赤磐八十八カ所霊場巡り五


【二十番-相番】

  本尊 薬師如来
 御詠歌
いしかみのたはの薬師のるりの壺 
諸病もここにいゆる嬉しさ
 (参拝 令和元年八月四日)

二十番相番札所


【二十番】大松山妙光寺本堂

 本尊 阿弥陀如来
 御詠歌
 御仏の誓もたかき妙光寺
かゝげて照らせ慈悲のともしび
 (参拝 令和元年八月四日)

 赤磐郡誌によれば、元「大松山松光院」あるいは「来迎寺」ともいう。さらに備陽記に「高福寺」、備陽国誌に「妙覚寺」と記されているという。
 確認すると、備陽記に「大松山高福寺観音院」の記述がある。
 それによると、「本寺御野郡三野村法界院 本尊観音 行基作」とある。資料一によれば、当寺の本尊は阿弥陀如来なので、異なるようだ。

二十番札所


二十一番大松山観音院の本尊が、聖観世音菩薩とあるので、この寺院が高福寺観音院であると推定する。赤磐郡誌によれば、この寺院は昭和六年に廃されている。同山蓮上院を含めた関係を推測できる事柄が赤磐郡誌に書かれているので次に引用する。(抜粋)

 古社布都魂神社の鎮座する、風呂ノ谷山の東中腹にある。本堂は(三間半角)峠越えの旧道路の上に、東南面して立つ。仁王門は、自然石で造った、百七十六の階の中程にある。尚ほ庫裏の傍には、庚申堂愛宕社がある。寺伝には、唐僧鑑真和尚の開基とし、不思議な霊験による一寸八分の観音を、首内に納めた観音像を本尊とした。永禄の頃金川城主松田左近将監が、法華宗にならないからと云ふので、堂宇を焼き払った。依って数町下なる現在の地に移したと云ふ。(中略)近頃迄は、本堂の辺に蓮上院、谷を隔てゝ向ひの丘の上に観音院、二寺対立した真言寺が在ったが、昭和六年観音院を廃し、それと同時に蓮上院の院名を廃し、合併して妙光寺と称した。(頁三九三~三九四)

立派な本堂があるが、現在無住のようだ。草刈りに来ていた地元の方(檀家だということだった)に妙光寺は現在、極楽寺で管理されていると伺った。


【二十一番】大松山観音院

[本尊 聖観世音菩薩]
 御詠歌
 [観世音身をかずかずに分かちつつ
もらさですくへ此の世後の世]

(上記の資料を読む前の記録)八月四日探すが確認できず。 周囲をかなり探したが、祠のような建物は確認できなかった。妙光寺と山号が同じなので近くだと思われたが・・。 前記の通り、現在、極楽寺で管理されていると伺ったので、電話で確認。住職はいらしゃらなかったが、留守番の人が現在観音院はないといわれた。

 二十番妙光寺で記した資料をもとに推定すると、大松山観音院は昭和六年に廃された。その際「上に金比羅宮を遺す」とある(赤磐郡誌頁三九四)が、現在もあるか再確認したい。


【二十二番】大松山蓮上院

[本尊 地蔵菩薩]
 御詠歌
 [蓮のへにませる佛の中にだも
むけんにかはる慈悲のたふとさ]
 
 八月四日探すが確認できず。

 赤磐郡誌の記述をもとに、蓮上院は院名を廃され、妙光寺に統合されたと推定した。なお、二十二番の札が下がった祠は『赤磐八十八ヵ所霊場巡り』(頁二七)の記述によれば二十三番である。


【二十三番】

 本尊 薬師如来
 御詠歌
 なむ薬師十二の誓ひあだならず
今も昔に変わりなければ
 (参拝 令和元年八月四日)

 二十二番の札が下がっている。最初は二十二番だと思ったが、『赤磐八十八ヵ所霊場巡り』の記述をもとに二十三番と判断した。

23番札所


【二十四番】

 本尊 地蔵菩薩
 御詠歌
 八つの苦をぬきて与ふる十の福
よの仏にもまさるなりけり
 
 (参拝 令和元年八月四日)
 

二十四番札所


【二十五番】

 本尊 十一面観世音菩薩
 御詠歌
 ざいしょうをかり払うなる小鎌かな
仏のこころそのままにして
 
 (参拝 令和元年八月四日)
 
 近くのバス停。朝一便、夕方一便。


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