津山往来 6

6-1 神目駅 ~ 全間信号(弓削)

歩行日 平成27年10月30日(金) 距離 約4.5キロ(宮地やすらぎの里を通る迂回路:ヤブコギに至った区間は除外している) 

 書いていることはいちおう点検していますが、見落としもあると思います。情報を利用される場合は、ご留意ください。
 地図は北を上にしています。記述は岡山側からなので、下から上への説明になります。
神目から全間信号までの略図


 津山往来を歩き始める前に龍泉寺を拝観した。


 神目駅から龍泉寺に向かう。誕生寺川を神目橋で渡り、神目の町を通り抜ける。途中左側の墓地らしいところに小さな祠がある。
 国道53号線を上神目交差点で越えて、直進する。交差点から100メートルほどで、龍泉寺への入口の階段がある。
 階段の右側に、題目碑がある。題目の下に法意山龍泉寺とある。

 階段の先にある山門は、弓削陣屋の門を移築したものだという(調査報告2p19)。小ぶりであるが、弓削陣屋自体も小規模な役所だった。(弓削陣屋)

 江戸時代の禁教期、日蓮宗不受不施派の信者は隠れて信仰を維持した。これを内信という。久米南町誌によれば(p317-339)同寺は松尾にある庵と力をあわせて神目地域における内信の一つの拠点となった寺院だという。
 その推測を裏打ちする材料として、龍泉寺の住職の墓碑の銘をあげている。清僧(簡単にいうと不受不施の戒律を守っている僧)の戒名と、この住職の戒名が同じだという。その中の一人、『十七世 歓了院日順』の墓碑は、管理人にも判読できた。前記資料によると安永九年(1780)に亡くなったらしい。建部、福渡、神目はとにかく題目碑が多い。これと不受不施との関係をいう資料も見た。いずれ、自分なりに整理したい。
 なお、この地域が津山森藩及び古河藩(下総土井氏)の領地時代は禁教政策は比較的緩かったとのことである(同前)。同寺から神目の風景が見渡せた。


 前回の到達点(神目・竜山地区案内図の看板前)から、誕生寺川沿いに歩き始める。
神目駅前

 100メートル足らず進んだところで土手道と田圃に近い道に分かれる。
土手道はあとで出来たと考え、東側の道を選ぶが、正しいかどうかは分からない。
 さらに200メートルほど進むと、二本の道は合流し、誕生寺川に流れ込む小さな川を渡る。

 橋というより白いガードレールがある普通の道である。川を渡ると、右に曲がりながら踏切に向う登り道と、左側に進む道がある。津山往来は左の道に進む(はずだった)。
分岐

 進んで行くと左側に神目中上の集会所がある。先ほどの分岐から100メートルほど進んだ右側(線路側)は猪よけの金網(細い鉄の格子)で遮られた藪が続いており、その中に津山里程標があった。
 顔を近づけるとかろうじて「距津山六」の文字が読めた。津山の元標より六里である。そして、石引峠の津山里程標から一里来たことになる。
 里程標は道路に接しているはずだ。だから里程標を見つければ、津山往来かその後の国道かが近くにあるはずだと予測していた。yahooの地図で下調べをしたときもかなり先まで細い道が通じているように思えた。
里程標六里

 踏切の手前で直進して来た道(我々が進んで来た道)は、この先津山線から離れていった。だいぶ先まで行ったがどんどん離れていくばかりだ。地図でこの先を見ても誕生寺川に向って行く。相談して、この道ではない、という結論に達した。
 山に登る小道に入ってみたりして、あちこち探し回る。下の写真は戻りながら撮ったので本来の進行方向とは逆である。木の茂った下に先ほどの里程標がある。
道

 あちこち捜す過程で、通りがかりの人に尋ねた。何人めかの人が、四十年くらい前に誕生寺まで通っていた道というのを教えてくれた。踏切の手前で左に進んだあと、集会所を少し過ぎたところで津山線を越え、線路に沿って弓削の方へ行く、というものだった。

