赤磐八十八カ所霊場巡り一


【このサイトについて】

 『赤磐八十八所霊場めぐり』(赤磐市教育委員会編)の推定に基づいて赤磐八十八カ所霊場をめぐっている。何かと物忘れをするので、備忘を目的として記録する。
 記録中の本尊や御詠歌は特に補記していない限り、同書に基づく。
 地図は、赤磐市郷土資料館のサイト(下記サイト外リンク)を見ていただきたい。この地図で大方歩ける。ところどころわかりにくいところは、そのうち補足する。

▼こまごまとした情報(クリックして見る)

【参考資料】

A.基本資料

  1. 赤磐八十八ヵ所霊場めぐり、赤磐市教育委員会編、赤磐「学びあい、支えあい」推進委員会、平成20年
  2. 赤磐88ヶ所霊場めぐり(赤磐市郷土資料館のサイト)

B.江戸時代の地誌

  1. 備陽記、石丸定良、享保六年。第五(赤坂・磐梨の地誌はこれに納められている)のみ池田家文庫マイクロフィルムより印刷。他は八反幸八氏による清書版(日本文教出版、昭和40年刊)。
  2. 吉備温故秘録、大沢惟貞、寛政年間。
  3. 備陽国誌、和田正尹〔ほか〕著。元文二年。

 最終的には池田家文庫マイクロフィルムで閲覧予定。

C.地域の資料

  1. 赤磐郡誌全、岡山県赤磐郡教育委員会、昭和一五年(参照したのは昭和四八年再版)
  2. 赤磐郡銘〔ママ〕鑑、岡尋 編・発行、赤磐郡銘鑑発行所発行、昭和二八年。(奥付による)
  3. 赤磐きらり散策[岡山文庫277]、高畑富子、日本文教出版、平成二四年

D.その他

  1. 国語大辞典、尚学図書編、小学館、昭和五六年
  2. インターネットサイト コトバンク(大辞林など)
▲こまごまとした情報終わり。たたむ

【巡歴について】

  1. 六月二日、一番から三番。山陽団地から徒歩。三角マーク(霊場開設の由来)へ
  2. 六月九日、四番から十番。山陽団地から徒歩。三角マーク
  3. 六月十六日、十一番から十六番。管理人の伊田の畑から徒歩。三角マーク
  4. 七月二五日、十七番から十九番。赤磐の道の駅みたいな場所の駐車場(岡山県赤磐市西軽部)をお借りした。そこから歩いて往復。近くにあった駐車可の場所をあとで発見。三角マーク
  5. 八月四日、二十番から二十五番。石上布都魂神社の駐車場をお借りした。そこからは徒歩で往復。三角マーク
  6. 八月三十一日、二十六番から二十九番。道路の空きスペースに駐車。そこから徒歩で往復。三角マーク
  7. 九月十五日、三十番から三十四番。仁美ふれあい公園の駐車場をお借りした。そこから徒歩で往復。三角マーク
  8. 十月十四日、三十五番から三十八番。赤磐市笹岡公民館とドイツの森の駐車場をお借りして。ドイツの森の駐車場から徒歩で三十八番まで。公民館駐車場から、ドイツの森まで車。三角マーク
  9. 十月二七日、赤磐の道の駅みたいな場所の駐車場(岡山県赤磐市西軽部)とJA岡山東笹岡支店の駐車場をお借りして、後者から三十九番~四十三番まで徒歩。前者に到着し、車。三角マーク
  10. 十一月十日、赤磐ファミリー公園の駐車場をお借りして、徒歩で四十四番から四十七番相番まで。その後徒歩で公園まで戻る。。三角マーク
  11. 十一月二三日、赤磐市立赤坂図書館の駐車場をお借りして、そこから徒歩で四十八番から五十二番。初めてラーメン店に入って昼食。五十三番から五十五番。その後図書館で郷土史の資料を閲覧。三角マーク
  12. 十二月一日、赤磐グランドゴルフ場の駐車場をお借りして車を2台置き、山陽ふれあい公園の駐車場まで1台で行き、ここでも駐車場をお借りして、出発。五十六番から六十三番。北の方を廻っていたときと異なり、平地がほとんどで札所も近接している。。三角マーク
  13. 十二月八日、山陽マルナカの駐車場をお借りして車を、六十四番から六十七番。平たいところに比較的狭い範囲で点在している。。三角マーク
  14. 十二月十五日、山陽団地内の廃業したスーパーの駐車場をお借りした。そこから六十八番から七十二番まで廻り、駐車場にもどって解散。地元の二人は最初から徒歩。。三角マーク
  15. 令和二年一月十一日、両宮山古墳の駐車場をお借りして、そこから徒歩。七十三番から七十八番まで。七十六番、七十七番を探したが情報不足で確認できないものがあった。次回に積み残し。三角マーク
  16. 一月十九日、山陽マルナカの駐車場をお借りして、七十九番から八十六番。一番たくさん拝礼できたと思う。少し手入れすればミニ霊場として情緒がありそうな道があった。三角マーク
  17. 二月八日、山陽マルナカの駐車場をお借りして集合。一台に乗り合わせて両宮山古墳の駐車場へ。そこから、兜山のふもとまで歩き、小兜へ。下山後、二台の車で、八十八番札所・自性院へ。拝観は最後にして、駐車場に車を一台置かせてもらう(御住職の許可を頂いていた)。そこから一台で、八十七番まで行き、そこから山越えで八十八番まで歩く(四キロ弱か)。午前中の兜山登山で疲労していたのかわずかな登りがしんどかった。三角マーク
  18. 二月二十四日、七十七番の再調査のため、大兜登山。円寿院国分寺の墓地の駐車場をお借りして、約四十分で大兜頂上。三角マーク

