日置帯刀摂州神戸通行之節外国人江発砲之始末書27

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日置帯刀摂州神戸通行之節外国人江発砲之始末書の27ページめ

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*** 解読文 ***

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先達て、外国人行縺一条ニ付テは、被対
朝廷御謹慎も被仰出候儀、就ては被
仰付方も可有之処
朝廷向より寛大之
御沙汰振も有之、殊ニ此度
御東行被蒙仰候、付ては御多事
之折柄、旁以格別ニ不及遠慮旨被
仰出候旨、池田兵庫被申伝

 慶応三年丁卯十二月当藩へ御達有之、摂州[注①]
 西ノ宮札之辻固、大洲藩より相替候様、御沙汰ニ付右
 警備家来日置帯刀へ申付、翌戊辰年正月四日
 帯刀義同勢召連岡山出立、同十一日摂州神戸町通行之砌
 先手共既に外国人居留地へ差掛り候折柄、外国人共
 両人横合より猥ニ同勢之中へ割込候ニ付、種々相制候へ共
 聞入不申候処より無拠及刺撃、遂ニ発砲ニ至、彼よりも
 兵隊繰出、一時搏合候へとも、素々不慮之事より差


【注①】事件についての藩主からの上申書の説明文か。同内容の文章が、復古記第一冊巻十八ページ五二九、にある。本文書では、これに続いて藩主池田茂政が上申した報告が続いているが、復古記では、この説明文は正月十一日の項に、報告は同十四日の項に掲載されている。
 また、御奉公書上、日置英彦八巻(池田家文庫D3-27)に同じ文がある。 次の解読文へ

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*** 口語文 ***

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 先に外国人と行き違いざま争いとなった一件については、朝廷に対して謹慎も申し出られた。それについて、(厳しく)仰せ付けらることもあり得たが、朝廷より寛大な御処置をいただいた。
 特にこの度、東行を命ぜられ、諸事多端のこの時、いずれにしても格別に遠慮には及ばない旨、仰られたと、池田兵庫により申し伝えられた。

  [〇事件についての上申書の説明文と思われる文書]
慶応三年丁卯十二月に当藩へお達しがあり、摂州西宮札之辻の警備を大洲藩と交替するよう命ぜられた。
 警備を家来日置帯刀へ申付け、翌戊辰(慶応四)年正月四日に帯刀は一隊を引き連れて、岡山を出発した。
 同十一日摂州神戸町を通行した際、先手の者達は既に外国人居留地へ差掛かっていた。その時、外国人二人が横合いから強引に行軍の中へ割込んだので、いろいろの方法で制した。しかし、聞入れないので、やむを得ず(槍で)突き、最終的に発砲するに至った。外国人も兵隊を繰出し、一時撃ち合いになったが、もともと思わぬ事から


東行 :日置英彦(七~九)下ページ六三三に同文があるが、御奉公書上、日置英彦八巻(池田家文庫D3-27)では、この文の前に殿様義江戸御鎮台補兼御警衛被為蒙・・・」という文章がある。岡山藩が江戸鎮台補および江戸警備を命ぜられて東上することを指していると思われる。 次の口語文へ

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