤迄の六番用水の長さが28町29間半あることを示している。
     東西之図に書き込まれている「牛窓道」は、この脚注の目印のためと思われる。絵図と脚注を参照し、甚兵衛橋から降りてきた道が東用水にぶつかって左折し、東に向う道筋を示していると判断した。
    砂川周辺図 砂川南の分岐

     このことから、次の仮説を立てた。

    【仮説1】
     東用水のところから君津の常夜燈を経て東に進む牛窓往来は備陽国志と吉備温故の両方の時代で牛窓往来(牛窓道)であった。
     なお、吉備温故の文章が往来の経路を説明したものであっても、この仮説と矛盾しない。

    仮説2

     東西之図、沖新田図の両方とも道路を示す黒線の太さを使い分けている。東西之図には「蘭術を以て之を測量」とあり、地形図自体は同じ沖新田図の両図とも、現代の地図と比べてもかなり精度が高い。
     仮に太い線を「幹線」、細い線を「その他の道」とすると、砂川北岸の備陽国志の道は途中まで太く書かれているが、甚兵衛橋(長松橋)北詰めに向う道は、その先砂川の北側を北上する道(太線)からの細い分岐として描かれている。
     さらに沖新田の周囲では、両図とも砂川北岸の道をもっとも太くしており、それについで仮説1の牛窓往来部分や宮道が太く書かれている。
     砂川南岸の道には、並木が描かれており、その下の用水沿いには家が多い。

    このことから、次の仮説を立てた。

    【仮説2】
     百間川の土手を遡上し、砂川の南岸を東に進む道筋が官道であったことを示す地誌などは未見であるが、利用の多い幹線であった。
     ※大日本帝国陸地測量部が明治28年に測図した「岡山」「西大寺」(二万分の一、岡山近傍16号、12号)では、上記のことは言えない。しかし、現段階での基礎としておく。将来何らかの確認がとれたら、肯定・否定のどちらでも追記する。

    仮説3

     調査報告7では牛窓往来の記述の冒頭に「沖元の清内橋を渡り、沖新田の宮道を金岡へ出て」と記述する(ただし、その後に続く具体的な経路説明及び地図には宮道のことはまったく出てこない)。

     上記東西之図の脚注では、南北に流れる用水のあとに、道筋の距離が記述される。左から順に「牛窓道」「宮道」「小仕切道」「大仕切道」と距離の下に道の名前が記述される。牛窓道と宮道は別に書いており、区域(内七番、六番、五番)ごとの距離も異なる。 さらに、宮道、小仕切道、大仕切道は北から南に並んでおり、一番最初にある牛窓道は最北だと思われる。

     このことから、次の仮説を立てた

    【仮説3】
     東西之図が描かれた頃、百間川の土手を遡上し、砂川の南岸を東に進む道が牛窓道であった。この道が、吉備温故秘録でいう官道である。
     仮説3の道筋と仮説1の経路を進むのが、吉備温故のいう「沖新田四番沖田宮前より、五番川内清内橋を渡り六番七番」である。この仮説に基づく清内橋以東の道筋を「清内橋回りA」とする。
     また、宮道は牛窓道ではない。

    拾 遺

    1.  仮説3で宮道は牛窓道ではないと決めたが、地元では知られた道なので歩いて見た。
      百間川岸からまっすぐ東進した宮道は上南中学にぶつかり、少し南に下がって県道215号線で金岡へ進む。
       しかし、東西之図では上南中学校のところは三間川用水であり、その先に道は続いていない(樋と書いており、家が書き込まれ、加平と名前が入っている。樋の管理人か)。帝国陸地測量部の地図でも、道は続いていない。
       宮道を通って金岡に進むには北か南に回らないといけなかった。牛窓へ直接行くことが目的であれば、北に進んで、備陽国志の道と合流する方が自然な気がするがどうだろう。もちろん金田天満宮に参拝するために南に回る人もいただろう。

