龍神社から藤戸寺まで

下津井往来3・龍神社から藤戸寺まで

藤戸寺までの略図

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歩行日 平成27年12月14日(金) 8時50分--11時35分 龍神社から藤戸寺まで 距離 約 6.6キロ(千阿弥橋跡から累計 19.7キロ)


 JR宇野線早島駅から龍神社(前回終了地点)まで歩く。駅から県道185号線をまっすぐ北に進む。
 最初の信号がある交差点の手前右角にファミリーストアあさひやがある。その駐車場の用水沿いに、旭橋の親柱と説明板がある。
 旭橋は宇野線の敷設、早島駅の開業にあわせた道筋工事の際、架けられた石橋である。早島駅は明治明治43年開業とのこと(wikipedia:サイト確認平成28年4月18日)。

 そこから右に曲がり、真っ直ぐ西に向う。左手にお地蔵さんが鎮座されている。言われは不明。
旭橋の親柱 早島地蔵尊


 龍神社8時50分に出発。
龍神社

 すぐに松尾坂交差点に到達。庭瀬方面からの道が下津井往来に合流する地点である。鴨方往来を歩いたとき庭瀬で見た道標からここまで道が延びているのだ。ある種の感慨がある
松尾坂

 松尾坂の近く、下津井往来として歩く県道152号線の一本北の筋に文化十四年(1817)建立の金毘羅燈籠がある。
 さらに調査報告6には記述がないが横に道標があり、その道筋に清澄家住宅(早島町指定重要文化財)がある。交差点、燈籠、道標、清澄家住宅の位置などに疑問を持ち、早島町生涯学習課にお尋ねすると松尾坂からの道が変わったことを教えていただいた。(金毘羅燈籠と道標・清澄家住宅

 松尾坂交差点の次は早島駅前交差点。そこを過ぎると宇喜多堤市場園と書かれた石柱が立つ小公園が右側にある。(早島町ホームページ 公園・広場:サイト確認 平成28年4月26日)
「宇喜多堤と早島」と題された説明板が立っている。この説明板には、宇喜多堤の一部が金毘羅往来であったことが書いてある。また、高梁川嘉永洪水絵図に宇喜多堤を加筆した図も添えてあり、当時の地形がよく分かる。

宇喜多堤市場園

 その隣りに荒神社がある。荒神社の一角にショウ儀型の地神塔がある。五角形。天照大神などの五神を刻んだ標準的なものだ。いくつかの神社でショウ儀型の地神塔を見た。日蓮宗の信仰と干渉しないようだ。
早島地神

 次の交差点右角に「竜神」と書いた燈籠があり、その奥に早島小学校がある。

 さらに次の筋まで進み、和風建物のトマト銀行を過ぎて右に折れる道の曲がり角に「宇喜多堤花町角」と書かれた石柱、「旗本戸川家の陣屋の遺構」と題した説明板がある(左写真)。(早島町ホームページ 公園・広場

 奥に向う細い道を進むと、陣屋跡の石橋(右写真)がある。横の塀に「早川戸川陣屋跡」の説明板がある。
宇喜多堤花町角 戸川陣屋石橋

 石橋を渡った奥に早島戸川家記念館がある。日曜・祝日のみの開館なので、日を変えて見学した。

早島戸川家記念館  早島戸川家はもともと宇喜多の旧臣だったが宇喜多家家中騒動の結果、主家を離れた戸川達安(みちやす)を祖とする。関ヶ原では東軍として戦い、その戦功により庭瀬を知行地として与えられた。分家を繰り返し、六流(東庄を除く)とか七流とか言われることもある。
 本家は途中跡継ぎがなく断絶したが、分家は旗本として残った。早島戸川家はその一系統である(戸川氏と早島戸川記念館)。

 元の道(県道152号線)に戻り、西に進む。左側に旧家らしい大きな家がある。早島の富商寺山家を改修した建物で、研修や行事に使用している「いかしの舎(や)」である。別の日にここで「いかしの舎弁当」を食べた。コーヒー付き1000円だった。いかしの舎 おかやま旅ネット(サイト確認平成28年4月19日)。いかしの舎 はやしま町(同前)。
いかしの舎 いかしの舎弁当

