ここに来るまでに延享時代の地蔵尊があった。赤磐というと古墳のイメージがあったが祠や石仏がたくさんおられる。
扇面額の文字は消えかかっていた。御詠歌は読み取れるところだけ漢字にした。
本尊は文英様(ぶんえいよう)の石仏。天文二年(一五三三)~天正十年(一五八二)の約五十年のあいだに、造立されたという。「文英」は造立者の名前のようだ。(『岡山県大百科』下)。いろいろ興味深いがここでは省略。
冊子『赤磐八十八ヶ所霊場めぐり』の地図9とインターネットで公開されている地図で六十七番を指す場所が異なる。地元の方に教えていただいて判明した。また、近くで年貢を納められなくて首を切られた人がいた、という話も伺った。江戸時代の年貢は基本的に村として負担すると思うので、少し違和感があるが、何かの伝承があると思われる。
山陽自動車道をくぐって直線距離で二百メートルほどまっすぐ進み、右に進む道の二番目の道(一番目は田んぼのなか、二番目は住宅のあいだ。オレンジ色の屋根の家の北側の道)を砂川方向に折れる。