 教えてもらった地点まで戻って、踏み分け道を通って津山線を越えた。(左写真:戻ってきて撮ったので神目駅方面に向いた方向である)。この道は津山里程標とは離れている。里程標が動いた可能性は否定できないが、そうでなければ、少なくとも里程標が整備された明治5年頃にはなかったか、あっても国道とは関係がなかった道である。
 線路沿いを北(正確には北東)に向って歩く。(右写真、左端に写っている線路は津山線)。
線路を越える 線路の横

 道は草道から藪道になる。それでも右手に池があるところまでは、一応“道”だった。
藪道 藪の中の池

 そこからは手が入ってない雑木林。前にあるのは笹、雑木。その中に突入。顔に枝が当たる。倒木が何カ所もあり、左側はかなり深い切り通し。線路がずっと下に見える。倒木が道の端まで覆っていて、越えるに苦労する。転落するとかなり危ない。慎重に進む。精神的に余裕がなく、写真もほとんど撮らなかった。
 津山線側にフェンスがあったので、もう出口が近いかと思ったが、線路の上を渡している水道管(「津山街道歩いてみれば」にも出てくる)の保護のためのもののようだ(右写真:笹の葉が映り込んでいる)。
倒木 水道管の網

 藪はどんどん密になる。細い竹が密集している。倒木の上に細竹や枯れ枝枯れ葉が積み重なってトンネルみたいになっている。高さは50~60センチ、下は泥濘。猪が掘ったあともある。手をつきながら倒木をくぐって一つ目のトンネルを通り抜けたら、その先にさらにトンネル(右写真)。もう進む気がなかった。
藪をかきわける 藪のトンネル

 第一のトンネルの手前で別の方向を探っていた仲間からも“ムリだ”との声。地図を出して再確認。この先まだかなりありそうだし、状況が分からない。10時40分、本格的ヤブコギ開始から25分が経過。撤退を決める。


迂回路を歩く

 橋を渡った分岐点まで戻って行き直し。分岐を右に登って踏み切りを通る。たまたま、津山線が通った(左写真)。少し得した気がするのは、鉄オタの要素があるのか。
 踏切を渡った後は12~13分、ひたすら上り。予定と違う行動なので(迂回するにしてももっと先で迂回だと思っていた)地図の準備もなく、地元の人に聞いた地理が頼りだ。
踏切 峠を登る

 登り切って下る道とさらに登る道との分岐で迷っていると(左写真)、下からタクシーが来た。尋ねると「左の道でも二ヶ下へ行けるが、右の道をまっすぐ行って『花はす公園』のところを下れば一本道だ」と教えてくれた。
 その言葉に従って右の道を進み、分岐は意識せず直進して下る。しばらく行くと右側に駐車場の空き地があり、「河原善右衛門供養碑」「山王神社・松尾神社」の看板が立つ交差点に出る。道なりに池のあいだを下っていくと、屋根のついたベンチがあり、トイレもあったので昼食休憩。
  分岐 華蓮公園1

 ハスは枯れていたが花の咲く季節になればきれいだと思う。
 休むと少し肌寒かったが、周囲は山で車はほとんど通らない。昼食後、周囲を探索し、道しるべの看板があったので「河原善右衛門供養碑」を見ようとしたが、結局見つからず。山王神社と松尾神社に参詣した。
道標 山王神社

 周囲に、日露戦役凱旋紀念碑や水□神の石碑がある。紀念は「記憶に留める」といった意味があるようだ(yahoo知恵袋など)。何となく写真を撮ったが、後者をあとで見てみると『水山神』と刻んでいるように見える。『水山神』の碑は水神に関するものだと思うが、碑文の再確認が必要だ。
日露戦役紀年碑 水神