 いかしの舎から80メートルほど進むと左に分岐する道がある。明治時代の道標がある中央公民館へはここを左に曲がって400メートルほど進むが、下津井往来は県道152号線を直進。

 そのまま右側に注意しながら歩くと路地の先(神社に向う細い路地に車が駐車していることがあるので気をつけて見る)に注連柱が見える。片田荒神社である。
 早島町指定重要文化財であるチシャノキや五角柱の地神塔があった。地神塔には注連縄が巻かれ、まだお祀りされているようだった。
片田荒神社 片田の地神塔

 荒神社のすぐ先に右に入る道がある。その西の角に明治二十八年建立の薬師院への道標がある。薬師院は、ここから北に300メートルほど行ったところにある。右に少し行くと「左 久王んおん道」と刻んだ道標がある。(右写真:ただし下津井への往来はそちらではない)
小浜の樋交差点 薬師院道標

 往来は薬師院の方には行かず、20メートルほど先を左に曲がる(上左写真)。直進する道もあるがそちらには行かない。ここは『小浜の樋(おぼうのひ)』というところで、地名と同じバス停がある。
小浜の樋バス停
 分岐を左に曲がり、県道152号線から離れ、南へ向ってまっすぐ進む。ここから汐入川を目ざし、そして茶屋町まで南下する。

 230メートルほど進むと、信号交差点が見えてくるが、そこに大きな道標が建っている。大きいので交差点が近づくと見える。調査報告6では、この道標に触れていないので調査後移設の可能性がある。
汐入川の近くの道標

汐入り川道標  道に向った面の右半分に「[指矢印右] 篦取 たまし満 くらしき」左半分に「[指矢印左]宗忠 を可やま せのを」と記し、右面右半分に「[指矢印右]金毘羅 由伽 田ノ口 茶屋町」左半分「[指矢印左]吉備津 稲荷 庭瀬 撫川」とある。
 建立年を記録するのを忘れたが、左面にある寄付者の氏名表記(氏名が列記されており屋号などがない)から明治以降のものではないかと推測する。なお「篦取」は連島の篦取神社のことかと推測している。(篦取神社 神社紹介 岡山県神社庁のホームページ:サイト確認平成28年5月3日)

道標や地蔵  道標がある三角地帯には地蔵尊やその他の石造物がある。消防団の建物があり、そこから荒神社にも続く。

 荒神社(左写真)は前潟新田完成後、元禄元年(1688)に分祀されたという(調査報告6p10)。入口左にある金毘羅燈籠は文化二年の銘がある(文化二年は1805年)。

 入口右手前、ゴミステーションの横に明治三十八年に立てられた道標がある(右写真)。正面「左 金毘羅 瑜伽 田之口 茶屋町」とある。裏面に建立年と「日露交戦記念建立」と刻んである。
 日露戦争の記念碑はいろんな形である。戦没者の慰霊碑もよく見かける。市町村レベルでは太平洋戦争よりも多いのではないか。国力に余裕があったからか、勝った戦争だったからか。戦争の形態も変わっている。悲惨さは幾何級数的に拡大しているように思う。
汐入川横の荒神社 汐入川の近くの道標

 燈籠の横にある「舟本の港跡」の説明板を読むと、河川を利用した輸送が盛んだった頃のことが丁寧に説明してある。真っ直ぐ伸びた汐入川を下り、六間川、倉敷川を経由して児島湾から瀬戸内海に出て、大阪などに荷物を運ぶ。そんな旅もしてみたかったな、と思う。
 明治時代は花筵なども運んだのだろう。早島町歴史資料館で見学した花筵はとてもきれいだった。その頃この辺は賑やかだったろう。説明板には大正頃の風景写真が掲載してある。

【汐入川の舟の運用について】
 (前略)字舟本を基点として汐入川を利用して舟船により東京大阪、神戸、四国、九州方面との交通行はれ殊に阪神地方とは商取引の関係上頻繁に交通した。此の川も昨今は埋堆甚しき為舟行も不便となったが大正の初年迄は二百石積和船はゆうゆうと上下していた。慶応元年領主戸川氏御入部の際は此川を利用したのである。