    2. 牛窓往来に関する吉備温故の官道下の記述は広く知られている。しかし、「六里二十八町」という距離と道筋の文が紹介されるだけで、経路を具体的に解説したり、地図に落とし込んだりしたものを見たことはない。
       吉備温故の文章を紹介しながら、清内橋を渡らない(このサイトで備陽国志の道とした)経路を解説したり、地図で示したりして、なぜ清内橋を渡らないか、ということには一切触れない資料もけっこう見た(調査報告7もそのひとつ)。また、地元の方に尋ねても、ご存じなかった。
       このため、吉備温故の記述が目印説明ではないか、と思ったのだが、郷土のことでも時間がたてば情報による学び直しが多い。それが原因していると今では思っている。
      • 道を尋ねた人のなかで牛窓往来について知っておられた方が2人いた。どちらも清内橋を渡る道はご存じなく、堀替橋からの道が牛窓往来だ、清内橋を渡る道は聞いたことがない、と言われた。
      • 「沖新田開墾三百年史」「ええとこ発見図」(岡山市のサイトで閲覧可)ほか地元発行の資料のいくつかを見たがいずれも備陽国志の経路であった。
    3. 二つの絵図を見ると、砂川南岸の土手道には並木が続いている。地元の方の話では、これは松並木で、マツクイムシの被害で全滅したそうだ。
    4. 沖新田では井戸を掘っても塩水が出てくるので、川の水を飲んでいた。だから川の周囲に家が集まったということだ。
      用水の樋があるところには家があり、名前が書き込んである。樋の管理人かなあ、と思ったりした。干拓地で用水の管理は重要な仕事だった。
       宮道の周囲は家が少ない。横の用水はあまり良い水ではなかったのかも知れない

    清内橋回り歩行記録

    沖元から清内橋東詰まで

     歩行日:平成29年1月17日(有志全員)

     倉富・倉益の北端の土手道を歩いて、まっすぐ行くのが基準とする『備陽国志』の道である。清内橋回りは右に折れて南下する。
     沖新田八十八ヵ所霊場の83番札所の前を通る。
    百間川手前 百間川手前

     国道2号線牛窓バイパスに向ってまっすぐ南下する。
     9号BOXと書かれた小さなトンネルをくぐる。
    百間川横 9号Box

     バイパスの南側に出た先に路地道が続く。百間川は大正・昭和と大幅に改修され、堤防も変わっており、土手も高くなっている。土手下の道も新しい。
    交通量の多い土手直下の道(県道216号線)、その西側にも道がある。そのさらに西側に路地のような道(左写真)がある。道の進入角度などを踏まえて、この道が旧道であろうと判断し、細い路地道を進む。
    路地 路地

     そのまま進むと、路地を抜けた先に沖新田八十八ヵ所の31番と思われる建物がある。最初は公民館だと思ったが地元の人が「中に石仏がある」と教えてくれた。鍵がかかっていたが隙間から確認した。札所に出会う向きなどを検討して、9号BOXを出てからここまでの道筋は、選択した路地道で良いのではないか、と判断した。
     建物の前に指矢印の遍路道標がある。「三十一番 是ヨリ五丁」と読める。位置的にはこれが三十一番だと思う。おそらく道標を移設したのではないか。
    沖新田八十八ヵ所の31番 沖新田八十八ヵ所の31番道標

     建物の南側に石碑がある。右側のものは「奉納大乗妙典供養為菩提」と読める。
     建物の前を南に向って進む。ここからは路地はなく、土手から西へ二番目の道を歩く。右先に沖田神社の木々が見える。
    供養塔 沖田宮前の道

     すぐに沖田神社の北東端。ショウ儀型地神塔と石の祠がある。
     左側を通る道路(県道216号線)の先に土手に上がる階段がある。ここがかっての清内橋の位置だ。上って見たら旧清内橋がかすかに見えた。
    地神塔 旧清内橋西詰

     沖田神社の南東角に道標がある。
    石の材質のためか刻んだ文字が読めない。やっと「左 西大寺 船□」「左 九ばん 金岡」などが拾えた。一緒に歩いている人がもっと読んでいたがメモをするのを忘れた。
    沖田神社の道標 沖田神社の道標


