津山往来6-2

全間信号(弓削)~誕生寺

歩行日 平成27年10月30日(金) 距離 約3.7キロ  


 書いていることはいちおう点検していますが、見落としもあると思います。情報を利用される場合は、ご留意ください。
 地図は北を上にしています。記述は岡山側からなので、下から上への説明になります。
神目から全間信号までの略図


 全間(またま)から弓削方面へ進む津山往来は大山ボキという難所を越えていったが、国道53号線の拡幅のために、旧状は残っていない。(調査報告2p20) (大山ボキ)
 難所である大山ボキと深い関わりがある瀧川(たつかわ)神社を参拝していく。
 もともと、難所通行の牛を守るために、伯耆大山の神を勧請して、大山権現とした。明治の終わりの神社統合で、上二ヶの若室神社、下二ヶの道脇神社、佛教寺の西宮神社など統合して、倉尾神社として祭り、その後龍川神社と改名した(久米南町誌p29)。
龍川神社 神社紹介(岡山県神社庁のサイト。サイト確認:平成28年8月28日)。
龍川神社拝殿 龍川神社本殿

 本殿の横に小さな祠が4社、様々な石塔が4基祀られていた(さらに小さい祠が2社)。石の祠は「九年」と「八月十日」の文字以外判読できなかった。自然石の地神塔もあった。いろいろな神社を統合したということだろう。
 久米南町誌p30にある『大山ボキの村境を守った「才の神」を“幸神(さいのかみ)”と彫り込んだ石柱』もあった。
龍川神社 龍川神社幸神


 龍川神社を出て周囲を見るが、大山ボキと呼ばれる峠道への入口らしいものはない。北側の奥に広がった空き地に入っていくと、ゴミの山。その奥は雑木と藪で入れない。
53号線弓削
 国道53号線を北に進む。左側に津山線の線路が続く。その西側が、旧国道である。旧国道、津山線、53号線が並行して進む。
 辛香峠などのいくつかの区間を除き、津山往来と津山線はつかず離れず続いていく。鴨方往来や下津井往来、西国街道(山陽道)にない特色である。
 我々は東(右)側の山に大山ボキ道の痕跡を捜しながら、現在の国道53号線を北上した。仮に痕跡があっても、つながって歩ける道はなさそうだ。
53号線弓削

疑似大山ボキ

 後日、逆に歩いたり試行錯誤をした結果、53号線の東側の山を越えて、駅から来る道との交差点に出る道を見つけた。この道が大山ボキそのものとは思えないが、雰囲気的には近いものがあるかな、と思い「疑似大山ボキ」と名づけた。
 入口は左の写真。龍川神社の横の道である。その後、峠につくまでひたすら登る(右写真)。
疑似大山ボキ1 疑似大山ボキ2

 左側に杭に鉄線を張った柵で囲った空き地があれば、頂上はもうすぐ。T字にぶつかる(左写真)。左に曲がれば峠の頂上。そこに墓地がある。ただし、こちらの道は国道に下りたとき、目的地より手前に着くので、ここでは右に折れて坂を下り始め、次の国道53と書いた看板(字はかなりかすれている)のところを左に折れて下がっていく。
 国道53号線が見えてきたとき、右を向くと歩道橋のある交差点が見える。
疑似大山ボキ3 疑似大山ボキ4

 下の道は国道53号線、「灰原商店」の看板のところに下りる。
疑似大山ボキ5

 ここから国道を歩く

 弓削駅からの道との交差点に出る。この道は、旧国道である(調査報告2p20)。最初の歩行時は、弓削駅には寄らなかったが、後日見学した。


駅前(東側:駅舎がある)の駐車場、入口のところに御瀧道道標、岡山からの里程標がある
御瀧道道標(大きい石柱)
[七面山 御瀧道 是より二十丁][大正十一年十二月建立、石工福岡国造]
弓削町内の分岐で見た「おたき道」道標と同趣旨。
岡山里程標(右に拡大)
[距岡山元標十一里][明治十六年五月一日岡山県]
岡山県が建てた里程標。津山往来で見たのはこれだけ。
弓削駅前の道標 弓削駅前の里程標

句 碑
「俺に似よ おれに似るなと 子をおもひ」
 弓削川柳社が1950年に建てた麻生路郎の句碑。
弓削の句碑
 麻生 路郎、川柳全集2、構造社、p155-157の略歴によれば、路郎62歳の昭和25年(1995)に大阪、奈良、岡山(弓削)に句碑が建立されている。さらに翌26年に岡山県吉永に句碑が建てられている。
「道頓堀の雨に別れて以来なり」(田辺聖子、中央公論、1998)には明治末から大正時代の盛況な川柳活動が描かれ、各所に川柳結社や支部ができたことがわかる。
また「岡山の川柳」(弓削川柳社編、岡山文庫38、日本文教出版、昭和46年)p24-29で岡山の川柳活動に麻生路郎が大きな影響を与えたことが記されている。もちろん剣花坊など他の作家の影響もあった。弓削は今でも川柳の盛んな地域であるようだ。