 早島町史p17より引用。【 】内は管理人作成。また、仮名の繰り返し記号が横書きでは表記しにくいので、『ゆうゆう』と表記した。

 汐入川排水機場が道の西側にある。海を干拓して作った土地は排水の問題、飲用水の問題、農業用水など水の問題が多いようだ。排水に関してすぐに思い出すだけで、鴨方往来を歩いた時に吉浜で見た金浦排水機場、興除新田の境界標柱を探したときに見た藤田の用排水機場などがある。井戸の逸話もあちこちで見た。

 まっすぐ伸びる汐入川。茶屋町まで東岸に沿って歩く。亀がとても多い。景色は良いが交通量が多いので、楽しむ余裕はなかった。
汐入川排水機場 汐入川

 排水機場の分岐から300メートルほど南下すると汐入川が右に曲がるところで真っ直ぐ進む道と分岐する。分岐する道を直進すると久々原駅方面に向う。往来は川に沿って進む。分岐点に道標がある。
 もとは道の土手沿いに立っていたが、道路の拡幅で移転した(調査報告6p11)。正面に「右 瑜伽山 志毛つい 志もむら 道【指矢印】」、右面に「左 吉備津宮 にわせ おか山 道 【指矢印】」、左面に「すぐ きびつ おか山 いなり 道」と刻んである。
久々原駅への分岐 汐入川横の道標

 久々原という地名は、「くぐ」(浜菅、はますげ:カヤツリグサ科の多年草)が群生したからついたという(出典が紛れているので要調査)。

 しばらくはひたすら汐入川東岸を歩く。右手に墓地の石碑が目に入ったので、橋を渡って寄り道してみた。

汐入川西のお墓で  「南無阿弥陀仏」の六字名号塔と「南無妙法蓮華経」の題目碑、六地蔵尊が並んでいた。汐入川の西は日蓮宗一辺倒ではないんだ。そういえば別の機会に興除新田のなかを歩いたときもそうだった。入植者の多様性がうかがえる。

 さらに南に進む。倉敷市に入ってすぐに右側、川のむこうに東陽中学校が見える。中学校に行く橋がある交差点を左に曲がると、茶屋町小学校へ向う。小学校の近くに真如庵があり、帯江戸川家二代の安広公のお墓がある(真如庵)。ただし、往来は次の橋がある交差点まで直進。

 東陽中学校前の橋から360メートルほどで、次の橋がある。この交差点を左に入る(左写真)。
 汐入川の土手道から東に分かれて、80メートルほど進んで最初の角を右に入る。
 左側に旧家を見ながら、家のあいだを進んで小さな石橋を渡る。140メートルほど進むとやや広い県道74号線と交差する。交差点右手前に道標がある(右写真)。
茶屋町の分岐 茶屋町の道標のある交差点

茶屋町の道標  今進んで来た道に向って正面「すぐ 古んひ□ 道」(□は不明、[ら]であろう)、左面「右 い奈り 左 下津井 道」、裏面(県道74号線に面す)「すぐ 吉備津 お可山 道」、右面「若者中」とそれぞれ刻んである。

 直進して県道を横断する。県道から280メートルほど進んだところから右手に折れて寄り道して、素戔嗚神社を見学した。


【素戔嗚(すさのう)神社】
 もと宮崎割部落の氏神として勧請したものである。(略)すなわち同部落の中央に元禄元年ごろ鎮座、祭神は素戔嗚命である。(略)当部落の大氏神は早島の鶴崎神社であったので、明治四十年頃、住吉神社に氏子変更し、当社を住吉神社の社外末社とした。(改訂茶屋町史p267)。( 素戔嗚神社 神社紹介 岡山県神社庁ホームページ:サイト確認平成28年5月3日)。
 標準的な五角柱の地神塔があった(右写真)。
素戔嗚神社 素戔嗚神社の地神塔
 もとの道に戻る。


 寄り道を考えなければ、先ほどの道標からまっすぐ450メートルほど直進である。金毘羅大権現の手前で右の土手道から来た道と合流する。正面に金毘羅宮がある。
 茶屋町の守護神である。茶屋町史p270では「仏式である」という。また、鎮座を宝暦八年(1758)と推定し、「宝暦のころ汐入川には船が多く通っていたし、水門橋から本庁通りへ曲がって、二、三十戸ぐらいの町ができ始め、天城往来(本町通り)には金比羅渡しを渡って来た天城池田家の武士の姿も見えるという時期であった。」と続ける。
 明治になってお宮の東隣にお宮を建てたり、露店街も作って、賑わいがあったという(同p272、なお同p331に「金比羅の渡し場」として、現在の桜橋近辺にあった渡しについて書いている。下記参照)。

