津山往来 7

7-1 誕生寺駅 ~ 都原

歩行日 平成27年11月06日(金) 距離 約2.3キロ
7-2 都原 ~ 亀甲岩まで

 書いていることはいちおう点検していますが、見落としもあると思います。情報を利用される場合は、ご留意ください。
地図は北を上にしています。記述は岡山側からなので、下から上への説明になります。
誕生寺駅から都原までの略図


誕生寺駅で下りると駅舎正面に道標が3種。

道標 一番上は誕生寺、二段目は北庄棚田と神之淵池を示す。石柱には「左 誕生寺」と刻まれている。我々はもとの稲岡神社の鳥居が見える交差点まで戻るので右折れ。

 誕生寺駅から5分で交差点に到着。北を目ざして歩き始める。右手に民家風の派出所がある。しばらく行くと誕生寺郵便局。これも右手。この辺は近世には家はなかったと調査報告2p24はいう。一面の田圃の中の道であれば、誕生寺が遠望できたかも知れない。
誕生寺道

 右側に再び現れる誕生寺川に沿って歩き、右に曲がりながら、誕生寺橋で片目川を渡る。片目川は誕生寺の境内を流れてここに至り、誕生寺川に注ぐ。

誕生寺橋

 誕生寺橋を渡って右に曲がりながら進むと、かなり広い交差点に出る。誕生寺駅で見たのと同じ北庄棚田や誕生寺を示す案内板や道路標識がある。正面のカーブミラーの右側のやや細い道(軽トラックがやっと通れるくらい)が、津山往来、左に進む道が誕生寺参道である。斜め前浄土宗の開祖法然上人生誕の地に建立されたお寺である。
誕生寺分岐点

 交差点の手前右角に「本山寺道」と刻んだ道標がある。本山寺は浄土宗の開祖法然上人の父母がここは本山寺と誕生寺へ向う参道の分岐点だったようだ。(本山寺について)

 津山往来である細い上り坂入口の左側のカーブミラーの隣りに誕生寺道標がある(左写真)。
 正面 [誕生寺之道]、左側面[「貞享」五戌辰二「月■日」]年と刻んである(「 」は判読できずに「津山街道歩いてみれば」p5によった)。
 貞享五年[1688]建立というのは、誕生寺が法華宗徒により焼き討ちされてのちの再建よりも早く、年紀のある道標としては岡山県で一番古い(岡山の道しるべp161)。
 誕生寺道標の右側の道を登る。
誕生寺道標 上り道入口

 道なりに登っていく。加茂神社が西に鎮座されているが雑木林で見えない。登り切ったところでいったん53号線に合流する。穢土(えど)が乢(たわ)と言っていたのはこの辺か。かって林の中に小さな芝居小屋があり、遠くからも見物に来ていたという(「津山街道歩いてみれば」p4))。
 合流する手前左側に比較的新しい地蔵尊がある(左写真)。目の先に国道53号線の切り通しの上を渡る高架橋がある。
  53号線を少し進むと、高架の手前から左に入る山道が津山往来である(すぐ前に来るまで気づかない:右写真)。左折し、坂を上り、すぐに右に曲がる。真っ直ぐ行くのはまちがい。加茂神社のうしろに出る。
地蔵尊(誕生寺) 上り坂出口

 最初はまっすぐ行って、加茂神社の拝殿横に出てしまった。参拝して、表に下りると誕生寺参道だった。ぐるっと回ってもとの道に戻った。
加茂神社 加茂神社鳥居

 高架橋の西詰め側を北に行くのが津山往来だが、この時は、高架橋を渡って、墓地の題目碑を拝観した。左写真の右に写っているガードレールが高架橋。
 墓地の南側の端に祠と題目碑がある。この題目碑は寛政二年(1790)のもので墓地と一緒に道路工事で西側から移されたようだ(「津山往来を歩いてみれば」p4)。
高架橋西詰 題目碑

 高架橋を渡り直して、西詰から山裾の道を進む。下を国道53号線が通る。(左写真)
 赤い屋根の家の山側を通り抜け、50メートルほど進むと、右側に墓地がある。その裏側に当たるところに植え込みで囲まれた河原善右衛門の頌徳碑がある。碑は国道及びその先の誕生寺池に向いているので、道を少し逸れて、国道に出る。目の前の誕生寺池の造築も河原善右衛門の業績の一つである。
誕生寺池近く 善右衛門碑

