東北支援ボランティア01

Help-Toshokan参加私記

目 次

1.はじめに
  お読みいただく前に。日図協とよみもの屋。申し込んだきっかけ
2.申込から出発まで
  手続き。準備。持ち物。出発の時の装備
3.出発から岡山に帰るまで
  1)2011年5月19日  岡山→東京(日本図書館協会)→気仙沼
  2)   5月20日  気仙沼 小学校2校・気仙沼市役所・気仙沼市立図書館
  3)   5月21日  気仙沼 総合体育館・松岩公民館→南三陸町→気仙沼
  4)   5月22日  気仙沼→東京
  5)   5月23日  東京→岡山
4.岡山に帰ってから

1.はじめに

1)お読みいただく前に

 Help-Toshokanは、日本図書館協会(以下「日図協」)が被災地支援のために行っている事業である。 この私記は大学図書館を2年前に退職(平成23年当時)して、ネット古書店を運営しているよみもの屋がHelp-Toshokan第3回被災地図書館支援隊に参加した時の私的な記録である。
 知らない組織の中に突然一人で飛び込むと、ルールが分からなくて他から見たらヘンな行動をすることが多い。まるきっり知らない組織ではないが、12年以上前に脱退した日図協である。 その前も会員である以上の活動をしていない。生来のおっちょこちょいのために十分な下調べをせずに応募したこと、日図協のホームページが情報の詰め込み過ぎで、外部の人間が下調べをするにはわかりにくいものであったことなどから、予想したものと違う活動を行うこととなった。自分もとまどったし、周囲にも迷惑をかけた。だが、災害支援に予定調和的な目的はない。よみもの屋にとっては貴重で有益な体験であった。
 この私記では、それらの偏見や思いこみを含めてできるだけ正直に書いている。途中で考えが変わったこともある。できれば最後まで読んでいただきたい。途中で止められると、Help-Toshokanやよみもの屋に誤解を抱かれる可能性がある。よみもの屋は誤解されても大したことはないが、Help-Toshokanを誤解されたら困る。
(日図協のホームページではHelp-Toshokan及び被災地図書館支援隊について表記の揺れがかなりある。いずれ統一されると思うが、私記ではここに表記されているものを採った)

2)日図協とよみもの屋

 大学図書館に勤務していると日図協はそれほど近い存在ではない。大昔、よみもの屋は日図協を大事だと思う少数派に属していたと思う。
 岡山県は、岡山県図書館協会(以下「県図協」)の中に大学図書館の部会があり、館長や事務の責任者(名称は法人で異なる)が順番で理事になる。また、行事予定などを企画する委員会のメンバーも選出する。その頃所属していた図書館から県図協に参加した。県内の町立図書館が業務委託を検討するという話題が出た頃で、公共図書館の人たちと一緒に視察に行った。「図書館雑誌」は職場に来ていたので個人的なメリットはなかったが、図書館界を守る団体だと思って日図協に入った。全国図書館大会 新潟大会(1995年)に参加し、その後知り合いのいた佐渡の金井町立図書館などを巡った後、「佐渡トライアルフェスティバル」に友人と参加したのも遠い思い出である。
 12年前に図書館から異動になったのをきっかけに日図協を脱会した。職員問題(その中でも大学図書館の職員問題)に日図協がきちんと対応していないと思えたからだ。東洋大学附属図書館の司書配転問題を調べてみたが、労力の割に勝てそうになかったので裁判を起こすのを諦めた。日図協が日本看護協会ほど強かったら、と思ったこともあった。(日図協の組織実態を考えるとこれは過大な期待である。過大な期待をするとお互いに不幸なことは分かるのだけど、一介の司書に他に期待できそうな組織はなかった。)
 5年間事務局で仕事をした後、図書館に復帰するために千葉県に移った。千葉県で5年間大学図書館に勤めたが、日図協だけでなく地域大学図書館の集まりにも積極的に参加することはなかった。全国図書館大会岡山大会の時は、銚子にいたと思う。

3)申し込んだきっかけ

 大学図書館の後輩が館外へ異動した。彼は僕が所属している勉強会のホームページを管理している。新しい職場になじむのが精一杯であろう彼に継続して管理させるのは酷だな、と思った。よみもの屋が代わって管理しないといけないかもと思って、該当ホームページを閲覧した。興味のままに、そこから順々にリンクをたどって日図協のホームページ「HELP-TOSHOKAN(被災地読書支援隊)(2011.4.15)」という項目に行き当たった。 「目的:今回の地震・津波・原発事故などで読書環境を奪われた被災地に直接間接の支援を行う。現地の図書館と協議をしながら、支援を行っている団体、個人が共同して支援を行うようにする。」とある。素晴らしい。単なる図書館支援ではなく、より根本的な読書を支援するというのか、と思った。「イギリスの貸本文化」などを読んで読書の歴史を具体的に知った後だった。そのとき応募を決めた。おっちょこちょいだな、と思う。画面を下に送ると、「支援内容:児童書を中心に域内の分館や施設に避難している子供たちへの配本、読み聞かせ、上映会など」とある。各項目の比重を電話またはメールで問い合わせれば活動内容について事前に把握できていたのに、自分の思いこみで「日図協だから大量の本、つまり本運びは必要」と考え、レンタカーの運転ならできないこともないだろう、と思った。思いこみの前提に、「日図協が被災地の読書支援として読み聞かせだけをするはずがない」という潜在意識があったように思う。大学図書館しか知らないよみもの屋にとって読み聞かせは孫を連れて一二度参加したことのある平和なモノで、図書館活動の中心ではなかった。
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2.申込から出発まで

