書いていることはいちおう点検していますが、見落としもあると思います。情報を利用される場合は、ご留意ください。
地図は北を上にしています。記述は岡山側からなので、下から上への説明になります。
歩行日 平成27年10月02日(金)距離 約 3.1キロ
(鴨方往来と一緒です。読み飛ばす場合はここをクリック)
吉備温故で官道の起点とする千阿弥橋があったのは、栄町(千阿弥町)と紙屋町の境界である(調査報告2p4他)。栄町は現在表町二丁目、紙屋町は表町三丁目となっている。南北に延びるアーケードと東西に伸びる道が交わる信号のない交差点が千阿弥橋のあったところである。
東西に伸びる道は、かっては堀であった。東に目をやれば電車道りを越えてかって大手門があった方向まで見通せる。
下の写真は西大寺町を背にして、天満屋方面を向いたときのものである。天満屋方面の角の西にチャコット(Chacatt)岡山店、東にGalley & caffeがある。
江戸時代の栄町は岡山城下町の行政の中心であり、町会所、札場(藩札と貨幣を交換する)、本陣や鐘撞き堂があった。(岡山の町人p11、片山新助著、岡山文庫117、日本文教出版、1985。吉備温故が記す栄町の記事を見る)。
栄町の南に続く西大寺町(問屋、両替商、銭屋)、紙屋町、北に続く下之町から上之町までも繁栄した町筋であった。しかし、現在はほとんど何もない。この一帯は昭和20年6月29日の岡山空襲で灰燼に帰した。往事を偲ぶものは、いくつかの町名碑、「桃太郎ポケットの鐘撞堂の模型」と「乱投狐」の説明板くらいしかない。
(参考:鐘撞堂について、乱投狐について。)
表町商店街のアーケードを進み、天満屋の北角、県庁通りの交差点まで進む。県庁通りとの交差点左側に観光案内地図と並んで「旧下之町」の町名碑がある。
県庁通りを横断し、表町一丁目に進む。時計台(北時計台というそうだ)の先、左(西)へ分岐する道の角に、「旧上之町」の町名碑がある。それによると、最初は福岡町と呼ばれたということだ。そして、「江戸時代この町で山陽道と美作への道がわかれていました。」と書いてある。
岡山シンフォニービルがある角のところ(商店街の出口)で西国街道(山陽道)と津山往来が分岐する。西国街道は左折して、西に向う。
「分岐点に立っていたと推定される道標」(調査報告2、p4)を探したが見当たらなかった。時間をかけて周囲を探したが、目印のスタンド芳徳も見つけることができなかった。
後日諸方に問い合わせたところ、岡山県教育委員会、岡山市教育委員会、岡山シティミュージアムからご連絡いただいた。分岐の道標は、現在岡山シティミュージアムに常設展示されていた。早速見学に行った。写真はその時のものだが、この部分は撮影禁止ではなかった。
中国画材は2007年倒産、現在はアムス岡山になっている。そしてレクストイン岡山も今はなくエクセル岡山というホテルがある。ホテルの横にはレストランがある(平成27年10月現在)。もちろんどちらも通り抜けができない。建物のあいだに人ひとりが通れるくらいの隙間があったので行ってみたが、かなりずれたところに出た。
電車通りを横断して進んだ道の最初の四つ角(右向かい角に桂林堂がある)を右折し、オリエント美術館方面に曲がって少し進むと甚九郎稲荷がある。
説明には上之町の守護神とあった。境内には朱塗の神殿や備前焼きの狛犬、亜公園の集成閣と書かれた石柱などがある。狛犬は亜公園内の天神神社に置かれていたようだ。戦災にあったということだが、かなりきれいだ。
亜公園は明治中期にこの辺に作られたレジャーセンターで、集成閣は浅草の凌雲閣をまねて作った7層の高楼展望台であった(岡山県大百科)。
津山往来はオリエント美術館の建物を左(北)に見ながら、片側2車線の広い道を東に渡る(左写真)のであるが、信号もなく交通量も多いので、迂回。少し南の城下交差点の歩道を渡る。
本来の位置まで移動し、人通りの少ない道に入る。それから最初の分岐を左折する(右写真)。右手にあるビルに阻まれたアムス岡山方面から来た道とつながることになる。
そのまま道なりに進むと、正面に岡山神社が見えてくる(左写真)。神社に向かって進む。岡山神社は江戸時代の古文書によく出てくる「酒折(さかおり)宮」である。左折して神社の正面前を通る。
酒折宮は備前池田氏の信仰厚く、正面の随神門は池田継政の指示で延久2年(1745)に造営された。岡山空襲で焼け残った数少ない近世建造物であり、岡山市指定重要文化財である(同地の説明板)。狛犬には文化七年庚午(1810)と刻んであった。