 境内は広く、安政六年の銘がある常夜燈や、大師堂(庚申天王や稲荷大明神社なども一緒の建物にある)、お寺のような鐘楼がある。末社というのか、境内に「美作痰咳神社」という名前札が立った小さな祠があった。
金比羅神社 金比羅神社拝殿

 下津井への道は金比羅宮の東側の道である。しばらく行くと左側から斜めに伸びてきた道と合流する。その角に道標がある。上部は破損している。かなり汚れていたのでちゃんと判読できなかったが、「左 にはせ はやし満」と推定した。
 そのまま川に向って進む。川にぶつかって左を見ると、地蔵尊がある。由緒は不明。地蔵尊の後ろに桜橋が見える。
桜橋手前の道標 桜橋近くの地蔵尊

 往来はここで汐入川を渡った。

金比羅の渡し場(四間堀の渡し場)】
 元文年間(1736-1740)より、現在の金比羅宮の南角から桜橋西側にあたる地点へかけて渡し場があった。渡し賃五文であったが、明治二十年桜橋の完工と同時になくなった。(改訂茶屋町史p331)
 明治二十年ごろに架けられた桜橋は、幅約一丈、長さ約二十間ぐらいの木橋で、有料であった。渡り賃は一人三文(後五厘一銭となった)で、大正六年ごろまで続いた(同p329)。

 少し土手を遡り、桜橋で汐入川を渡って天城に入る。渡り終わると、道は二つに分かれるが、左側の広い道(県道165号線)を進む。この辺は道が拡幅されたということである。
 正面やや右側に見える小高い山に向っていく感じでしばらく進む(橋から600~700メートル)と、道が細くなり、ゆるい登りになる。右側に長濱公民館があり、左側に大きな木がそびえ、その下に塀に囲まれた祠がある。

天城の道 天城の祠
祠の横の方に「福徳大明神」と刻まれた小さな石碑があった。由来は分からない。
福徳大明神

 細い道を曲がりながら上る。右側に祠があり、地蔵尊が祀られている。さらに進み、坂道を上りつめたところで左から来た道と出会う。廃線となった下津井電鉄線(下津井軽便鉄道)の軌道跡である(下津井電鉄の歴史 下津井電鉄株式会社:サイト確認平成28年5月3日)。現在は茶屋町児島自転車道(倉敷観光Web。サイト確認同前)となっているこの道と、ここから先何度か出会う。
天城の地蔵尊 下津井軽便鉄道の道と出会う

 少し先右手に廣田神社がある。天城一円を氏子とする村社である。池田由成及び池田由勝に崇敬されたという(藤戸p143-145、岡山文庫)。脳病平癒という幟が珍しいが、昔からのことのようだ。廣田神社(神社紹介 岡山県神社庁:サイト確認平成28年5月3日)小高い山の上に拝殿があり、周囲に注連縄を張った岩や和歌のような文章を刻んだ石碑、足神さまと幟を立てた岩があった。
廣田神社参道 廣田神社本殿

 坂を下り始めて少し行くと、先ほど接触した自転車道(茶屋児島自転車道1号線)と分かれる。下津井往来は直進(左写真)。

 200メートルほど進むと、左から合流する道があり、往来は右に曲がりながら進む。正面のカーブミラーに中国自然歩道の道標があるので、藤戸寺の方角へ進む(右写真)。
自転車道との分岐 自然歩道の看板

 天城池田氏の居宅(=御茶屋)は広田山の西端に置き、それを囲むように士族屋敷を置いた(藤戸p128-129)。それに該当すると思われる格式のありそうな家が続く道筋を進むと右側に「太齋神」という額がかかった鳥居がある。階段を上がってみたら小さな社があり、名前を刻んだ石などがあったが、縁起など詳細は不明。
太齋神鳥居 対祭神社