【河原善右衛門供養碑】
 平成28年7月9日 はすの花まつりに行きました。その時、探し回って河原善右衛門供養碑も発見しました。

 平成28年の「はすの花まつり」は7月10日(日)だったが、日曜日は予定があったので一日早い9日にハス公園に行った。たくさんのハスがあったが、花が群れるというよりは、緑の葉の間に花が散らばるという感じだが、それはそれで、すがすがしかった。
 写真をあまり撮らなかったが、上から下まで、田んぼ何枚分もずっと続いている。日曜日はさまざまな行事があり、出店もある由。
ハス祭り ハス祭り

 睡蓮鉢の大賀ハスも咲いていた。
ハス祭り

 河原善右衛門の供養碑はなかなかわからなかった。上に写真を掲載した道標が斜め横を向いているので、分岐する道を探すが、分岐せずにずっと下に降りるまでが正解(善右衛門碑のところで会った地元の人に「あの道標はわかりにくいです」と伝えたが・・・)。
 復習すると

  1. ハス公園入口にある案内板の横の道を上る(車の場合は、案内板のある駐車場に車を置いて歩く方が良い)。
  2. 農業用のコンクリート製の水道橋をくぐる(かなり古い)。その先、真っ直ぐ進み、道を横断してから下る。
  3. そこからは山沿いを道なりに(横にそれずに)まっすぐ降りる。木製の道標は、二本の道のうち右側(まっすぐ降りる道)だよ、といっている気配である。しかし、道を知らない者には「どこかで右に曲がる」と思えてしまう。
  4. 下までずっと降りると、道なりに左に曲がり、田んぼの中を横切る。写真の黄色の丸印が上り口。この日は「善右衛門祭」の旗があったが、いつもはないのでは。
善右衛門碑への道

 田んぼの中を進んでから、山に向って上る道に入る。対向は難しいが、軽トラくらいであれば入れる道。
善右衛門碑への道

 この先はずっと上り。途中まで田を左に見るが、そのあと両側に木や竹が生い茂る道を上っていく。(分岐があって、そこを右に上ったような記憶があるが、はっきりしない。各自お調べを m(__)m。)

 上り続けると、林の中に広場があり、東屋風の休憩所があり、その横に善右衛門碑がある。

善右衛門碑 まん中の笠塔婆が供養碑のようで「南無妙法蓮華経 [奉修] 宗泉幽儀」と刻んであるようだ。[ ]内は推測。横にある木柱には「南無妙法蓮華経 奉修 善静院 宗泉幽儀」と書かれている。
 側面に「貞享二乙丑年」と年月日が刻んである。貞享二年(1685)といえば善右衛門が処刑された年だから、もしこれが建立年だとすると亡くなってすぐに建てられたことになる。あるいは、善右衛門の享年を刻んだのか。

 横の石碑には、善右衛門について記されている。

【河原善右衛門事蹟】
 河原善右衛門は、寛永八年(1631年)久米南条郡弓削村(現久米南町下弓削)に生まれた。度量篤く、進取の気性に富み、経世の才に長じ、国主森長継より大庄屋を命ぜられ、よく善政を施し、地方の開発と、民の利益増進に努めた。
 その経営した事業は厨神社の移転、佐良川、弓削川など数多河川の改修、道路の開設、堤防改築、新地開墾。誕生寺池、長万寺池を始め、十六を超える貯水池の新築修築を行った。
 これらの池は今日に於いても、なお満々たる水を湛え、四百町歩の田畑を潤し、住民の生活を支えている。それら独特非凡の手腕は、領主よりの一層の信任と寵遇を得たが、その盛名を妬んだ心なき者の讒訴により、無実の罪を着せられ、貞享二年(1685)四月二十六日、五十五歳を以て、一族九人と共に磔台の露と消えた。
昭和四年、従5位が贈られた。
 なお、裏面にこの供養塔が発見されたのが平成八年であったこと、その後駐車場と参道が開墾されたことなどが記されている。(石碑の建立は平成17年、記述は久米南町文化協会による)。
 近くに笠塔婆が二基、石碑が一基あったが、詳細は不明。「この辺は善右衛門の縁者の墓地で、笠塔婆は、家族のものだ。」という興味ある推測をお聞きしたが、根拠は不明。