明治15(1882)年に酒折宮を「岡山神社」と改めたということだ。もと県社である。岡山神社ホームページ。(参考 岡山神社 神社紹介 岡山県神社庁 サイト確認:平成28年6月14日)。
境内には天満宮・伏見稲荷・日吉神社・清光稲荷などの祠がある。境内の端から岡山城が見えた。
岡山神社の前を進むと、さきほどの片側2写真の広い道路(城下筋)に出会って右折。城下筋を北に20メートルほど進んで最初の分岐(左写真:県立美術館の向かい)を右へ進む。道はやや狭い。曲がり角の右側は「吉田種苗園」である。
左にゆるくカーブする道を進むと視界が遠くまで届く道(右写真)になる
道なりに進むと左側に岡山出石郵便局があり、その先に「後楽園口」の信号交差点がある。交差点北西角に明治に建築された「福岡醤油」の建物が見える(左写真)。津山往来は直進して北に向う。
右角に「後楽園口」の道標がある。右を見ると、鶴見橋から後楽園が見える。明治になるまでは一般の人は入ることができなかった。公園ではなかったわけだ。
出石町は、昭和20年の空襲の被害がなく、古い建物が残っている。その象徴のひとつが福岡醤油の建物であり、福岡醤油建物プロジェクトなどの事業計画がある(サイト確認:平成27年10月12日)。
100メートルほど行くと左側に楠本神社がある(左写真)。伊勢神社の末社である(説明板)。大きな椋の木があり、奉納された柱石に「讃州(州は力が3つの字)」、「児島郡 邑久郡 塩船中」の文字が見える。
瀬戸内海は製塩が盛んで、各地に輸出されていた。北前船などでも塩回船とか塩船と呼ばれるものもあったようだ(「塩道と高瀬舟」高岡儀八著、古今書院、1973。などによる)。児島郡や邑久郡の塩船中がどのような組織で、榎本神社とどういうつながりがあったのかは、残念ながら分からない。
さらに進むと、新鶴見橋を越えて来た広い道(県道402号線)と交差する手前左側に油掛大黒天がある。
県道402号線を渡って400メートルほど北に進むと、左手に火の見櫓がある。その隣りにある消防団の機器庫の横から、下に向かう石段がある(左写真)。階段の右横に小畑町町名碑がある。
その石碑によると、この辺は伊勢神社を中心に発達し、伊勢宮町と呼ばてれおり、延宝4(1676)年に小畑町と改名された(伊勢神社 神社紹介 岡山県神社庁 サイト確認:平成28年6月14日)
少し曲がりながら緩い坂を下り、山陽本線のガード(写真)をくぐる。右側に「セイショク」と書かれた大きな煙突がある。
左側に天満屋ハピータウンがある。その先新幹線の高架をくぐる。(左写真)
岡北大橋から西に向かう広い道(県道96号線)が広がる。道路を越えた右側に心臓病センター榊原病院の大きな建物が見える(右写真)。そのまま北進して広い交差点を渡る。
新幹線の高架を過ぎて、県道を横断したところから先の道は資料によって異なる。
直進し、幼稚園の西側を進み、栄橋の少し上流で西川を渡る。その先道は狭い。右側に公園がある。
【寄り道】
御野幼稚園の渡って、西川の西岸を少し戻ると天計神社がある。もとは村社であるが、式内社の天計神社と比定されているという。神宮寺山古墳の上に鎮座している。(天計神社 神社紹介 岡山県神社庁 サイト確認:平成28年6月14日)
なお寺院としての神宮寺は妙善寺(日蓮宗不受不施派)の末寺であったため、寛文の寺社整理の際廃寺となった(岡山県大百科)。
急な石段を上がって社を拝む。
境内にショウ儀型の地神塔らしいものがあった。彫字は薄れていたが「倉」と言う字が読み取れた。倉稲魂命(うがのみたまのみこと)だと思う。
地神塔の神名のところに墨のようなもので短歌のようなものが書かれていた。薄れて読み取れなかったが。何が書いてあるのか、なぜそのようなことをしたのかは分からない。
天計神社の拝殿などがあるところは、神宮寺山古墳の後円の上である。神宮寺山古墳は国指定史跡で、全長150メートル、後円部径約70メートルの大型前方後円墳である。鍬・鎌などの鉄製農具やヤリカンナ・ノミなどの工具や刀・剣などの武具も大量に出土している(説明板より抜粋)。
天計神社から見ると、墓地となっているところが前方部であるという。
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