 この碑は新しく、昭和47年に建てられたようだ。正面の「頌徳 贈従五位 義民河原善右衛門の碑」の横に「岡山県知事 加藤武徳」の記名がある。
 側面には善右衛門の功績として「(前略) 延宝天和の頃下弓削村大庄屋河原善右衛門あまたの池を造り新田を拓き運河をもくろみて綜合開発の先駆をなす 村人らその徳を慕い語り伝えて義民と称す 偉なる哉 昭和四十七年一月 誕生寺池用水組合建立」とある。 横の説明板には、次のように河原善右衛門の経歴と業績を書いている。

【河原善右衛門と誕生寺池】
 河原善右衛門は、寛永八年(1631)弓削村(久米南町下弓削)に生まれ、幼少の頃から大志をいだき、経世の才に長じ、好んで大事業を起こす気概がありました。
 壮年に及んで美作の国主森公により、大庄屋を命ぜられ、能く善政を施し、地方の開発と人々の利益増進に生涯をかけました。誕生寺池は、善右衛門の数多い河川事業や開田事業の内最も大きなもので、大和年間に築造され、灌漑面積は66ヘクタールにもおよび、今でも誕生寺・弓削両地区の水田を潤しています。

 美作に入れば、いろんなところで善右衛門の古跡に出会う。
 yahooの地図(航空写真)で、誕生寺池の大きさを示す。

 もとの道に戻り、少し高台の畑道を歩く。見晴らしが良く、適当に上り下りがある。車も少ない。のんびりと歩くことができる。
 頌徳碑から3~4分歩くと右側に墓地がある。髭文字の墓碑が並ぶ墓地の往来よりに津山からの里程標4里があった。 [久米南条郡北庄里方字徳竹] [距津山源票四里] [明治五年八月検査7里]とある。里程標7里が福渡から登る石引峠、6里が神目の藪の中にあった。4里がここにあると5里は?と調べると、個人の家で保管されているようだ(「津山往来歩いてみれば」p15)。
里程標津山4里 里程標津山4里

 片上や岡山であがった魚を籠に入れてこの道を通り、津山城下に届けたという逸話が「津山街道歩いてみれば」p2に載っている。冬はともかく夏は鮮魚というわけにはいかなかったのではないか。

 その先に跨線橋。切り通しの底を津山線が通っている。箕地トンネルへの進入路、神目から下二ヶへの線路、そしてここ。高低差が大きい路線を非力な蒸気機関車で運用する苦労が偲ばれる。

 跨線橋を越えてすぐ、53号線里方信号から来た道と交差する(左写真)。直進し、家のあいだを抜け、田園風景の中を進む。
 その先のT字路(T字の交点の少し西に家に入る道があるので、純粋のTに見えない)では、ぶつかったところから右に進む。
交差 T字路

 道なりに進んでいると、坂を上りながら53号線に近づくが、その後また離れる。53号線上に「美咲町」の町名表示が見える。
 坂を登り切ってすこし行くと「郷社 西幸神社」と刻んだ石柱が左側に見える。西幸神社はこの石柱横の参道を200メートルほど行った林の手前にあり、鳥居が小さく見えた。
西幸神社 神社紹介 岡山県神社庁のホームページ(サイト確認:平成28年8月30日)
石柱の参道向かい側に自然石が立っていたが、文字などは読み取れなかった。
西幸神社石柱 西幸神社鳥居


 再調査の時、西幸神社へ参詣した。
 鳥居の額は「三社権現」となっている。かって王子権現という社号であったり、明治に大宮三社と改称されたそうだが、それと何か関係があるか。西幸神社の拝殿と本殿。
西幸神社拝殿 西幸神社本殿
 もとの道に戻る。

 そのまま道なりに進む。右手の墓地の道路沿いに、新しい庵がある。「宝珠庵」という額がかかり、「中部第三十二番霊場」という表札がかかっている。初めて見る霊場巡りだ。
宝珠庵

 帰宅後調べると、「久米中部霊場」というものがあった。明治22年に久米南条久米北条両郡に渉って八十八ヶ所霊場を設置したものだ。その後何度か変遷し、大正二年に確定している。春秋二回順拝するということだ。(久米町史下巻p609)
 久米町史が刊行されたのは昭和五十九年で、その後30年が経過しているが、宝珠庵の建物は比較的新しく、またきれいなので、活動されている霊場であろうと想像する。