 建部駅から来る旧国道が53号線に合流する交差点のところに陸橋がある。陸橋を過ぎてすぐ廃業したガソリンスタンドの手前を右手に入る。ガソリンスタンドは53号線に沿って2軒続いている。2016年8月に通ったら、手前の方は営業していなかった。
 右写真は陸橋の上からの撮影。左側の道路が53号線。右が津山往来
陸橋 陸橋の上

 53号線の裏通りのような道であるが、かってはこちらが津山往来であり国道だった。「津山街道歩いてみれば」p15によれば、郵便局や銀行など公共性の高い建物が、旧国道筋から新国道(現53号線)に移設していったそうだ。
 また、この辺に津山からの5里の里程標があったらしいが、今はない(調査報告2p20)。ただし、「津山街道歩いてみれば」の著者は個人の家に保管されているものを見られた由(p15)。
 2~3分歩くと右手の路地の上に、小屋に収まった石碑が見えた。自然石の前面を削って、「南無阿弥陀仏」と彫ってある。これも名号塔というのか。題目碑ばかりを眺めてきたので新鮮だった。
名号塔 名号塔2

 その先、分かれる道の角に「おたき道」と刻まれた道標がある。弓削駅から旧国道を通ってここまで来て、東にある七面山の瀧を指示している。身延山の七面山と何か関係があるのか、と思ったがよく分からない。
 道路に向った面に寄進者として「津山町 鶴山合名会社」ほか13名の名前があるということだが、表面の風化もあり、あまり注意して見なかったので気づかなかった(「津山街道歩いてみれば」p14)。
御瀧道標

 その先泉橋を渡って、ザグザグの裏を通って、鍵型に曲がった道を進む。陣屋があったためだろうか。
 街道沿いの家らしい構えの近藤書店(左写真)横の分岐を曲がった先に弓削小学校がある(右写真)。門の手前、駐車場のところが、かっての弓削陣屋の跡であるようだ。弓削陣屋の建物は昭和53年まで旧中央公民館として残っていたということだが今は何もなかった。
(弓削陣屋)
弓削小前 弓削小

 古井戸の枠だけが門の近くにある。来歴は不明。
井戸枠

 元の道に戻る。
 和風の派出所の前を通る。右に入る路地の先に泰西寺がある。泰山寺の光明坊が西山寺と合併して泰西寺となった。(参考:美作八十八ヶ所霊場 泰西寺 :サイト確認 平成28年8月28日)
 行って見ると山門は往来の反対側にあった。本堂に「川柳の寺」と書いてあった。川柳ふすまがあるそうで、拝観できるそうだが、とりあえず本堂や周囲のお地蔵さんだけ拝んだ。
泰西寺山門 泰西寺本堂
 もとの道に出ると、目の前に河童の石像がある広場に出る。
  河童

 この変形交差点を国道53号線の方(上の写真で左)に行くと、53号線を越えたところに、社会福祉センターがある。そこに「義民河原善右衛門遺跡」と刻んだ石柱が立っている。隣りの説明板に、「以来この(田圃)を磔田と称し」とある。この辺のことだろうか。
義民碑
 もとの道に戻る。

 河童街道散歩道の旗がある。両方の家や店に川柳を書いた大きな暖簾が下がっている。川柳と河童で町おこしを続けている町で、川柳教室に同時に参加した人数でギネス記録を達成した(久米南町図書館にそのことが掲示してあった)。
 暖簾に書かれている川柳は川柳独特の毒がない。その分地域や家族の温かみを詠んだものが多い。地域全体でやるとなるとそうなるだろうな。弓削駅にも川柳が掲示していた。
参考:久米南町HP 久米南町と川柳(サイト確認:平成28年8月28日)。
川柳暖簾 川柳暖簾2

 その先の方に国道53号線が見通せるところで右斜めに延びる細い道がある。変形交差点の手前左側に散髪屋、左側に分岐する道の先も国道53号線が見える。
津山往来は久米南町消防団の機庫の右側(東側)の細い道を進む。
分岐