1)手続き 

 4月18日 ホームページに書かれているメールアドレスにメールを送った。普通車であれば運転可、ただし夜は苦手と書いた。返事が来たのが4月19日。この時は第3回でも第4回(5月26日〜29日)でも良いと書いた。両方行っても良いか、とも考えたが、寝袋宿泊・水食料持参ということで1回だけにした。
  4月25日 個人票が添付ファイルで送られてきた。記入し返送したのが、4月26日。住所氏名、緊急時の連絡先、血液型、経費を立て替えた場合の振込先、他にはお話会ができますか?という質問事項しかなかった。少し違和感があったが、大きな疑問は起きなかった。お話会については「やらせてもらうならやってみる。わかっていれば練習して行く」と書いたが、特に指示はなかった。
 5月13日 名簿と概要が添付ファイルで送られてきた。個人情報の入ったエクセルファイルを添付で送るのは、前の職場では許されなかったな、と思ったりしたが、びっくりしたのは名簿にある分担表である。10名の参加者のうちリーダー・サブリーダー、よみもの屋をのぞいた7名がお話会の担当である。リーダーもお話会をするらしい。お話会をしないのは、サブリーダー(国立大学附属図書館定年退職)とよみもの屋の2人、よみもの屋の担当はメルマガとカメラとなっている。お話会ができない人が参加して来たので、配置に苦慮したな、という感じがした。それはそれでがんばろうと思ったが、震災が起きてから、写真を撮ることについて考えていたことがあったので、「余分な写真は撮りたくない」というメールを5月14日送った。これで自分も混乱し、周囲に警戒を抱かせたような気がする。また、5月13日のメールで従来の寝袋・水・食料持参から民宿宿泊へと変更があったことを初めて知った。


写真について考えたこと


 自分の家が瓦礫になって、隣の家も瓦礫になって、友達の家も瓦礫になった。自分のふるさとが、そんな瓦礫の町になったら。そんな瓦礫の町のあちこちに、自分の知り合いだった人の遺体が埋まっている。そんな中で立ちすくんで悲しんでいる自分、瓦礫の町を写真に撮られたいと思うだろか。僕と被災者はたまたま居たところが違っただけだ。僕らは同じ平成の日々を暮らす日本人だ。そう思ったら写真を撮りたくない、と思った。
 被災地でも子供は笑う。大人もほほえむ。でも、その奥にあるかも知れない哀しみや不安をどこまで感じることができるだろう。報道カメラマンが撮ってくれた写真、映像でもう十分。
 安易に写真を撮る現代の風潮に染まっていた自分にいつからか小さな疑問を持ち始めていた。宣伝を重視する企業戦略にいつからか反発を感じていた。大学の学生集めでもPRが力説された。全ては宣伝のために利用された。よみもの屋だって図書館や図書館員が役に立つと思ってもらいたくて、図書館としての業績を一生懸命に宣伝したこともある。でも宣伝の効果は一過性のものだ。組織から離れた今は、できるだけ本質を追うようにすべきだ、と思うようにしている。それでも時々宣伝に走りたくなる自分もいる。でも、今度のことではそういう自分を認めてはいけないと思った。自分を宣伝するための写真は撮らないようにしよう。自慢する心がどこかにあるから神経質になる、という批判もあるかも知れない。どこかにあるかも知れない。でも、その心に振り回されなければ良いのではないか。

写真を撮るとき礼を失わないこと。公開に気をつけること。つまり、俳優でも政治家でもない普通の人の顔を了解もなしに、安易に公開の資料やネットに載せない。これらの配慮をすれば、記録としては有用である。


