日置帯刀摂州神戸通行之節外国人江発砲之始末書32

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日置帯刀摂州神戸通行之節外国人江発砲之始末書の32ページめ

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*** 解読文 ***

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朝裁彼是申上候心底無御座候、此段御請
申上候様申付越候、尤国情之義ハは重役より
可申上候間宜御亮察希候 以上
正月廿二日備前少将内
澤井宇兵衛
右国情之義ハ、於当藩癸亥、甲子以来攘夷之[注①]
叡慮奉戴仕候より、一藩敵愾之気固詰仕、外国
人之為越度ニ相成候てハ、御国辱無此上義と
御処置振一同仰望罷在候国情ニ御座候間、此辺
之情実、御斟酌被為下度段、詰合之者より御役
方へ申上置候

一 同廿二日御届[注②]
備前守家老日置帯刀義
御用被為在候間、早々上京仕候様被
仰出候ニ付、夜前御当地参着仕候、此段御届
申上候、以上
正月廿七日備前少将内
澤井宇兵衛


【注①】岡山藩の国情説明。
【注②】日置帯刀、京都到着の報告。復古記にも同じ文がある。(第一冊巻二十三六五二頁)。
 しかし、日置英彦奉公書八では、十九日は西宮で池田伊勢と談合、同所に宿泊、二十日に森村に帰って宿泊、二十二日に森村を立って二十四日に京都に着き、『京着仕御館御小屋江罷越相慎居申候事』とある。この日程は、津田孫兵衛書簡「辰正月廿四日西宮より早朝達」(金川町史ページ三六四から三六五。御津町史にも掲載されているが、『酉宮』となっている。)で岡山へ報告された帯刀の行動とも一致する。
 また、文末の日付二十七日のものを、二十二日に届け出るというのもおかしい。二十七日が正しい届け出日の可能性もあるが、それでも奉公書とはあわない。
 また、前記日置英彦奉公書を基準にした場合、日置帯刀が事件の顛末を書いて提出した『忠尚申状』の提出日として大日本外交文書第一巻第一冊一一四で上げる日付(一月二十一日)と合わない。これは、帯刀名の文書は同人の報告をもとに誰かが代筆したか、帯刀自身が事前に書いていた可能性もある。
 この齟齬が何によるか検証できていない。今後の検討に任せたい。 次の解読文へ

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朝廷が裁断されたことにかれこれ申上げる気はまったくありません。このことをお請けするよう言って来ました。備前藩としての国情は、重役から申上げるので事情をご理解いただきたくお願いいたします。以上
正月二十日 備前少将 家来
澤井宇兵衛
  [〇岡山藩の国情説明]
 前記の国情につきましては、当藩は癸亥(文久三年)、甲子(文久四年・元治元年)から攘夷の叡慮を奉戴して、藩がすべて攘夷の気持ちで固くまとまっております。このため、外国人のために失策になったとなりました場合は、当藩の恥はこの上ないことと、御処置の結果を、藩内一同仰望している国情です。この辺の気持ちを御斟酌下されたく、(京都)詰合の者からお役方へ申上げます。

  [〇帯刀京都到着の報告]
一 同二十二日お届け
 備前守家老、日置帯刀について、御用があるので、早急に京に上るよう、仰せられましたので、夜前、御当地に参着いたしました。このことをお届け申上げます。以上。
正月二十七日 備前少将 家来
澤井宇兵衛


【補注】
 岡山藩の国情 : 癸亥(文久三、一八六三)年に藩内尊攘派の策動により、岡山藩主となった池田茂政は、水戸、徳川斉昭の九男であった。藩主となって以降、尊攘翼覇の立場で活動する。甲子(文久四、二月三十日から元治元)年に家臣に対し「尊攘之義」を諭示している。(岡山県史第九巻ページ一一二から一二二。尊攘之義は、史料草案七)
 仰望 :朝廷が正しい判断をするであろうと期待して望んでいる、の意味を反映させるため、原文のままとした。 次の口語文へ

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