 右に曲がった細い道が途中から左に曲がりながら進む。右側の低い石垣の上の空き地に、祠・地神塔・題目碑・常夜燈がかたまってある。
 題目碑正面には「南無妙法蓮華経 日蓮大士」とある。見落としたが「五百遠忌 天明元年辛丑年十月十三日當村講中」という文字も刻んであるようだ(「津山街道歩いてみれば」p11)。『天明元辛丑年』ではないか、と思う。
 地神碑は木の陰で見落としそうになった。
 往来を歩いていると、自然石の地神塔一辺倒のところ、題目碑一辺倒のところ、両者が混在しているところなど、その地域の信仰が垣間見えることがある。五角柱の地神塔はまた別の系統のようだ。
地神・題目碑

 左側に国道53号線を見ながら、畑の横や家のあいだを進む。塩之内川の手前でやや広い道に合流して、白い鉄パイプの橋を渡る。
塩之内川の橋

 この先、山側に道が延びていた時代もあったようだ(調査報告2p22)。ここから先は誕生寺川の改修により道筋も何度か変わったようで、調査報告2でも確定に苦労をしている。また、「津山街道歩いてみれば」と異なっている道筋もある。基本的に調査報告2の地図、記述に従って歩いた。

 そのまま道なりに進み、上弓削の交差点で53号線に合流する(左写真の正面が交差点の南側。その先に製材所が見える)。

 調査報告2p21では、「弓削高校前交差点」となっているが、弓削高校は平成24年3月31日で閉校になった。その跡地は県立誕生寺支援学校弓削校地となっている。

 調査報告2p22によると、津山往来はこのまま53号線を斜めに渡り、上弓削信号の手前の製材所(右写真)の背後まで進んでいき誕生寺川に近づいていく。「津山街道歩いてみれば」p10でも、(歩き方は逆であるが)製材所を通り抜けて新地橋の東詰を過ぎ、誕生寺川東岸を通るのが津山往来だとしている。
交差点 製材所

 製材所周辺を探索するが、誕生寺川の東岸、新地橋の東詰には家があり、東岸の土手に出られない(左写真は新地橋東詰。建物は物置だが、広い前庭のある農家の一角である。)
 誕生寺川の東岸が国道と接するところまで点検しながら53号線を歩いてみたが、畦道以上の道はなく、その畦道も民家や木などで寸断されていた。歩くことはできそうもなかった(右写真では畦道が広く見えるが、実際は細い。また所々木が生えているし、屋敷地が川まで伸びているところもある)。
新地橋東詰 誕生寺川東岸

検討の結果、調査報告2の地図に従って、誕生寺川を左手に見ながら国道53号線を北上することにした。

誕生寺川横 この道はもちろん、かってあった誕生寺川東岸を歩く道も寛永から享保年間までに掛け替えられた可能性が高い。
 かって誕生寺川は水害が多く、河原善右衛門などによって改修されたようで、現在の国道53号線、及び誕生寺川東岸は河原だったと思われる。そうすると、旧来の街道筋は、先ほど塩之内川を渡ったところから東回りに北上して、支援学校弓削校舎の東側の丘陵を通っていた可能性が高い。

上弓削に「津山から四里」の一里塚が昭和29年頃までは存在していたようだが、今は何もない。調査報告2p22では国道53号線の拡幅によって旧状はまったく残っていないとしている。(製材所以降の往来の検討についても同書p22による)

 上弓削の交差点から500メートルほど進むと、右手に喫茶店、それから消防署(津山圏域消防組合久米南出張所)がある。

 そこから60メートルほど進めば、左手に大師堂がある。中の仏様(お地蔵様に見えるが大師堂にお地蔵さんを祀る?)は赤い前掛けと赤いかぶり物をされている。交通安全と書かれた布が何枚も下がっている。国道沿いだからか。
 正徳5年(1715)創立(津山街道歩いてみれば、p10)である。近辺に事故災難があると中の大師像が全身脂汗に濡れると伝えられる。(同前)
 国道を隔てた向かいに上弓削公民館がある。この雰囲気も好きだ。
大師堂 上弓削公民館

 そのまま53号線を北上、久米南町民運動公園を指示する道路標識がある。ここが大家口で、誕生寺川の改修以前は、ここに往来が下りて来ていた可能性が高い。
 右側につるやがある。つるやを見るとなんとなく津山だな、と思う。

 津山往来はこの先53号線の東側を通っていたようだが、調査報告2の調査が行われた頃には“痕跡らしい”と記述される程度しか残っていなかったようだ。
 つるやの背後あたりに目をこらしながら歩いたが、通行できそうな道はなかった。調査時点から20年以上経過しているので、失われた道も多いと思われる。