2)準備 

 4月上旬から始めた禁酒を続け、体力作りをすることにした。毎日腕立て伏せをし、近くの低山(龍ノ口山 標高257メートル)に週2回登ることにした。先に鉄板の入った作業靴を常時履いて重さになれる訓練をした。運転もそれで行った。夜更かし型の生活習慣を修正しようとしたが、旅立つまでに区切りをつけたいこともあり、むしろ夜更かしと寝不足が続く結果になった。
 5月13日までは水・食料・寝袋持参との指示だったので、この期間のほとんどをその準備に費やした。4日間の水・食料持参で生活したことがなかった。集合場所である日図協までの移動、現地での移動も考えて、できるだけコンパクトにしなくては、と思った。最初はカップラーメンを何種類か買い込んだ。2食続けると辟易したので、アルファ米のエビピラフ等を用意した。水は500ミリリットルを9本。コンロは何種類か持っていたが一番普通の携帯バーナーが行方不明だった。使用環境が不明の情況では、この型が一番適している気がした。迷った末、買い直した。テレビから流れている被災地の現状、水や食料持参等の情況を考えると若干の怖さもあった。周囲で母の日の祝いをしていたので、父の日の祝いと誕生祝いを合わせて、イワタニ・プリムスのP153を買ってもらうことにした。家族を背中にしょっていこうと思ったのだ。みんな忘れていると思うが、最初に家族で野外で食べたご飯(雑煮作ったような気がする)を炊いたのが、プリムスのバーナー(行方不明。折りたたみでない古いタイプ)だった。操作に慣れるために、買ってから毎日1度はこれでお湯を沸かし、珈琲を飲んだり、カップラーメンを食べた。
 お話会対策としてはブックオフで「三年寝たろう」を買ってきて、里帰りしていた孫に一度読んで聞かせた。その後はやらなかった。おそらくやることはないだろうと思ったのと、万一担当することになったら、子供達に一生懸命話しかけたらいいんだ、と決めていた。日本の民話4の宮城編を読んだが、これはお話会対策というより、どんな地方か知りたかったから。5月13日以降のメールでメンバーの一人から「恐れずにやってみたら」というメールをもらったので、「三年寝たろう」もう一度読んでみた。本来の民話から、教訓調に改作してあったのに気づいたので、これは嫌だな、と思って、子供に読んでやったことのある「からすのパンやさん」を新たに買った。2冊をフィルムコーティングして、持って行くことにした。この時は、素朴な朗読でもいいのではないか、という気があった。
 他に「三陸海岸大津波」(吉村昭著 文春文庫)を読んだ。何度も悲惨な被害に遭いながら、それでも海沿いに棲む人間。単純な悲劇というだけでない何か不可解なものを感じた。その感覚は、被災地を移動する間、心のどこかにいつもあった。

3)持ち物

 何度か入れ替えた。最初は水・食料、寝袋持参なので段ボール箱を一つ持って行く(フレームに車のついたものに乗せる)つもりだったが、最終的に旅行用のキャリーバック、デイパック、ウエストポーチにした。ウエストポーチは大きいと腰を痛めるし、運転もしにくいので小型にした。
(内容)
 ・キャリーバック 下着・靴下 4日分、ズボン1(着替)、寝間着(トレーナー上下)、Yシャツ2、タオル3、歯ブラシ・ひげそり、カメラと携帯の充電器、本(からすのパンやさん、三年寝たろう) ポケットラジオ
 ・デイパック カメラ2台、タオル1、懐中電灯、カッパ、めがね(中近。遠近が壊れていた。修理してもっていこうかと迷ったが結局持って行かなかった。カーナビの設定の時困った)、薬(シロチン、正露丸、カットバン)、多機能ツール(ナイフなどが内臓された折りたたみペンチ)、予備食(ソイジョイ、お菓子)、本(いま自然をどうみるか、法然と親鸞の信仰−上)、健康保険証、インナーブーツ(ブーツの中にはく防水の長い靴下のようなもの。トライアルをしていた時のもの。長靴が苦手なので水の中を歩くことになったら使うつもりで)、防塵マスク(現状では必須。瓦礫のあるところでは粉塵が飛んでいる−目に見えない。サブリーダーはのどをやられたそうだ)、ビニール手袋
 ・ウエストポーチ 手帖−鉛筆付き、財布(免許証)、携帯電話

4)出発の時の装備

 靴−作業靴(鉄板入り)  服−木綿の作業ズボン、長袖Tシャツ(トライアルのジャージ。派手なデザインなので迷ったが、これが一番便利だった)、ウインドブレーカー、キャップ(防水)  

5)その他

 5月18日、新幹線の往復乗車券・東京までの新幹線特急券を購入。日図協へ再加入の手続きをする。
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3.出発から岡山に帰るまで

5月19日(木曜日)

4時30分起床。
5時38分 JR津山線備前原発。
−早朝の田舎の駅の大荷物− −山際の朝日すずめも朝ご飯− −ボランティア列車に乗ったら旅は旅−

支援隊のベスト6時8分 岡山発のぞみ(始発)。前夜遅かったので、車中爆睡。9時33分東京駅着。
タクシー乗り場が行列していたので、日図協までキャリーバックを転がして歩く。最後の左折を通り越して、ぐるっと回る。ずっと昔来たときも同じように間違えたのを思い出す。
 集合時間10時に10分遅れる。もう積み込みが始まっている。車はベンツのトラックをベースとしたキャンピングカーとライトエース。ライトエースがレンタカー。
2年前までステップワゴンを運転していたので、ライトエースなら運転できると思ったが、キャンピングカーは無理だ。それでも言われれば運転する気だったけど、言われなかった。(後で第1回の参加者に事前に配布された資料を見たら、車の説明があった。第3回のものにはなかった。なぜだろう。こういった不可解な点がいくつかある。理由は不明)。背中に「Help-Toshokan 図書館支援隊」と入った黄色の薄いビニールベスト、氏名と緊急連絡先が記載された首から提げるホルダー、ボランティア保険の証書を渡される。ボランティア保険には協会で入ってくれたようだ。
 贈呈用図書900冊、大型本、紙芝居等お話会用の器材、各自が持ってきたものと日図協で準備したもの(未確認)の両方があるようだ。それと各自の荷物。自己紹介と注意事項の伝達の後、キャンピングカーに6人、ライトエースに4人乗り込む。