 さらに進むと、左側に天城小学校が見える。その向い、右手に遍照院がある。
先ほどの廣田神社の別当寺(神社を管理する寺)であった由(調査報告6p12、藤戸p140-143。【参考】遍照院について:児島八十八か所巡礼第45番 遍照院 児島八十八か所巡礼 岡山朝日高校S51年卒同期会のホームページ:サイト確認平成28年5月11日)
 山門の左右に地蔵尊と六十六部塔が配置されている。本堂の桁のところに「児島百番霊場・西国第三拾番 竹生島」と書かれた額があげてあった。札所の管理が移転することがあるらしいが、これがその例であるかは不明である。

 境内、やや高いところに成田山不動明王がある。また、塀際の目立たないところに道標があり、正面は「第四十五番遍照院」左面に「右[指矢印]理源大師 従是四丁」と刻んである。さらに「嘉永元申歳四月」(1848)と建立年が記されている。
 当寺は児島八十八ヶ所巡礼の四十五番であるが、[指矢印]が指す理源大師はこの時は不明だった(真言宗の僧侶の名前だが、この場合は寺院の名前だ)。
 あとで寄り道して、八十一番札所 正覚寺に参った時奥の院として「理源大師」があった。
遍照院山門 遍照院道標

 天城小学校の塀に沿って進むと、右に分岐する道に「第八十一番札所 (横に小さい字で)天城正覚寺」と刻まれた比較的大きな遍路道標がある。正覚寺はこの先にあるお寺だった。(児島八十八か所巡礼第81番 正覚寺 児島八十八か所巡礼 岡山朝日高校S51年卒同期会のホームページ:サイト確認平成28年5月11日)

天城の道標  調査報告6ではこの道標及び右に行く道については何も触れていない。調査報告6p12では、『「遍照院』から100メートル西へ進んだところで九〇度向き変える所に、道標がある。「右 ゆ可 金ひら 道」「左 吉飛徒(きびつ) 於可山(おかやま)」とある。』と書いている。そして、後ろの地図でも天城小学校からまっすぐ進み、それからほぼ直角に藤戸寺に向う線が引いてある。
 

 その通りに、まっすぐ進めば、藤戸町天城11で、道は左右に分かれる(左写真)。
左の道(ほぼ九〇度曲がる)を進めば、道はまっすぐ盛綱橋そして藤戸寺に続く(右写真)。向こうの緑は藤戸寺である。
盛綱橋前の分岐 遠くに藤戸寺を望む

 しかし、その角にくだんの道標はない。「右 ゆ可・・・」の道標は藤戸寺へ行く道とは逆の右に20メートルほど進んで、そこから左に曲がるところにある。正確にいうと左に曲がる曲がり角に右側から合流する細い道があるが、その二つの合流点にあるのである。ややこしいので下図を参照して欲しい。

天城分岐図 気になって別の日に再度訪問し、またいくつか資料を見た結果、調査報告6の順路を採ることにした。検討の途中で第八十一番札所 正覚寺を拝観した。)

 盛綱橋からの方が全体が見渡せる。なお[イ]と[ウ]の奥に東から合流するやや細い道がある。
 [ア]の道標は遍路道標である。右を指す指矢印の下に[札]が確認できる。その下くずし字の所の上の部分だけが見える。埋まっている下の部分に第四十五番札所の遍照院を示す何かが書いているのではないか。
盛綱橋側から 正覚寺への道標

 写真左側[イ]が由加山と金毘羅、吉備津と岡山を示す上記調査報告6で説明している道標。写真右[ウ]が、児島八十八ヶ所霊場 正覚寺を示す遍路道標。素朴な味わいがある。

正覚寺への道標イ 正覚寺への道標ウ

 このページを公開したあと、正覚寺の由来を書いた山門前の説明板を読んで、正覚寺が児島八十八ヶ所霊場81番となったのは明治三十年以降であることが判明した。(他にもそのことに触れた情報はあり、気をつけておれば大騒ぎして調査する必要はなかった。勉強にはなったが、かなりの労力と時間を費やした)。
 このことは、江戸時代の下津井往来について検討する場合、81番を示す遍路道標は考慮しなくて良いことを意味する。
 以上のことから、調査報告6p12にある通り、下津井往来は、小学校の前を直進し、直角に曲がって藤戸へ向う、ことが言える。なお、金毘羅道標が動かされたのではないか、ということもあわせて述べておきたい。検討過程を見る