    沖田神社参拝

     沖田神社は、元禄7年(1694)に現在の古宮神社があるところに祀られた。しかし、低地であったため、大風や高潮・洪水によって拝殿にまでも水が入り込んで建物にも被害が及んだので、宝永6年(1709)に一キロ北の現在地に遷宮された。「上道郡沖新田」(岡山文庫256,安倉清博著、日本文教出版、平成20年)より引用。
     横には、道通宮が鎮座されている(右写真)。
    沖田神社の御末社神社に関することは、沖田神社 道通宮のサイトでご覧下さい(サイト確認:平成29年2月8日)
    沖田神社 道通宮

     境内に津田永忠の座像がある。

    津田永忠座像岡山には津田永忠や池田光政の逸話は多い。この先進む沖新田では[光津]、[政津]という地名もある。

    【余録】
     沖新田と沖田神社にまつわる話として「オキタ」さんの人柱の伝説がある。鴨方往来を歩いた時も、お清明神と白馬さまという人柱伝説を読んだ。

     人柱伝説の個々の妥当性は判断できないが、いつも「その結果、工事がうまく行った」という終り方に得心がいかない。人柱を立てたからといって駄目な工事がうまくいくはずがない。人の思いが自然の摂理を左右することはできない。仮にできたら天災で亡くなる人はいなくなる。

     岡山藩主池田光政は淫祠とされた神社10,527社を廃祀させている。その光政の家来であることで一生を貫いた観のある津田永忠が、もし人柱による工事の成功を信じたのであれば、淫祠邪教の追放といってもずいぶん都合の良いものだと思える。


     

     百間川沿いに進み、新しい清内橋の歩道階段を上がる。清内橋はかなり長く、交通量も多い。速度を上げて走る車が横を通るのは楽しくない。
    清内橋への階段 清内橋

     百間川の上流側に旧清内橋が見える。右写真はあとで行ってみて、橋の東詰から西を見たところ。狭い旧百間川の幅である。つまりはこの部分が“五間川”?昭和三十五年三月と書いてあった。
    旧清内橋 旧清内橋

     新しい清内橋の東詰。橋から真っ直ぐ延びる道(県道215号線)は新しい道なので、左に曲り、川上(左)に少し上る。堤から見た宮道筋と土手道への入口。両備バスの沖元西大寺線の清内橋バス停(岡山方面行き)がある。
    土手からの眺め

    【寄り道】
     宮道を少し進んで最初に左に分岐する道を50メートルほど行くと木山神社がある。横の祠には数体の石仏。神社も祠ももともとは川沿いにあって、堤の改修で移動した(地元の方のお話)。
    木山神社 木山神社の石仏

     横にある道標は調査報告7p5にも取り上げられている。高さ135センチある。

    木山神社の道標 北側に向って進む人から見て正面上に石仏が彫られ、その下に「右九蟠スグ 和気郡尺所村 左西大寺」、右側面に「安政二卯八月吉?日」、左側面に「指矢印 左 あともどり?」などと読めた。
     尺所村は「しゃくそ」と読み和気郡の村らしい。現在は和気町役場の本庁舎があるようだ。この道標の向きで良いかどうかよく分らない。


    ここから清内橋回りAとBに分かれる。(清内橋回りB

    清内橋回りA

     歩行日:平成29年2月7日(I氏と二人)

     バス停の向かいに土手下道への入口がある。
     河原に進んでから360メートルほどで、2号線バイパス百間川橋をくぐる。
    百間川橋 百間川橋

     百間川橋の下をくぐったあとは、170メートルほどで、百間川と分かれを告げ、砂川南岸の堤になる。一番高いところは、近年改修した堤。改修に合わせてかっての堤のところにあった神社は移転した(地元の方のお話)。土手ののり面に見える道が、かっての土手の道。昔はみんな土手を歩いていた(これも地元の方のお話)。
     曲りきったあとは西に向ってまっすぐ進む。
    百間川橋 百間川橋

