赤磐八十八カ所霊場巡り十二


【五十六番】

本尊 薬師如来
 御詠歌
 もろもろの病をだにもいゆるかな
心も今は円山にきて
 
 (参拝 令和元年十二月一日)

 雨戸のような戸が閉めてあった。写真は雨戸を開けたところ。

56番札所


【五十七番】

本尊 釈迦如来
 御詠歌
 ひたすらにたのみをかけよせうざきの
仏にすがるみこそうれしき
(参拝 令和元年十二月一日)

57番札所


【五十八番 薬王山真福寺】

 本尊 薬師如来
 御詠歌
 南無薬師ひとたびみなを聞くだにも
二世安楽越(を)まもるなりけり
 
(参拝 令和元年十二月一日)

 本堂はかなり古びていたが、扇面額の文字はうっすら読めた。前記御詠歌は、扇面額で読みとれなかった文字を参考資料で補った。
 資料には「医王山」とするものがあるが『吉備温故秘録』等では「薬王山」と記されている。

58番札所


 『備陽記』巻第五、「赤坂郡之内寺之事」に「一 天台宗薬王山真福寺賢秀 正崎村之内」とある。
 『吉備温故秘録』村落三 赤坂郡 「三十三、正崎村」に「天台宗薬王山真福寺」とある。
 『備陽国誌』赤坂郡、「薬王山真福寺 正崎村。天台宗。本寺銘金山観音寺。萬治年中の中興といふ。」とある。
 また、『岡山県の地名[日本歴史地名大系第34巻]』(平凡社地方資料センター編)では、「正崎村」の項(岡山県頁四三七)に「備陽国誌」を典拠として、「薬王山真福寺」とある。
 「医王山」と書いているものを探すと、『改修 赤磐郡誌』(岡山県赤磐郡教育会編刊、初版は昭和十五年。参照したのは昭和四十八年再版)頁一二二六に「医王山真福寺」とある。ただし、同じ『改修 赤磐郡誌』の「第四部 郡内の寺院」では「三、薬王山真福寺」である。少し調査が必要である。

最終的に同寺にお電話し、現在は活動されていないということで関連のお寺を紹介いただき確認したところ「薬王山」であるとの回答を頂いた。(令和元年十二月二十日)
 令和元年十二月二十日追記。

 その後、赤磐市山陽郷土資料館の担当の方から大正時代と思われる資料について教示いただき、巡礼の札所の部分をコピーしたものを令和二年一月十一日に閲覧した。年代は確認できなったが、「医王山」と書いていた。
 令和二年二月二十五日追記


【五十九番】

 本尊 地蔵菩薩
 御詠歌
 ひたすらにたのみをかけよじぞうそん
六ツのちまたのくにかはるべし
 
(参拝 令和元年十二月一日)

 

59番札所


【六十番】

 本尊 地蔵菩薩
 御詠歌
 むかしより名もたかやなるどうにきて
八くのあかをいまやすすがん
 
(参拝 令和元年十二月一日)

 高屋集会所と消防団の倉庫の建物に組み込まれている。

60番札所


【六十一番】

 本尊 薬師如来
 御詠歌
 あらたふとまいりておがむふたいなる
やくしのくすりいつもたえせぬ
 
(参拝 令和元年十二月一日)

 「ふたい」は「二井」。地名である。兄弟げんかして井戸を二つに分けて使った由。

61番札所


【六十二番】

 本尊 地蔵菩薩
 御詠歌
 三つのかじふせうなりけりじぞうそん
ほとけもわれもかはりなければ
 
(参拝 令和元年十二月一日)

日古木大池の岸近くにある。湖岸に立つ石碑だと三百八□年(□は判読不能)ほど前に原型があったとするが、新しくできたという情報もあり、珍しい地名とともに由来を知りたいものだ。
 札所は少し高いところにある。

62番札所


 『赤磐郡銘鑑』第二章地名より見た郡史考 鳥取荘に「地替」という地名について説明がある(頁一七)。
 これによると、「地替」という地名は周囲の村々(水利を得る村々)から、日古木大池の広さに該当する代替地を集めて日古木村の管理下においた土地であるという。
 残念ながら同書で大池の造成年を知ることはできないが、(一)地名として定着するほどの時間が経過していること (二)池を造成するのに代替地を集めるということは土地が公的な組織(国・郡・村)の管轄下にあり、同時に年貢などの評価基準の基礎であった時代に行われた作業であろうと推測できるので、少なくとも最近行われたものではなく、湖畔の石碑にある通り、百□年以前とみるのが妥当であろう。近年造成されたというネットなどの情報は、改修の時のことではないか、と思う。
 令和元年十二月六日追記。

日古木池横の石碑

【六十三番】

 本尊 延命地蔵菩薩
 御詠歌
 えんめいと名を聞くだにもありがたや
まごころこめてちかひあふがん
 
(参拝 令和元年十二月一日)

 横に立つ石碑には「念仏一千部 当村 行者 伊兵衛」とある。さらにその横の石碑には「奉供養 四国西国秩父坂東」とある。

63番札所


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