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松尾坂交差点を渡ってすぐ、歩道を北(庭瀬方向)へ進む。最初の細い道、料理教室がある角を西(左)に入る。
少し行くとゴミステーションの向こうに大きな金毘羅燈籠(下図の印)と道標がある。燈籠には市場村講中とある。
金毘羅燈籠は文化十四年に建立されたものである。調査報告6p10に、この金毘羅燈籠について「遙拝所」に類したものだという。「金毘羅大権現」の方へ立って拝めば金毘羅大権現に、「吉備津宮」の方へ立てば吉備津彦神社に向うことになる、ということのようだ。
また、金毘羅燈籠と同じ道筋の少し先右側に清澄家住宅(早島町指定重要文化財)がある。明治時代の洋風住宅である。 清澄家住宅 早島町観光センター(サイト確認:平成28年4月26日)
かって眼科病院であった清澄家住宅が金毘羅往来の裏側の道に建てられたと考えるのは少し無理がある。
以上の疑問について早島町生涯学習課に尋ねると、資料をもとに以下の説明をいただいた。
(正面)右 ゆかさん こんひら 道 [下に線で道が描かれている]
(右面)左 きひつ宮 をかやま 道 [下に線で道が描かれている]
金毘羅燈籠横の説明板の地図に複数の金毘羅往来経路が描いている。我々が歩いた道以外に鶴崎神社の前を進む道もあったようだ(宇喜多堤市場園の説明板「宇喜多堤と早島」などを見ると、宇喜多堤はそちらの方に続いているようだ)。
戸川氏隆盛の基礎となった富川(とがわ)平左衛門秀安(後、戸川)は備後国門田村に生れ、父の没後、叔父(母の妹の夫)である美作国、富川禅門の養子になった。禅門没後に宇喜多家に奉公していた母の縁で、まだ小身であった宇喜多直家に仕えた。
直家が戦国大名として力を拡大していくのにつれて、腹心の家来として秀安も出世し、知行二万五千石をうけて宇喜多家の重臣となった。天正四年(1567)に常山城を預かり、同8年(1580)に毛利勢と同城で戦い、撃退している。家督を達安に譲った後、常山の麓に隠居した。墓は常山の麓にある。
跡目を継いだ嫡男が戸川達安(みちやす)である。宇喜多直家、秀家に仕え、父と同じく常山城を預かった。直家の没後、秀吉軍に従い、従五位下肥後守の官位を受けた。また文禄・慶長の役にも従軍し、目につく活躍をしたようだ。
そして、文禄元年(1592)岡肥前の没後、宇喜多氏の国領の仕置に任じられたが、文禄3年に罷免された。このあと所謂宇喜多家家中騒動が起こり、宇喜多家から離れ、常陸国に蟄居させられた。
その結果、関ヶ原戦役には東軍として参戦し、戦功も著しかった。島左近を討ち取ったとの伝承もある由。戦役後、備中庭瀬二万九千二百石を受領した。これが庭瀬藩の始まりである。
戸川氏はその後分家を繰り返し、備中南部一帯を旗本として領した。本家庭瀬藩は四代目藩主戸川安風が延宝7年(1679年)に九歳で没すると無嗣断絶となったが、五つの分家は明治維新まで続いた。(帯江から分家した東庄知行所は、東庄当主の安村が帯江本家を継いだため短期間で幕領となった)。
戸川達安は日蓮宗を非常に信仰し、強制もしたようだ。このため、備中南部に日蓮宗徒が多い。なお、早島戸川家の最後の領主戸川安宅(やすいえ)は、明治七年にキリスト教徒となり、牧師として活動した(早島戸川家記念館 パンフレットより)。
分家は旗本となり、幕府の要職に就いた者も数多くいる。戸川宅清(とがわやすずみ:中島戸川家)は天保七年(1836)長崎奉行、万延元年(1860)には勘定奉行となっている(同前)。戸川安愛(やすなる:帯江戸川家)は大目付となっている。お使い番になっている者も多い(以上、改訂茶屋町史p62-71)。
岡山県大百科下p292、改訂茶屋町史、早島町戸川家記念館パンフレットなどを参考に管理人がまとめた。
日曜・祝日のみ開館である。開館時間、場所は次のサイトを参照ください。
早島町戸川家記念館(じゃらん:サイト確認平成28年4月27日) 戸川家記念館(早島町観光センター:サイト確認平成28年4月27日)
「書物蔵を改修した」という言葉に惹かれて日曜日に訪れた。ボランティアが説明してくれる。
展示されているものは少ないが、落ち着いてじっくり見ることができる。右写真中央は江戸時代初期の当世具足。
【展示の一部】正面上左が関ヶ原戦役の絵図(部分)。戸川達安が描かれている。右の掛け軸が朱印状。左下が、島左近の兜の紐と言われるもの(関ヶ原で戸川達安が島左近を討ち取ったと伝承されている由。黒田長政の隊によるなど異説がある※1)。右下が戸川家家紋入り軒丸瓦。
他に陣屋年中行事絵図屏風(正月に陣屋の屋敷に村役人が挨拶に来たときの風景を描いたもの)や【戸川安清長崎奉行行列絵巻】(戸川安清は長崎奉行を務めた)などが興味深かった。
真如庵には茶屋町小学校を目標にして行くとすぐ隣りである。左写真は真如庵入口。
【真如庵の由来】
真如庵は帯江第二代の殿様戸川安廣公のご廟所である。位牌堂には、中央に安廣公、左に侍臣角田氏、右に奉行陶山氏の位牌が祀られている。角田氏は戸川家の忠臣であり、陶山氏は帯江新田の開墾人である。(略)
帯江新田は約百町歩、禄高千石の土地で、この干拓は三千石の力では大規模すぎて無理な仕事であったが財力を傾けつくして宝永四年竣功した大干拓地である。安廣公は帯江新田開墾の祖として住民の敬慕篤く、住民はその徳を慕い公のご廟所を建て、「真如院殿浄性日覚」として祀られ現在も春秋法要を勤めている。(後略)
真如庵の説明板より。一部省略。」
角田才兵衛という臣が分骨された遺骨についてきて生涯墓守をしたという。
ここにも井戸がある。年中澄んだ真清水が使え、周囲数町以内の民家では、長くこの水をもらって飲料水にしていた(改訂茶屋町史p172)。
(児島民話通りの石碑より)
昔々、竜王山に住んでいた青い竜が、度々児島の村々を荒らし回ったので、村の人々は、東の大槌島の神に助けを求めた。
金の槌をもつ大槌島の神は、金の竜に変身し青い竜と瀬戸内海上で激しい戦いとなった。
黒雲が渦まき雷光は空中を走り、大嵐の中、火を吹き、水をはなち、尾は水面を打ち、戦ったが、金の竜はじりじりと追いつめられ、島にかくれた。いきおいを得た青い竜は、島を十重二十重にぐるぐる巻き、締めつけた。突然、島がぐんぐん膨張し、ついに爆発して、青い竜は、バラバラとなって飛び散って行った。
青い竜の目玉は、竜王山に当たって砕け、水晶となり、今でも時々みつけることが出来る。
又、竜の体は、島々となったり、骨は海中から引き上げられ、下津井の漁師さんなどこれを削って薬としたそうである。
又、大槌島には金の槌がどこかにあるということである。