10時40分、日本図書館協会を出発。途中の経路はよく分からない。おそらく首都高速、東北自動車道を経由。
12時 佐野SA(栃木県佐野市)で昼食・給油。よみもの屋はフライ定食を食べたような気がする。
14時50分 国見SA(福島県国見町) トイレ休憩。玉こんにゃくを食べる。油麩の試食をする。美味。誰かが買ったサクランボももらったがおいしかった。

18時 一関市内で夕食。一関IC(メモがないので推測)を降りて、市内千厩の焼き肉屋で夕食(冷麺と何かのセットを食べた)。外に出るとキャンピングカーのタイヤがへたっている。パンク?焼き肉屋の店員に自動車修理工場の場所を聞く。近くにありそうだけど、時間が遅いのでやっていないかも、と言われる。途中から同行する文科省の二人を迎えに行くライトエースと分かれ、キャンピングカーは修理工場へ向かう。途中で思いついて、道路際の三菱自動車のディーラーに飛び込む。バルブの劣化。バルブを交換する。待っているあいだ、珈琲をご馳走になり、アイミーブに試乗させてもらう。交代で5人。
料金も安かったようだ。

東日本三菱自動車販売株式会社 せんまや店のみなさま、ありがとうございました。本当に助かりました。

21時 全員が宿泊予定の民宿に揃った。遅いので風呂はなし(下水が壊れているので排水に時間がかかる。風呂は21時過ぎまで)。
震災地図書館への支援状況、翌日の行動予定が説明された。そのとき、たくさんの寄贈図書の受入先が決まっていないこと、前に要望があったカウンター当番が不用になったことなどが話される。何が必要か、という情報が伝わってくるのが遅れる気がする。伝わって来た時には、情況が変わっている。この通信時代に。ロボットにしても通信網にしても、平時利用に偏りすぎているのが、日本の技術の特色のような気がする。今回の情報の伝達と対応のずれは、通信技術だけの問題ではないが、通信技術が十分対応していれば、対策を講じるスピードももっと上がったはずだ。
  運転もしない(カーナビの設定はした)、読み聞かせもしないのでは、自分の役割が分からない。一応カメラとメルマガ担当なので、一生懸命写真を撮り(ただし、記録に徹した)また、メモをとりまくった。しかし、エネルギーは余る。ミーティングの時日図協のホームページの改修や、ボランティアの申込を職種(?できること)別に整理して、必要な時にピックアップする仕組みを作る提案をしたけど、うまく伝わらなかったようだ。(ここからは想像だからまちがっているかも知れない)支援隊は未知の人が集まっている。特によみもの屋は日図協関係者が通常接する人とはキャリアが異なるし(田舎の私立大学図書館員)、理屈が多い(カメラでの発言が災いした)。ほら吹きだったり、かき回すだけかき回して放り投げたり、何かに利用するかも知れない等と疑われたのかも知れない(大げさか)。その後、お話会担当者7名は具体的な打ち合わせと練習を行っていた。歯ブラシが見あたらない。歯が磨けなかった。
 男性5人(支援隊4人、文科省の課長補佐1人)で一部屋。誰かが寝言を言い、誰かがいびきをかき。寝不足のはずだけど緊張しているのか寝付けなかった(翌朝そういうと、よく寝てたよ、と言われた。そのときはよみもの屋も寝言やいびきをかいていたのだろう)。
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5月20日(金曜日)

6時 起床。6時30分の予定だったが、実際は6時には起きていた。
7時 朝食。和食。材料が揃わなくて、と民宿の女将さんが言う。
8時40分出発 昨夜は闇で見えなかったが、被災状況を目の当たりにする。被災前を知らないこと、かなり片付けがすんでいることもあり、ピンと来ないところもある。
9時10分  鹿折小学校到着。学校側より被災状況の説明を受ける。昨年12月に新築した木を多用したきれいな校舎が被災。1.4メートルの高さまで泥水が来た。校舎内に寄贈されたランドセル置き場があった。
 大きな学習室に担当教員、5・6年生、支援隊が参集し、児童向け科学書の贈呈式。個人的には贈呈式には疑問。まあよみもの屋は儀礼というものが嫌いなので、いつもの感覚だと思う。
 その後、同じ部屋で1、3、2年生の順にお話会。生徒たちは本当に賑やかだ。カメラを向けると、振り返る子もいるが、全体的に気にすることもなく、お話に集中している。そして、話者もみなうまい。彼ら・彼女らは、日常的に(ほとんどは仕事として)お話会を行い、情熱も持っている。孫に読み聞かせしたレベルで「やってみます」というのは心外だったかも知れない。確かに大勢(2、30人)の生徒を夢中にさせることは、今の僕にはできない。でも、とつとつした朗読するのも捨てがたいという気もする。そして、それならばできるかもしれない。途中、被災状況の著しいところを通る。瓦礫の連続、大きな船が瓦礫の上にある。言葉もない。
(TVで見た景色と同じ。でもTVでは荒涼としたものは箱の中にある。現場では、荒涼とした世界の中に自分が立っている)
被災地風景
昼食は、コンビニで買った弁当を路肩に止めた車中で食べた。いくつか食堂は開いている。車中で食べたのは時間がなかったため。