 休憩所のところにも久米南町文化協会が作成した木製の説明板がある。それでは善左衛門の生年は寛永十四年(1637)となっている。
 また、岡山県大百科上p702では、寛永15年(1638)の生れと記載されている。
 没年はみな同じであるのは、公文書があるのだと推測される。生年の違いはなにによるか不明だが、供養碑横に立つ説明の石碑が一番新しい。また、久米南町のホームページ 町の先人たち 郷土の偉人(サイト:サイト確認 平成28年10月30日)でも寛永8(1631)年とされている。

 最初は、新しく調査が進んだであろうと判断したが、後で「弓削町史」、(丸山弓削平(丸山肇)著、岡山県久米郡弓削町役場発行、昭和29年)p112で『昭和三年四月の贈位申請書』からの再録として、『生年 寛永八年 月日不詳』と記述しているのを見つけた。前記説明碑や、ホームページの記述はこれを元にしている可能性もある。管理人としては、とりあえず寛文八年説をとる。河原善右衛門についてもう少し詳しく知りたいと思っている。その時調べたい。
 また、前記岡山県大百科では、「津山藩は侍96人を検見役人として領民に大変な重税を押しつけ、これに反抗する一揆の動きが美作全域に及ぼうとしたため、善右衛門に隠田の罪をきせ、翌年関係者10人とともに処刑した。」と記す。

 木製の説明板には「美作一国鏡」「美作孝民記」「弓削町史」「久米南町誌」など、善右衛門のことを記載した資料が紹介されている。


 もとの花はす公園にもどり、北に向かって下る。しばらく下って、ほぼおり終えたところで、ガードレールの橋を渡って小さな川を越える。「はすの花公園」の矢印が今来た方向を指している。
坂を下りたところ


左折して川に沿って下れば煉瓦造の鉄道橋がある(左写真)。トンネルを越えた向こうに国道53号線が通る。道の駅くめなんが小さく見える。
 ここで迂回路は終了。(不通区間の検討

鉄道橋の前(左写真)から、右に進めば(右写真)津山往来に戻る。
下二ヶの鉄道橋

 煉瓦の鉄道橋のところからゆるい坂道を登り、弓削方面に進む。津山線の線路が驚くほど近くを通る。
線路脇

所々民家があり畑や田圃が両側に広がる中を進む。蕎麦畑もあった。

坂を登り切ったところ、左側に仏教寺道標がある。右側は池である。

仏教寺道標 佛教寺はこの道標から西の山上にある真言宗の古刹で、高野山真言宗美作八十八ヶ所第二十番札所である。
参考:美作八十八ヶ所霊場第二十番札所 医王山佛教寺 (サイト確認:平成28年9月28日)。
 雨乞いのための「バンバ踊り」は岡山県指定の重要無形民俗文化財である。
参考:おかやまの自然公園 佛教寺地域[久米南町] (サイト確認:平成28年8月23日)

 佛教寺は、この道標のある位置から誕生寺川を西に越えた山の上にある。現在では、それに加えて津山線と国道53号線があいだにある。この道標には指矢印や文字での方角もないので、佛教寺へ向うどの道を示しているか分からなかった。
 「津山街道歩いてみれば」p19-20によると、ここから南(通り抜けることができなかったところか)のところから、川原へ下りる道があり、誕生寺川を跳び石で渡ったようだ。
(後日調査した「佛教寺参道と丁石について」を参照)

 道は少しずつ津山線から離れていく。曲がりながら降りていき、下のやや広い道にぶつかる。右手の山側に道標がある。

 中央 南無阿弥陀仏  みち
 左側 ひだり さいだいじ
 右側 みぎ おかやま

 と刻んである。津山から来てここで備前岡山へ行く道(備前往来)と西大寺へ行く道が分かれることを示す道標である。岡山市北部(御津-建部)を中心に大きな題目碑が続いたが、念仏が刻まれた石碑(道標)に巡り会った。誕生寺が近いからだろうか。
分岐 西大寺への道標

