先達て、外国人行縺一条ニ付テは、被対
朝廷御謹慎も被仰出候儀、就ては被
仰付方も可有之処
朝廷向より寛大之
御沙汰振も有之、殊ニ此度
御東行被蒙仰候、付ては御多事
之折柄、旁以格別ニ不及遠慮旨被
仰出候旨、池田兵庫被申伝
慶応三年丁卯十二月当藩へ御達有之、摂州[注①]
西ノ宮札之辻固、大洲藩より相替候様、御沙汰ニ付右
警備家来日置帯刀へ申付、翌戊辰年正月四日
帯刀義同勢召連岡山出立、同十一日摂州神戸町通行之砌
先手共既に外国人居留地へ差掛り候折柄、外国人共
両人横合より猥ニ同勢之中へ割込候ニ付、種々相制候へ共
聞入不申候処より無拠及刺撃、遂ニ発砲ニ至、彼よりも
兵隊繰出、一時搏合候へとも、素々不慮之事より差
先に外国人と行き違いざま争いとなった一件については、朝廷に対して謹慎も申し出られた。それについて、(厳しく)仰せ付けらることもあり得たが、朝廷より寛大な御処置をいただいた。
特にこの度、東行を命ぜられ、諸事多端のこの時、いずれにしても格別に遠慮には及ばない旨、仰られたと、池田兵庫により申し伝えられた。
[〇事件についての上申書の説明文と思われる文書]
慶応三年丁卯十二月に当藩へお達しがあり、摂州西宮札之辻の警備を大洲藩と交替するよう命ぜられた。
警備を家来日置帯刀へ申付け、翌戊辰(慶応四)年正月四日に帯刀は一隊を引き連れて、岡山を出発した。
同十一日摂州神戸町を通行した際、先手の者達は既に外国人居留地へ差掛かっていた。その時、外国人二人が横合いから強引に行軍の中へ割込んだので、いろいろの方法で制した。しかし、聞入れないので、やむを得ず(槍で)突き、最終的に発砲するに至った。外国人も兵隊を繰出し、一時撃ち合いになったが、もともと思わぬ事から