 いくつもの道標に悩んだあとは真っ直ぐ盛綱橋に進む。橋の左側に佐々木盛綱の銅像がある。
 藤戸で源平が戦った藤戸合戦は以仁王が挙兵してから4年半、前年の水島合戦で一度は盛り返したものの平家がもう敗勢になっていた頃だろう。この戦いの三ヶ月後平家は壇ノ浦で滅びる。
 藤戸合戦の古戦場や佐々木盛綱、盛綱橋(藤戸橋)のことは藤戸合戦の古戦場をたずねてがわかりやすい(デジタル岡山大百科。岡山県立図書館制作。サイト確認平成28年5月6日)。ちなみに管理人は謡曲「藤戸」の物語が好きではない。切られた漁師があまりに哀れである。
 右写真は盛綱橋からの眺め。初冬である。
盛綱橋 盛綱橋からの眺め

 盛綱橋を渡る前に東詰を左に入る。上右の写真の堤の方から盛綱橋を眺めた写真が下左。手前の常夜燈は、こちら側からは瑜伽大権現の文字が見え、反対側からは金毘羅大権現の文字が見える。
 燈籠から川と反対に入ると右手の小高い山が経ヶ島である(デジタル岡山大百科)(右写真)。
盛綱橋近くの常夜燈 経ヶ島

 京都から西国街道を西に歩いていたとき、須磨公園で敦盛の供養塔と伝承のある大きな五輪塔や須磨寺にで青葉の笛と呼ばれるものがあったり、平忠度に関連した塚を見たりした。旅の終わりには安徳天皇をお祀りしている赤間神社に参った。西日本は源平合戦ゆかりの地があちらこちらにある。

 盛綱橋を渡れば、藤戸町藤戸である。橋の西詰を少し進むと右手藤戸饅頭の入口の所に旧藤戸町が設置した道路元標がある。(参考 道路元標

藤戸の道路元標

 県道22号線に出て、石垣に沿って左に進むと、藤戸寺の入口にでる。階段の手前に四十六番札所のどっしりした遍路道標が立つ。側面には「慶応四戊辰年、初夏再建之事」と刻んである。裏面には[閉じた扇で右を指す矢印]の下に「此方西方寺十五丁□」(□は判読できない。半?)と刻まれている。西方寺は、児島八十八ヶ所霊場の第四十七番である。(参照 児島八十八か所巡礼 第47番西方寺: 児島八十八か所巡礼 岡山朝日高校S51年卒同期会のホームページ:サイト確認平成28年5月9日)

 階段を上がると広場があり、緑に包まれた本堂は威厳がある。藤戸寺は真言宗のお寺で、本尊は千手観音である。寿永三年(1184)源平騒乱中の藤戸合戦によって荒廃したが、藤戸の渡しの先陣によって備前国守護に任じられた佐々木盛綱が堂宇を修復し、翌年、戦没者と盛綱が口封じのために殺した「浦の男」の供養のために大法要を行った。
 天正十八年(1590)に日蓮宗に帰依する常山城主戸川氏によって、放火されて伽藍は灰燼に帰したが、寛永八年(1631)岡山藩主池田忠雄によって再興された(調査報告6p.12)。
 (参考 児島八十八か所巡礼 第46番藤戸寺 児島八十八か所巡礼 岡山朝日高校S51年卒同期会のホームページ:サイト確認平成28年5月9日)

 また、沙羅の咲くお寺として有名で見学に行ったことがある(藤戸寺 倉敷観光WEB:サイト確認平成28年5月9日)。

藤戸寺の遍路道標 藤戸寺本堂

 本堂右手奥には岡山県指定重要文化財の中世の石塔がある。花崗岩でできており、全体の高さは355cm。寛元元年(1243)の刻銘がある鎌倉時代のものである(岡山県大百科下p675 項目の著者/桑田康信 及び調査報告6p12を参考)。
 右写真は北向き地蔵尊。
五重層塔 北向地蔵

 最初4人で来た時は藤戸寺で弁当を食べた。再確認のためにひとりで来た時は、藤戸寺前の食堂で、とんとこ飯を食べた。ここのは鮒飯ではなく、ゲタ(シタビラメ)をミンチにしたものだった。こちらの方がくさくないとのことだった。
とんとこ飯
児島湖のふなめし 岡山県 地産地消(サイト確認:平成28年5月9日)


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