 さらに道なりに進むと、左手に美咲町消防団三分団第五部機庫がある。
 そこから北へ100メートル足らず進んだ左側に二種類の記念碑がある。手前四角い石碑は「西原圃場整備事業」の記念碑である。
 その隣りが、都原(みやこばら)の碑である。「仰叡の灯」ともいうようだ。(美咲町のホームページ 歴史伝説)横に立っている説明板によると昭和57年の建立である。
 後に法然上人となる勢至丸が比叡山へ旅だつ時、この地で母と別れたとされる。勢至丸15歳の時である。説明板によると母親は毎日ここに通って我が子を偲んだという。別れから10ヶ月後にお母さんは亡くなられる(「津山往来を歩いてみれば」p1)。
そういえば誕生寺に「旅立ちの法然さま」という像がある。
圃場整備記念碑 都原の碑

 すぐ先にまだ細い皿川(この先東へ流れ、53号線及び津山線を越えて北に向かい、その後津山市内で吉井川に流入する)が流れる。

7-2 都原 ~ 亀甲石

歩行日 平成27年11月06日(金) 距離 約3.7キロ

都原から亀甲駅までの略図

 皿川を渡った正面に西幸公民館が見える。公民館の前の道を右に折れて進むと、公民館の敷地の端に祠と石塔があった。祠には小さめの石仏4体(そのうち1体は光背しか見えなかったので推測)が祀られていた。
 笠塔婆のような石塔は、風化ではっきり分からないが、南無阿弥陀仏と読めた。他の文字は不明。
西幸公民館 祠と笠塔婆

中央町の文化財(神社仏閣篇)[中央町文化財保護委員会・中央町文化財研究会編・発行、昭和60年]p74にこの祠の写真があり、「泰子地蔵堂(西幸)」とある。

 その先、家の石垣の前を通り53号線に向かって坂を下りる。
国道53号線

 53号線に合流したら左折、北に向かう。500メートルくらい53号線を歩く。
 53号線の東に津山線、さらにその先で山裾を皿川が流れる。皿川と津山線が53号線に接近してくる頃、53号線の左側に新光自動車の白い建物が見える。左折して敷地の前の道を山側に登る(左写真)。これは迂回路である。左折する角の少し先に「53号線」「美咲町小原」の道路標識がある。

 坂を40メートルほど登って、最初の交差点を右折。新光自動車の後ろの高台を通る。
分岐 分岐2


130メートルほど上り、道なりに左に登る。国道53号線と別れて以来ずっと登りである。

大きな木 左手に大きな木がある。写真ではよく分からないだろうし、数値的にはもっと大きい木をいくつも見てきたと思うが、短いが急な上りを登ってくると、ほうっと心が広がるような適切な大きさである。この道は圃場整備の結果できたものだと思われるが、往来の横にも一里塚を始めとして、日陰や風よけの木があっただろうと思う。幹に苔?がいっぱい。

 来た方角を振り向けば、津山線、自動車が走っている国道53号線が接近しているのが分かる。畑の端の黒い道が今登ってきたみち。写真の左下でほぼ90度曲がって登ってきている。
 右手の白い建物が新光自動車である。その敷地を斜めに横切って、左の瓦屋根の家の後ろを通り、磯光池の下にある題目石まで延びていたのが津山往来だったのではないか、とあとで結論を出した。
分岐2

 この景色のあと60メートルほど登って、その次右折れ。磯光池に向う。

 100メートルほど下ると、目の前に磯光池がある(左写真)。磯光池は慶安年間(1648-1652)に築造されたという(調査報告2p26)。
 T字路を右に曲がって下ると右側に題目碑があるが、背を見る形である(右写真)。
磯光池 磯光池近くの題目碑

前に回る。

磯光池近くの題目碑3  [まん中] 南無妙法蓮華経 日蓮?? (下が良く見えなかった)、[右側] 安永五乙申天 [左側]二月十三日 と刻んである。
 帰宅後調べると、安永五年は1776年。しかし、甲申で乙申ではない。写真を拡大してみたが、まちがいなく「乙申」と書いている。古文書でまちがっているのを見たことがあるが、石碑で間違っているとは・・・・。あんまりこだわらなかったのか?それとも何か理由があるのか。
(年号拡大)