 午後より松岩小学校を訪問。1階の一部が避難所になっている。被害状況の説明を受けた時、教員から「子供達は明るく振る舞っていますが、不安や哀しみを心の中に持っています」と言われた。そうだよなあ。廊下の壁に支援の千羽鶴などが展示してある。その後、児童向け科学書を贈呈。1年生3クラス、2年生2クラスの各教室に分かれお話会。担任が一緒に参加される教室も多く、笑い声が上がっていた。見た目子供達は本当に元気だ。でも先ほどの教員の言葉が頭のすみをかすめる。一通り記録写真を撮り終えたので、図書室を見学させてもらう。司書もボランティア(震災とは関係ないと思う)らしい。許可をもらって写真を撮ろうとした時、女子の生徒がおびえたような顔をした。その子を撮ってはいなかったのだが、反省する。もちろん「ごめん。君は撮っていないよ。」と説明する。何でもすぐ写真に撮ろうとする風潮を批判的な目で見ながら、このありさまだ。本もたくさんあって、もういらない、というのが本当かも知れない。それと、お話会の時に立ち会った教員(担任ではなく、外来者対応係のような教員がずっと廊下にいた)が疲れているような気がした。入れ替わり立ち替わり類似のボランティアが来るのかも知れない。逆の立場だったら疲れるかも知れないな、と思う。善意が根底にあると、断ったり、粗略に扱うことが難しい。必要なことの発信・それの整理、それに向けての支援、その仕組みをきちんと作って欲しい。全体的な仕組み作りは、NPOではおそらく無理だ。国しかないよな、と思う。国会で政争に明け暮れている時かよ、と思う。

 その後、気仙沼市役所へ行く。ロビーに机を置いて、震災関係の申請の受付をしている。他県の職員も多い。人の多さに圧倒される。業務量の多さが想像できた。何回か聞いた「現場の職員は倒れる寸前だ」という言葉が、実感される。文部科学省の課長さんと課長補佐さん、支援隊のリーダー(日図協理事)とともに、気仙沼市教育長にお会いする。震災地域の社会教育の復興について種々意見が交わされる。大学図書館では学校教育を前提とした図書館活動、古書店になってからは市民の読書について考えて来たけど、社会教育というのはあまり本気で考えたことがなかった。公民館の夜当番の試験を受けたとき少し勉強してびっくりしたくらいだ(落ちた。倍率20倍くらい。試験問題も特殊だったなあ)。逆に公共図書館には学校教育の視点が乏しい。縦割り(文科省の課が異なる)の弊害なのか。だから図書館界は一つになることができず、力を持つことができないのか。
 市役所を後に、気仙沼市立図書館に向かう。途中で、被災した古書店を見つける。源氏(ネット古書の検索サイト。加盟店が販売する本を登録する。よみもの屋はそこの会員)で募金していた唯書館さんだった。白塗りの四角い小さなコンクリート造りの店舗。左側のシャッターが壊れ、二つある窓の一つは窓枠しかない。中を覗かせてもらってが、ふくらんだ本が積み重なっている。ここで奥さんが亡くなったと伺っていたので、合掌して後にする。
 坂を登って、気仙沼市立図書館へ向かう。津波で自動車文庫が破壊されたので、廃車待ちの自動車文庫を無償で提供する話の詰めの協議がされる。副館長は自宅が流され、図書館に泊まっていると聞いた。(注:泊まっていたのは館長さんかも知れない)建物の被災状況を見学。増築した建物との接続部分の破損が著しい。震動の周期などが違うためだろうか?

 夕食。お刺身なども出る。ビールなども飲める。ただし、よみもの屋は禁酒続行中。昼間考えていた「読み聞かせに挑戦する」ということを宣言する。リーダーが困ったような顔をする。だろうなあ。翌日訪問する避難所の状況説明、注意事項の伝達等打ち合わせの後、大型本の「グリとグラ」を持って、A氏とT氏が来る。T氏が、大型本の片方を持ってくれる。1度練習。遠い昔子供に読んだことがある本だし、食べ物が出てくる本だから、感情移入はしやすい。芸はないけど気持ちはある。その後、読み聞かせ班の前でもう一度練習。練習前はあまり好意的でないささやきも耳に入ったが気にしなかった。この日見た子供達に何かしたかった。ページのめくり方(大型本なので二人でめくる)、立つ位置、読む速度(どうしても早くなる)などを注意され、やっても良い、と言われた。二度読んだだけで本番、というのも無謀な気がしたが、何とかなると思う。この日も寝付けなかった。ただし、読み聞かせが心配なのではない。
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5月21日(土曜日)