    【寄り道】
     地図に沖田神社とあったので寄ってみた。清内橋西の沖田神社とは関係がないそうだ。やはり、前はもっと土手よりにあった由。移築は昭和30年代頃だったとのこと(いずれも地元の方のお話)。鳥居に安政六己未年と刻んであった。
     中には小さな社が鎮座されている。
    沖田神社 沖田神社

     神社の前を曲りきった用水沿いの道(昔の土手の内側に延びている)。この道も沖新田東西之図に描かれている。
     政津までまっすぐである。「沖新田東西之図」では、この辺家が多い。最初この道が往来かと思って歩いた。あとで土手道だろうと判断して、歩き直した。

    道地元の方に伺った興味深い話。

    この道は昔は狭くリヤカーがやっと通れるくらいだった。用水を埋めて道を広げた。
    宮道はその頃でもバスが通っていた。
    昔は川の水を飲んでいたから、川の近くに家が集まっていた。

     もとの道に戻って進む。ここから1.5キロほど真っ直ぐである。祠がいくつもある。遍路道でもあったのか。
     最初の祠。道の右側。座像石仏がまん中、その横は立像に見える(左写真)。
    さらに行くと、少し上り坂になる。惣九橋を架けるために道を上げている。橋のたもと右側に祠。沖新田八十八所霊場の八十番札所である(右写真)。前に、砂川の北岸を歩いた時にも、拝礼した。
    砂川南の祠 沖80番

     惣九橋の南詰を横切るとその先は土手道である。土手道はあとからできたところだから、橋の手前の道を右に降りる。降りて道路トンネルをくぐり、土手根の公会堂の横を左に入ると、右側にまっすぐ道が延びている。
     橋の南詰をそのまま土手まで行って、下に降りても良いが、土手根の公会堂は一見の価値がある(右写真)。
    惣九橋 土手根公会堂

     すぐ先にブロック作りの祠。光背を背負われた石仏。
     その先右側に小さな神社があった。進行方向では後ろの黒板壁が見えた。お酒と塩が奉納?してあった。写真は少し先から振り返って撮った。
    祠 砂川南の神社

     しばらく行くと左側に二の堰跡の碑。すぐ先の右側に緋鯉地蔵尊の祠がある。 二の堰跡

     二の堰は砂川を百間川まで伸ばし、その下流に堰を設けて、灌漑と塩分の流れ込み防止を図ったものだ。途中昭和8年にコンクリートに改修され、平成12年砂川の改修で一の堰と二の堰は統合されて役目を終えて撤去された(碑文より)。
     緋鯉地蔵尊は、昭和43年頃行方不明になっていた地蔵尊が緋鯉が縁で見つかり、祠を再建した由(碑文より)。
    二の堰跡 緋鯉地蔵尊

     さらに進む。砂川大橋が近くに見える手前右に沖新田八十八所霊場の七十七番札所がある。手前の石柱に「七十七番道隆寺」と読める。その側面に「七福元屋柳平」とあるのは願主か。
     中には立像石仏。
    沖77番札所 沖77番札所

     その先砂川橋南詰に到着。10月に歩いた時は、砂川橋を渡り、上流に進んだ。
     砂川の北岸から来た備陽国志の道とここで合流することになるが、本来は甚兵衛橋を渡ってくるので、さらに進んだところを合流点とする。
     すこし行くと、前に見た祠がある。
    砂川橋 砂川南の祠

     さらに進んで、沖新田八十八ヵ所の七十三番まで行く。ここから先は備陽国志と同じ道だ。


    砂川沿いの道6

    備陽国志の道との合流点に進む


    清内橋回りB

    歩行日:有志全員で歩いたのは平成29年1月17日

     新しい清内橋の東詰。橋から真っ直ぐ延びる道(県道215号線)は新しい道なので、左に曲り、川上(左)に少し上る。堤から見た宮道筋と土手道への入口。両備バスの沖元西大寺線の清内橋バス停(岡山方面行き)がある。(ここまでA・Bとも同じ)
    土手からの眺め