 この題目碑の前を往来が通っていたと判断した。(道の検討を見る

 上の写真は、平成28年9月1日に再調査のために誕生寺から津山までを歩いたときのものである。平成27年11月6日に歩いたときには、周りは竹で覆われており、なかなか見つけることが出来なかった(手分けして捜していて、他の人が見つけた。複数の旅の強みである)。また、題目碑の前に回ることができなかった。
(左:平成27年11月6日 背面)(右:同正面)
磯光池近くの題目碑2 磯光池近くの題目碑3

 藪の中(平成27年11月6日の状況)から題目碑の横に抜けてきた道の先に畦道としては広い未舗装路が正面の山に向って延びている。
 道の入口に小さな石碑があった。由来は不明。
往来を見る 石碑

 山に向って進む。流れる用水に沿って山裾を回り込み、小さな橋を渡る。
畦道を進む 小さな橋

 民家の出入り口の道と交差する。
東側方向に53号線、津山線を越えて加美小学校が見える。津山往来はここから「わらび交差点」手前まで、53号線とほぼ並行して、少し高い西側の山裾を北に進む。

 畦道を進む。この先舗装路に出る。
畦道

 舗装路を右折して下る。右手に53号線の大きな横断歩道橋が見える(写真右端)。53号線から来た道と合流する(左に90度傾けた)T字路を直進。
三叉路

その先進んで一度山が切れたところの左側に「川西会館」と額があがった建物(公会堂?)、その横に大きな石碑がある。石碑に「大峰役行者大菩薩」と刻んでいると読んだ。「大峰」は推測。
 役行者(えんのぎょうじゃ)を祀ったものだと思われるが、この辺は修験道が盛んだったのか。高清水峠の乳塚の横にも同様の石碑があった。高清水峠のものは明和七年(1770)とあった。ここはロープが張ってあったので近づけなかったので標題以外は読めていない。
 横に小さな石碑があったが、どういうものかはよく分からない。
川西会館

 さらに北進して53号線から来た道と交わる(左写真)。津山往来は直進して廃屋(家がつぶれて赤く錆びた屋根だけになっている)の横を進む。見た感じはT字路であるが、Tの先を突き抜けて進む感じである。左側の段の上に題目碑と地神塔がある。
 題目碑には
[まん中] 梵字に続いて 南無妙法蓮華経塚 [右] 天保十二丑年 當村施主
[右] 九月吉日 黒瀬林蔵 武吉 とある。題目碑というより経塚になるのかな。天保十二年は1841年。幕末の混乱が近づいている頃だ。
T字路 地神と経塚

 進んで行くと、山の中腹に鉄パイプのガードレールがついた道になる(左写真)。下を53号線が通る。しばらく進むと道は53号線に向かって下りていく。53号線に近づいた山裾の斜面の上に小さい石碑がある。文字が刻まれているようだが、判読できない。登りにくいところにあったので写真を撮って諦めた。
山裾道 山裾道の石碑

 下りきったところに松尾文楽翁頌徳碑が建っている。松尾文楽翁についてはどういう人か分からない。後ろに倒れかけた石があるが、風化が著しく文字が判読できない。さらにその横に立てかけられた小さな石には梵字と「大日」という文字が読める。どちらが調査報告2P26で書かれている六十六部の経塚か判断がつかない。「大日」は、「大日如来」の下が欠けていると考えられるが、大日如来と六十六部を結びつけることが可能かどうかの知識がない。
松尾文楽碑 大日如来

 すぐに国道53号線に出る。目の前がわらび信号交差点。右に進む道はその先で二つに分岐。橋の手前で左に下りる道が旧国道である。

 この辺の津山往来の経路がなかなか理解できなかった。調査報告2p26-27では、旧国道と53号線の“わずかな隙間に往来道が生きている”とする。また、

 数軒の新しい家の間を縫って丘陵を登り始め、東の山にある諏訪神社への分岐点は、現在小さな藪になっている。藪の中にはお大師様が祭ってあり、付近の人の信仰が続いている。旧国道沿いには、小さな大師道の道標が立っている。

 とある。旧国道を歩いてみたり、周囲を探索した。その結果、53号線のわらび信号交差点を北(津山方面)に20メートルくらい進んだところの歩道右側に、下に向う細い道がある。これが津山往来の痕跡である、と判断した(右写真)。現在の国道53号線と旧国道のあいだを縫って、大師堂まで進む道がこれしかなかったからである。ただし、大師堂の周囲に藪はない。刈られたのだと思う。
わらび信号 分岐