 6時30分起床。和食。食後集合写真を撮る。
 9時気仙沼市立図書館を回って、預けていた本・書架を受け取る。図書館の前の車庫を日図協で借りている(確かめていない)。寝不足が続いたが、この3日間体力的に不安を感じることはなかった。本の段ボールも一度に2個ずつ運んでも平気だったし、梱包された書架も一人で運べた。車の誘導他で走り回っても、息切れしなかった。事前の禁酒と訓練が少しは役に立ったということだ。残念なのは力仕事の絶対量が少なかったことである。
 10時 気仙沼市総合体育館避難所に到着。同体育館は大規模な避難所で、多くの被災者が体育館アリーナで生活されている。ダンボール等で仕切りされていたが想像以上の密集であった。医療施設が機能しており、炊き出しやボランティアによる演奏等もあった。一室を提供頂き、10時より30分間、コーナー別に、風車作り、お手玉、じゃんけんさいころ作りなどを行った。全体に評判が良く、特にお手玉の人気が高かった。お手玉を入れる巾着袋が欲しいという要望があり、理由を尋ねると、身近な小物を入れたい、とのことだった。了解を取って写真を撮っていると、欲しいという方がいて、後で送ることにした。
 そして、よみもの屋の読み聞かせデビューが・・・・・。大型本の「グリとグラ」を読む。相方の男性はベテランだが、本を持つ方に回ってくれた。読み始めて・・・、直前まで子供達と遊んでいたために、老眼鏡(中近)に掛け替えるのを忘れているのに気づく。はっきり見えない。じっと見つめないと、読めない。時々、止まる。周囲が騒がしいので、声を大きくする方に気をとられ、感情移入ができない。館内放送が途中に入って中断する。でもその辺の繋ぎはオリエンテーションの説明と一緒。それなりに子供たちは聞いてくれた。後で師匠連から、温情の合格点をもらえた。老眼鏡がないので、字を読む速度が遅くなり、間ができてかえって良かったらしい。グリとグラが選ばれたことといい、めがねのことといい、ラッキーだった。L字型書架設置、図書30冊寄贈後、外に出て、ボランティアによる様々な催しや炊き出しを見る。チンドン隊、のっぽのピエロ(高下駄のように乗っていると思う)、いろいろな食事。日本人も捨てたものじゃない、と嬉しかった。のっぽのピエロと並んだ写真を撮ってもらった。自分が写った唯一枚の写真。その後、支援隊としては、鹿折小学校へ移動し4年生に図書を贈呈したが我が班は場所を間違えていた。ラーメン屋での合流に時間がかかった。
のっぽピエロと僕
 昼食はネギラーメンと小ご飯。
 午後より、松岩公民館避難所を訪問。総合体育館避難所より密集度が高く、診療所(仕切りがあるだけ)と支援物資集積所の間が利用できた。2卓のテーブルで風車作りとエプロンシアターを行った。
  風車を熱心に作る女の子は次から次と自分で工夫し、本当に楽しんでくれているようだった。終了直前に孫の為に作り方を習いたいという被災者等が来られた。それなりの成果はあったが、お話会は避難所の情況に左右されることを理解した(後で、この日日回った避難所は比較的に“非常に良い”方だ、と聞いてシュンとなった)。
 よみもの屋はこのとき、中学1年の男の子二人とゲームの話をしていた。知らないゲームだけど、基本構造はファンタジーを模した戦闘モノである。中に竜が出てきたりするので話はできる。
 中学生もドラゴンとかをバカにしない大人が珍しかったのか、話がはずんだ。与えられた時間がすんで、別れを告げた時、「何だ、もう帰るのか」と言われた。ちょっとこたえた。知らない大人が突然来て、友達ごっこを30分ほどして、じゃね、と帰る。それだけでなく、中心的な役割でない自分の得意な分野に出会って、役立つところを確認したがっている。なんか、そんなことを考えて、やっぱり自分は子供相手は無理だ、と思ってしまう。元々子供は苦手なのだ。(後になって、中学生は中学生で、遠くから来た大人に気を遣って相手をしてくれたのかな、と思ったりもした)。
 小学校などへのボランティアにしても、相手の都合は十分に配慮しているつもりでも迷惑な場合もあるだろう。善意の申し入れだけに断れない。難しいなあ、と思うが、こういったことに単純な解はない。自分の感覚をできるだけ鮮明にし、少しずつ手直ししていくしかないなあ、と思った。そして、 Help-Toshokanの情報発信のわかりにくさ、表記の揺れもその手直しの過程かも知れないと考えることにした。文部科学省の2名の方は帰京された。活動の大半に参加、随所で社会教育復興への施策なども説明いただいた。文部科学省の偉い人というと大学在籍中だと最敬礼で対応しないといけない人々だ。日本のお役人にも偉い人がいるなあ、と思った。

 その後、南三陸町へ。カーナビは海沿いの道が通れない、と山越えの道を指示する。キャンピングカーでは曲がりきれないカーブを切り返しながら進んでいく。上り下りもありドキドキするが、サブリーダーの運転は安定感がある。慣れている。一面瓦礫の南三陸町に着いたのは16時。最後まで避難を呼びかけて殉職した方が放送していた建物が見える。ガソリンスタンド(ドラム缶を置いて、手回しポンプで給油する。閉店の時はドラム缶を持って帰っていた)の敷地に車を置かせてもらった。中に入るとき、信号待ちの前の車に前に詰めてくれるよう頼んだら、にらみつけられた。
 周囲を歩く。瓦礫に引っかかって転ぶ。サブリーダーはトレーナーのズボンにかぎ裂きを作っていた。この辺かな、と見回していたら誰かが「あっ」と声を上げた。金属書架の部品(棚を引っかけるもの)だった。その後棚板もあった。ガソリンスタンドの人に図書館の場所を聞く。指し示されたところは海だった。地盤沈下のためだ。ガソリンスタンドの人は図書館のヘビーユーザーらしく、図書館の再建に強い関心を持っていた。