 53号線をそのまま進む。右側の藪のなかに道の痕跡らしいものもあったが、竹林に覆われて試しに通ってみる気も起きなかった。

 これまで53号線の西に接していた誕生寺川が離れていく。つるや弓削店から250メートルほどのところだ。調査報告2の地図では、今は残っていないつるやの背後を通る道から下りて来た道が53号線を横切り、誕生寺川に沿っていく。写真左の畦道がそれに該当すると判断。53号線から離れ、畦道を歩く。これが本当に津山往来?という疑問が起きるが、調査報告2の地図の通り歩いているつもり。(岸の竹で見えないが)誕生寺川に沿っているのと、畦道としては広いのが救い。
分岐 畦道

 畦道を歩いていると、左側の橋から伸びてきたアスファルトの道と交差する。直進して、あくまで誕生寺川の東岸を進む。
民家の裏庭のようなところを通り抜け、誕生寺川と畑のあいだを通って行く。
畦道2 横の道

 誕生寺川が半円を描いて国道53号線に向かうのに沿って道も半円を描いて53号線に向かう。写真の目の前が53号線である(左)。しかし、出てみると誕生寺川の南岸には家があり、先に進むことができない。
53号線の手前 53号線

 調査報告2の地図では、53号線の西側から東側にいく道はまっすぐつながっている。「岡山街道歩いてみれば」でも、東から西へ道はまっすぐつながって誕生寺川にかかる久保田橋の南側で53号線を横断している。しかし、実際に歩くと道は53号線のところで数メートル南にずれてつながっており、一度誕生寺川東岸から離れる。
 西から53号線の久保田橋南詰に出た場合、53号線を越えたところ(東側)には農家がある。かなり広い敷地と倉庫や畑の分だけ南に下がって、そこから東側に延びる道がある。その分、53号線を南に下がってから東に進むことになる。
 誕生寺川の土手道という概念でいくと、53号線西側の道はそのままで、東側の道が家の敷地と畑の分だけずれたとも考えられるが、詳細不明。圃場整理の影響か。

 53号線を少し南(岡山側)に下がったところで西から東に渡り、前記の農家の敷地を左に見ながら進んだ(この写真は再調査時:平成28年8月)。

53号線から東へ

 田圃の中の道を進む。竹林があるので誕生寺川が見えないところがあるが、分岐を左、左と進めば川に近づいて、その後川沿いに進む。分岐の右側に「岡本薬師堂」という額がかかったお堂がある
田圃道 岡本薬師堂

 調査報告2は、我々が歩いた道と同じ経路であるはずだが、岡本薬師堂についての記述はない。「津山街道歩いてみれば」は、そもそも経路が異なり、薬師堂の前の道は通らない。(岡本薬師周辺の道の検討)

 お堂の前の分岐も左側。誕生寺川に沿って進む。少し先にある橋で誕生寺川を渡る。
橋


 渡る前に、反対側山側にある石碑が目に入ったので見にいった。
小さな石碑一つは「大日--」と読めた(左写真)。大日如来か。もう一つは「為 陸軍騎馬 石民号菩提」と刻んであった(右写真)。


 橋を渡るとすぐ右に下り、公会堂のような建物と誕生寺川のあいだの石垣の上の細道を歩く。左側が田圃になり、道は正面の竹林を回り込んで53号線に向かう。 誕生寺川西1 誕生寺川西2

誕生寺川から離れ、竹林の裏側に回り込んだところに題目碑と上部がなくなった常夜燈がある。

題目碑題目碑には「南無妙法蓮華経 日蓮大士 寛政五癸丑八月 当村講中」と刻まれており、台は1977年の日付がある。常夜燈は昭和十三年のもののようだ(「津山街道を歩いてみれば」p9)。
 誕生寺に近いのに題目碑がある。浄土宗一辺倒ではないんだ。

 民家の庭先を通るような感じで、53号線に出て、横断する(左写真)。53号線から斜めに別れた道が真っ直ぐ北へ延びる(右写真)。調査報告2p23にも書いているが、津山往来では珍しくまっすぐな道である。
 

 分岐から10メートルほどで紅梅川という美しい名前の川を渡るが、道路が続く左右に白く塗った鉄パイプの柵があるだけだ。さらに進んで、最初の交差点。右(東)を向くと、53号線を越えて稲岡神社の鳥居が見える。53号線の手前に稲岡神社と刻んだ石柱もある(左写真)。
 その場で津山線の時間を確認すると、15時27分発まであと10分ほどだった。その後は1時間半後だ。津山線は本数が限られている。ここを到達地点とした。交差点を左(西)に折れて踏み切りの手前を北へ曲がると誕生寺駅だった。
稲岡神社 誕生寺駅


津山往来7
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岡山の街道を歩く

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