最終的には池田家文庫マイクロフィルムで閲覧予定。
【サイト外リンク】
赤磐郡八十八箇所霊場ハ大
正元年明治天皇御追福*上記空白は闕字
ヲ祈リ併セテ四國霊場開創
一千百年ヲ記念セムカ為メ
信徒計リテ發願シ郡内ノ聖
地ヲ卜シ四国霊場ノ砂ヲ埋*上記「卜」は
メ佛像ヲ安置シ大正二年三「ボク」
月業ヲ完成ス仍テ碑ヲ建テ
由来ヲ記シ發願者並ニ世話
人ノ名ヲ勒シ以テ永ク其功
ヲ傳フ
昭和二年四月
(発願者は割愛した)
*参考資料一頁四を参考にした。
満楽寺境内
上は地蔵院。下左は地蔵院の門。下右は本堂。
吉備温故秘録によれば創建は天平年中。
備陽記によれば、寺院の開基は聖宝尊師だとする。そして、言い伝えとして本尊の地蔵尊は毘首羯麿作で、釈迦が開眼したという。天竺からこの地の峯に飛翔してきて鎮座された。この故、当地を上地山という。
抜粋(解読などの文責はサイト管理人)
▼補足(クリックして見る)
赤磐郡誌は、金山寺文書からとして、報恩大師が開いた備前之国四十八箇寺の一寺であるとする(頁三七六)。山門前の説明板もこの説に基づいて書かれている。
備陽記によれば、その後、寿永年間(一一八ニ年~一一八三)に、堂宇の零落しているのを見た城主葛城左京之進という人が現在の地に堂宇を作り、地蔵尊を背負って運び安置した。『赤磐郡誌』によれば、当寺の背後の山が葛城城の旧跡であり、堂宇の建立は、城の防御のためもあったとする。
山門の前の説明板の記述をもとに吉備温故秘録巻之三十七を参照すると、「城址上、三、赤坂郡」に「古城山 上仁保村の乾に有」に続いて、「葛城左京進(之は抜けている。サイト管理者注)時景居城といふ。寿永の頃の人、委しくしれず、され共、当郡上地山満楽寺の寺記に、寿永年中再造とあり。さて子孫葛城次郎左衛門といふ者あり。人物部に記す。合せ見るべし。」とある。同書巻之四十に同人の記述があるが割愛。
県道の西側のやや細い道沿いだが、少しわかりにくい。