 細い道が道路のり面を斜めに下りていって(左写真)、その先は狭いなりに舗装されて二階建ての家の前を通る。軒先を通るといっても過言ではない。犬に盛大に吠えられた。
 家の前を通り抜けて、小さな上り坂を登ると右側に大きな家と木の陰に小さな赤い屋根の御堂が見える。
軒先を通る 坂の先

 左から大師堂、大日如来の石碑、五輪塔の上の部分が並ぶ。大日如来には昭和三年万人講立(立は推測)と刻んである。
 ここから右に20メートルくらい下りると旧国道に出る左角に大師堂道標(右写真)がある。[指矢印 大師道] [明治□三年□十一月]と刻んである(□は不明)。
 再調査で道標をためつすがめつ眺めていたら、地元の人に話しかけられた。この大師堂はイボの神様で、置いてある石をもらって返って、イボをこすると消えるという。また、この辺は往来だったせいで行き倒れの人もたまにあり、五輪塔を立てたのではないか、と言われた。
大師堂 大師道

 津山往来は先ほど登ってきたところから左(北西)に進む。途中でやや広い舗装道路を横断し、畦道よりやや広い程度の道を進み、山から下りてきた細い道にぶつかる。先ほどの分岐(大師堂の手前)から140から150メートルほどである。
この先藪が深く進めない。左折し、53号線に合流して北上する。
道 左折

 合流してから260メートルほど進むと53号線の西側にヤンマーの営業所がある。東側の歩道、鉄パイプのガードレールが切れているところから右に下りる道が津山往来である。軽トラ1台分くらいの幅である。
分岐

 道なりに進むと、53号線から分岐した道と交差する。そこから少し進み、左にゆっくり曲がる角に津山里程標 3里がある。
 [距津山元標三里] [久米南条郡原田村字鳥風呂] と刻んである。残りの面[検査]の文字は分かったが、その上がよく分からなかったが、明治五年の検査だと思う(調査報告2p27)。
里程標3里 里程標3里

 道路越しに美咲シティーホールがあるところで53号線と合流。北へ150メートルほど歩く。
 右手に亀甲診療所が、その先にJAのガソリンスタンドが見える(下写真)。診療所とガソリンスタンドの間に右に入る道が津山往来である。
分岐

 そこからは道なりに家の前をまっすぐ美咲町役場方面へ進む。途中で道の右側に自然石に文字を刻んだものがあった。彫りが浅く、はっきり分からなかったが、髭文字で書かれており、「南無妙法蓮華経」ではないか、と思えた。そうであれば題目碑の一類型ではある。また「国家安全」らしい文字、「清」という文字らしいものもあったが全体的には不明。
題目碑かも

 左側に中央中学校が見える。その先美咲町役場の入口の手前(役場の敷地の角にさしかかったところ)左側に民家の横を斜めに入る道に進む。亀甲岩が遠望できる。(左写真)
 進んで行くと、石原歯科医院とその横に亀甲岩のところの銀杏が見える。(右写真:歩き直した時の写真なので葉が緑色)。
亀甲岩への分岐 亀甲岩の近く

 調査報告2p27に「中央町役場の西北の角をかすめて、道は左に曲がり、民家の庭続きの畦道を抜けて亀甲岩へ向う。現在舗装道路となっている公民館前は通らない。」と書いている。他の人はこの記述通り正しく歩いたが、管理人は(前記の岩をしつこく見ていたので)まっすぐ、亀甲駅に行った。駅で昼食後、すぐに亀甲岩に向ったので違う道を歩いてしまっていた。再調査の時歩き直した。(中央町は平成17年に旭町、柵原町と合併し、美咲町となった)


 亀甲駅で昼食を摂った。

亀甲駅舎 亀甲駅は中国鉄道(現津山線)が明治32年(1899)開業したのと同時に設置された駅の一つ。現在の亀の形の駅舎になったのは平成7年(1995)年8月(ウィキペディア)。亀の目の部分は時計である。
 駅舎には食堂があり(営業時間は短い)、委託のようだが駅員さんもいる。駅舎内のテーブルで弁当を食べた(許可をもらった)。改札口横でせんべいなどのお土産を売っていた。


津山往来8
津山往来6-2
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