 遅れてきたリーダー車が瓦礫の中の土の道をこちらに来ようとして、スタック。後輪から白煙が上がっている。救援に向かう。トライアルの練習や遠征で遭遇したスタックよりだいぶ軽い。でも知らないところだし、もう日が傾きはじめていた。このメンバーの中では、少しだけ慣れていると思ったので運転を代わる。よくあることだが、スタックした車は左右に振れて、けが人が出ることがある。それを避けるために最初は押してもらわずに、種々試す。滑るなりに後輪は駆動が効く。前輪左もOK。前輪右が比較的深い泥に埋まっている。泥の情況から前に毛布などを詰めて、後ろから押せば出られると判断。サブリーダーに瓦礫の中から小さな布団のようなものを引っ張りだして来てもらって、少しバックして空いた前空間に敷いてもらう。エンジンをかけ、せーので押してもらったら出た!前で女性陣が拍手する。ほっとした気持ちと得意な気持ちで、「まるでパリーダカでゴールしたみたいだ」と冗談を言ったら、よみもの屋をラリー愛好者だと思った人がいたみたい。何となく訂正のタイミングを逸したが、(おそらく)パリ−ダカはこんなものではありません。頼んでいたJAFをキャンセル。到着まで75分みていてくれと言われていたので、早く出られて良かった。リーダーも褒めてくれたが、キャンピングカーにスコップもあったし、完全にスタックしたのが右前輪だけだったので誰がやっても最後は出ていたと思う。オートマでなく、ミッションであれば経験の差が出てくると思うけど。
(この時に限らず、知らない人に冗談を言うと、本当のことに受け取られることが多かった。要注意)

 迂回路あることを確認し、瓦礫が続く海沿いの道を宿舎までひた走る。悲惨さが実感される。
 夕食後、まとめのミーティング。よみもの屋は、今回は「ミスマッチングだった」と言った。それが生じた理由は1)よみもの屋のおっちょこちょいで思いこみの強い性格、2)日図協の情報発信のまずさにあると言った。(ある程度整理ができた現在でもそう思っている。1)については生来のものであるとはいえお詫びする。2)については、担当者のご苦労には同情しつつあえて言う。内部にいてメルマガを継続して読んでいる人にはわかりやすいかも知れないけど、外部の人が情報収集しようと思うとかなりわかりにくい。障害者の閲覧のために日図協のホームページがごちゃごちゃしていても仕方がない、と思っている人もいるようだけど、わかりにくいのはそのためではない。情報の整理(区分と階層化)ができていないのが一番の原因だと思う。
 ただし、最初がミスマッチだからといってずっとつまらなかったわけではない。自分を知っている人とゆったりとつきあっている日々から比べると、異なった世界を生きている人とつきあうのは緊張と発見があって楽しい。お話会についても認識を改めた(というより、初めてきちんと知った)。本質的なところはわからないが、多くの子供達に楽しい時間を作ることができたのは確かだと思う。もしかしたら、具体的に現地から要望があったのが、今回はお話会だったのかも知れない、と思った。外から太陽のように暖めるお話会、内側からじっくり育む読書ということを考えた。とりあえず一度でも読み聞かせに参加できたので、前向きに受け止めることができたということもあろう。直接応援して下さったTさん、Aさんをはじめみなさんに感謝する。
 被災地をこの目で見たことも得難い経験である。これについては、簡単に表現できない。ボランティアについてはサブリーダーが「やってあげるのではなく、やらせていただく」(図書館も貸すのではなく借りていただく、と続けていたが)と言っていた。よみもの屋にはそこまでへりくだった感覚はない。よみもの屋は今回ボランティアをこんな風に考えて行動している。「ボランティアはお互いさまである。今回は東北だったけど、いつか中国地方かも知れない。被災者の人々は日頃つきあいのない親戚の子供やおじさん、おばさんである。気の合う人も気の合わない人もいる。でも親戚だから困っていたら知らん顔もできない。」それだけだ。
 ミーティングでは、お話会で使った資料の記録、Help−Toshokanの情報を集めて整理するサイトの試行などが提案された。リーダーから、Help−Toshokan活動の今後の方針などについて話があった。
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5月22日(日曜日)
 雨の気仙沼市を出発し、仙台市泉図書館を訪問。被害状況の説明を受けた。建物の損傷のため、利用者は館内に入れない。固定した自動車文庫を利用したり、設営されたテントを使って利用者対応をしていた。館内の本が余震で何度も落下したため、落下予防として、ひもで縛っていた。
 その後、高速道路を南下した。途中で、Help-Toshokanの磁気シールが一枚落下した。東北自動車道の管理部署に報告しておく。知らん顔していても良かったかもしれないが、日図協の名前が入っているので、一応届けておいた。その対応のため昼食をとったSAのメモを忘れたのでどこか分からない。リーダーの疲労が感じられた(5月26日から4日間、リーダーとサブリーダーは第4回支援隊を率いて、宮城県へ行っている。そのスケジュールを自分に即して考えると、かなりきつい。何らかの形での交代と、作業の分散が必要だと思う。また、長期展望に備えた経験の蓄積、支援ネットワークの組織化も急がれる)。
 蓮田SAで解散となり、リーダーのライトエースに乗り換えて、東京駅。首都高の運転はよみもの屋には無理だ。
 20時過ぎ東京駅。みんなとお別れ。JRで錦糸町のホテルへ。客引きがいるような界隈。駅ビルのヨドバシカメラで写真をCDにコピー。くるくる寿司を食べた。
 ホテルのレンタルPCを借りてメルマガの原稿を作る。メール設定ができなかったし、外部保存器具を持っていなかったので、個人ブログに非公開記事の形で貼り付ける。念のため固有名詞などはすべて、××とする。明け方眠りに入る。