【サイト外リンク】

  1. 赤磐88ヶ所霊場めぐり(赤磐市郷土資料館のサイト)へ三角マーク
  2. インターネットサイト コトバンク三角マーク(大辞林など)

【巡歴記】

 縦に延びています。スクロールしてご覧ください。


【霊場開設の由来(石碑)】

 赤磐郡八十八箇所霊場ハ大
 正元年明治天皇御追福*上記空白は闕字
 ヲ祈リ併セテ四國霊場開創
 一千百年ヲ記念セムカ為メ
 信徒計リテ發願シ郡内ノ聖
 地ヲ卜シ四国霊場ノ砂ヲ埋*上記「卜」は
 メ佛像ヲ安置シ大正二年三「ボク」
 月業ヲ完成ス仍テ碑ヲ建テ
 由来ヲ記シ發願者並ニ世話
 人ノ名ヲ勒シ以テ永ク其功
 ヲ傳フ
昭和二年四月
(発願者は割愛した)
*参考資料一頁四を参考にした。

由来を記した石碑 満楽寺境内


【一番 満楽寺地蔵院】

 本尊 地蔵菩薩
 御詠歌
 へりもせずみちてあふれぬまんらくじ
くすりのみづのいづみたえせぬ
 (参拝 令和元年六月二日)

 上は地蔵院。下左は地蔵院の門。下右は本堂。
 吉備温故秘録によれば創建は天平年中。
 備陽記によれば、寺院の開基は聖宝尊師だとする。そして、言い伝えとして本尊の地蔵尊は毘首羯麿作で、釈迦が開眼したという。天竺からこの地の峯に飛翔してきて鎮座された。この故、当地を上地山という。

満楽寺地蔵院


抜粋(解読などの文責はサイト管理人)
備陽記の満楽寺の記述。一 真言宗上地山満楽寺地蔵院 上地山村の内 本寺三野郡三野村 法界院 本尊 地蔵 毘首羯麿作 聖宝尊師の開基。聞くところによると、釈尊の開眼したまう。其の外諸説あり。この堂は、以前は四、五町先の峯にあった。天竺から当山に飛行された。それゆえ当山を上地村と名付けた
▼補足(クリックして見る)

(一)上地山村:現在、赤磐市。
(二)法界院:現在は岡山市北区にある真言宗の寺院。
(三)毘首羯麿(「びしゅかつま」梵語の音訳」、妙匠、種種工巧などと訳す):帝釈天の臣下で、彫刻、建築などの美術をつかさどる神。(国語大辞典、二番目の意味は省略)。大辞林では続いて「密教では十六大護の一」とする。
(四)聖宝尊師:聖宝大師。理源大師。平安前期の真言宗の僧。ただし、開基については別説あり。
(五)蓋聞:けだし聞く。聞くところによると。
(六)かの漢字。人偏に去る羅陀山(からだせん):七金山の一つ。須彌山に近い山。地蔵菩薩の住む所といわれる。
▲補足終わり。たたむ

 赤磐郡誌は、金山寺文書からとして、報恩大師が開いた備前之国四十八箇寺の一寺であるとする(頁三七六)。山門前の説明板もこの説に基づいて書かれている。
 備陽記によれば、その後、寿永年間(一一八ニ年~一一八三)に、堂宇の零落しているのを見た城主葛城左京之進という人が現在の地に堂宇を作り、地蔵尊を背負って運び安置した。『赤磐郡誌』によれば、当寺の背後の山が葛城城の旧跡であり、堂宇の建立は、城の防御のためもあったとする。
 山門の前の説明板の記述をもとに吉備温故秘録巻之三十七を参照すると、「城址上、三、赤坂郡」に「古城山 上仁保村の乾に有」に続いて、「葛城左京進(之は抜けている。サイト管理者注)時景居城といふ。寿永の頃の人、委しくしれず、され共、当郡上地山満楽寺の寺記に、寿永年中再造とあり。さて子孫葛城次郎左衛門といふ者あり。人物部に記す。合せ見るべし。」とある。同書巻之四十に同人の記述があるが割愛。


【二番】

 本尊 阿弥陀如来
 御詠歌
 べうどうに仏のじひにげにあふじ
すがる心の嬉しかりける
 (参拝 令和元年六月二日)

二番札所の祠


【三番】

 本尊 阿弥陀如来
 御詠歌
 聞くからに名もたのもしきほとけかな
ろくじぞ上やしもにほふらん
 (参拝 令和元年六月二日)

県道の西側のやや細い道沿いだが、少しわかりにくい。

三番札所の祠


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