     こちらがかっての宮道。まっすぐ、東が見通せる。

    宮道遠望  清内橋回りBは、宮道を通る。宮道は仕切り道である。沖新田は百間川で東西に分かれる。西側では二本、東側では四本、東西に伸びるまっすぐの道がある。
     西側では仕切り土手、東側では仕切り道と呼ばれる。
     また、宮道は沖田神社の正面に通ずるのでそう呼ばれるが、先に道が出来ていて、その後神社が来た(古宮から移転)ようだ。(「上道郡沖新田」p53を参考)。

     少し進んで、左側に入る道がある。この道は百間川、砂川の土手したをぐるっと回る道で、少し先に木山神社がある。道標もある。(清内橋回りAの【寄り道】参照)。
     元の道にもどって少し進むと、左側に清内橋のバス停がある。こちらは、西大寺バスセンター方面。県道215号線ができるまでは、こちらが幹線だったのだろう。
    木山神社入口 清内橋バス停

     木山神社方面の分岐から210メートルほど進んだ右側にショウ儀型地神塔がある。背後が見えるので気づきにくい。写真は前に回って撮った。「天照皇太神」以外はよく見る五神表記だ。「天照皇太神」は天照大神と同じだと理解していたが、ネットで調べたら別の説明もあるようだ。この地神塔ではどうかよく分らない。
     冬枯れた田んぼが広がる。夏に来れば暑いだろうが気持ちが良いだろう。
     地神塔から5分ほど歩くと、道の左側に木野山神社が鎮座されている。横には祠があり、立像石仏と座像の石仏?が居られる。間の石柱は「奥」という字が読めた。
    沖新田には何カ所か勧請されている。コレラの流行のとき多くの参詣があったという。 (沖新田開墾三百年記念史p387-389)
    宮道の地神塔 木野山神社

     まっすぐな道をひたすら歩く。両側に家が少ない。「沖新田東西之図」を見ても、宮道の両側には家はほとんどない。地元の人と話したとき、「昔は川(用水)の水を飲んでいたから川のところに家が集まった」と言われていた。
     宮道沿いの用水は砂川から少し離れている。きれいな水ではなかったのかも知れない。そうすると茶屋もなかったということか。

     しばらく行くと左側に岡山東警察所の政津駐在所がある。
     駐在所の斜め向かい右側に石仏。用水に渡した石板の上に鎮座されている。舟形の光背を背負われた座像石仏。線描のようである。右の写真は振り返って撮った。
    政津駐在所前 宮道の石仏

     左側に備前焼きの窯元らしい煙突が見えたり、右側に「ラジューム温泉」がある(左写真)。
     右から来たやや広い用水が道にぶつかって道沿いに東に延びる。その反対側に祠がある。祠の横には沖田神社の大麻があった(右写真)。
    温泉 沖新田の祠

     用水と道はまっすぐ延びる。その先に上南中学校がある。その手前に祠がある。
     中には座像石仏がおられる。祠の横の立て札に「本山寺七十番正一位 心像開全地蔵菩薩 正二位 心像先目地蔵菩薩」と書いてある。(先目には「せんげん」とふりがながあった)。沖新田八十八ヵ所70番札所のようだ。
    中学校前 沖新田70番札所

     道は中学校の手前で南北に分かれる。正面の樋は嘉平樋である。沖新田東西之図が描かれた頃、宮道はここから先に延びていなかった。
     左(北)と右(南)両方歩いてみた。その結果、右(南)に下がって金岡に向う道は吉備温故の官道の牛窓往来候補から外した。右写真は左側を遠望したところ。そちら側に進むことにする。
    上南中学校前 上南中学校前から北を見る

     北へ向う道の左側に祠がある。
    中学校北の祠

     上南中学校前から560メートルほど歩くと、君津インターの1号BOX(トンネル)が見える。君津の常夜燈から来た備陽国志の道である。右側の通行不能区域の先にB1トンネルが見える。12月に再調査したときに出てきたところである。
     堀替橋を渡って砂川北岸を通って来た備陽国志の道、及びそれと合流した清内橋回りAとここで合流し、金岡・塩浜の道標へと進んで行く。
    備陽国志の道との合流点へ進む。
    中学校前 中学校前から北を見る



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