5月23日(月曜日)
 朝 JRで東京駅へ。ラッシュ。相変わらずだ。ちょっとしらける。喫茶店で珈琲とサンドイッチの朝食。日図協にCDを届ける。10時過ぎのひかり(岡山止まり)で帰岡。名古屋でおりて、駅のきしめん食べたかったが荷物があるのと寝不足であきらめ、車内で駅弁食べる。
 昼 岡山についたのは14時過ぎだと思う。津山線が1時間以上待ちなのでバスで帰る。
 夜 メールチェックするとメルマガが配信されていた(出発前に手続き)。それを見て、昨夜作った案を修正。こまかいところで不明なところがある。
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4.岡山に帰ってから

5月24日(火曜日)
 午前中 メルマガ原稿作成。T氏よりお話会の記録が配信されてくる。不明だった点が埋まる。日図協へ送信。
 午後  公民館の太極拳へ。休憩時間に寝ていたら病気かと思われた。先生に腰痛防止のポーズの資料を依頼。

5月27日(金曜日)
 午前中 先生より資料頂戴する。岡山駅で絵はがきを買い、写真+太極拳資料+絵はがき+お菓子を避難所あてにレターパック500で送る。避難所の受付に迷惑にならず、なおかつ確実に届きそうな方法を模索したのだが、どうだろうか。

5月29日(日曜日)
 台風の余波で町内の草刈りが延期になったので、この記録他の残務整理。

 5月30日に破傷風の予防注射を受ける(いろんな病院に断られ、保健所の紹介ということでやっとやってもらえるようになった)。2回目が6月下旬か。それからもう一度、東北に行くつもり。今度は、物資の仕分けか泥掃除に参加したいが、岡山市が募集していたボランティア枠はそれまであるだろうか?
【追記:5月31日】 破傷風の予防注射は、1回目のあと2回目を受けて時間が経過しないと基礎免疫ができない。うってくれたお医者さんに今日電話で尋ねると、1回目の4週間後に2回目をうち、さらに一ヶ月後に免疫テストすると87%の人(子供はほぼ100%。成人はやや低い)に基礎免疫ができているとの文献がある、と説明してくれた。6月下旬の岡山県の災害ボランティア参加は諦めた。7月下旬か8月だ。

 被災地域の復興は今後の日本の基礎力を下げないためにも重要な仕事だ。同時に亡くなった方々の鎮魂も大切だと思う。集団の利益のために英雄や英霊を作ることとは別に、亡くなったすべての人の無念に思いをはせることも大切だと思う。人は必ず死ぬ。死者をきちんと祭らないことはすべての人の生を粗略にすることにつながる。
 Help-Toshokan も6月以降さらなる活動の幅を広げられるだろうと思う。いまは余裕のない地元の方々も読み聞かせ等ができるようになるだろう。それを支援する形に変わって行けば良いな、と思う。図書館支援・読書支援で必要なことは多岐にわたると思う。公立図書館は市町村単位なので、いろいろ難しいところがあると思うが、全国的な組織の利点を生かした活動をされることを望む。遠くから今後の情況を見たい。ただ、日図協に関しては古傷(根拠のないものだが感情は残る)が心のどこかにあるようだ。忘れていたつもりだったが、まさかと思っていた後輩の人事異動でそれが刺激された。今回の参加でそれに気づいた。行動の過程でだいぶ薄れてきたが、心のどこかに自分や後輩の異動に関連した過大な期待が頭をもたげる。しばらくはあまり近づかず遠くから応援するくらいがちょうど良いかも知れない。
 老後の活動にお話会に参加するということを、付け加えても良いかな。やることが多すぎて今すぐにはできないけど(たくさん修行をしないといけないと思う)来年くらいになったらやるかな。

【追記:6月9日】
1)文中で日図協のホームページのわかりにくさを言っているが、少なくとも震災関係の部分は改善されつつあるように感じている。
2)「Help-Toshokan 被災地図書館支援隊」について基本的なことは「ず・ぼん」(ポット出版)の有料メルマガでの西野日図協理事(支援隊リーダー)のインタビューにすべてが尽くされていると思う。有料メルマガであるが、6月9日現在無料で公開されている。「がんばれ Help Toshokan」からもリンクをしているので、ご覧いただきたい。

【追記:7月3日】
もう一度Help-Toshokan に行ってきました。
報告はこちら
白河紀行
【追記:2012年3月】
 この時の体験を基本にして、在職中の仲間と共著で 「大災害時における地域の公共図書館の役割とその支援体制」という論文を書きました。
「千葉科学大学紀要 第5号」に掲載された。 
千葉科学大学図書館のHP

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がんばれ  Help-Toshokan(前記の試行サイト)

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