 津山往来と国道53号線[上二ヶの津山往来・片上往来分岐道標](※)では、この道標を「岡山城下町へ至る道と西大寺・片上方面への道を示している。」とする。
 この分岐の西大寺方面が、片上への道でもあることは、他の資料(久米南町史p26-27、p234写真の説明)にもある。片上へ至る道(片上往来)は時代によって変わったようだが、ここから西大寺だけでなく片上へも向ったことはまちがいないようだ。
 「岡山紀行今昔」(富岡敬之編著、山陽新聞社、昭和55年)所収の[津山紀行](西山宗因)などを見ても、大阪方面から瀬戸内海を通り、片上港から北上して津山へ至る経路は有力な交通路であったと推測できる。
※ サイト名 岡山道物語 みちナビおかやま 国土交通省中国地方整備局岡山国道事務所(サイト確認 平成28年9月9日)

 合流点を左に曲がると、道は下っていく。やがて津山線の二箇川鉄橋の手前まで近づき、川を渡って線路から離れて東へ進む。
二ヶ鉄橋

 まっすぐ行くと県道52号線と出会う。正面の上りになった左角に「泰山寺」の石柱がある。2017年に歩いたときは、ここを単純に左折した。そして、左折後すぐに左手にあった石碑を参拝して、52号線を全間交差点へむかった。
分岐-泰山寺 泰山寺の石仏
 調査報告2p20に次のような記述があったからである。

 泰山寺は、宗教法人としてはすでに存在せず、現在は西山寺と合併して、泰西寺と寺号を改め下弓削に創建されている。

 泰山寺はなくなっていると思い込んでいたので、石柱も石仏も遺物なのかと思っていた。再調査で歩いたとき、石仏の前から山の方を見るとお堂の屋根のようなものが目に入った。
 実際は、分岐を先に行ったところに『泰山寺』があった。「山中では民家が無くなったので昭和三十三年に移転した」と説明板に書いてある。
泰山寺遠景 泰山寺

 調べると「高野山真言宗美作八十八ヶ所霊場 泰山寺」としてホームページもある (サイト確認 平成28年8月23日)。
 ちょうどおられた隣家の方に伺ったり、前記サイト及び「高野山真言宗美作八十八ヶ所霊場 泰西寺」(サイト確認 平成28年8月23日)などを参考にして次のように判断した。
 泰山寺は本来10の坊があった。そのひとつ光明坊が西山寺と合併して泰西寺となった。残りの坊のひとつ(あるいは数坊)がそのまま泰山寺として残った。かっての多宝坊に伝わった不空羂索観世音菩薩が現在の泰山寺の本尊である。
 なお、宗教法人としての状況については調査していないが、本堂がそこにある以上そこまで調べる気はない。

 元の道にもどって、国道53号線全間交差点(北)に向ってまっすぐ進む。途中、右側に消防団の倉庫と高い塔がある。サイレンを鳴らすものだろうか。

そのまま進んで、全間(またま)交差点で国道53号線と合流する。国道の向こう側は津山線。53号線開通前の旧国道は津山線の踏切を越えた西側を北上する。
全間交差点 全間踏切

 交差点まで出ると、右側に龍川神社の鳥居が見える。神社の手前に山に登る道がある。これが再調査で見つけた『模擬大山ボキ』であるが、それは後述。
 上り道の横、神社側に「経塚」がある。
龍川神社 経塚

 上記経塚は自然石に

天下太平 宝暦十三癸未
奉納大乗妙典 六十六部[回]国
国家安全吉祥 願主上二ヶ □□」( [ ]は推測。□は不明)

と刻んである。
 経塚のなかでも六十六部の廻国によるものであるようだ。宝暦十三年(1763)は弓削陣屋が設置された年でもある。
(廻国について)


津山往来6-2
津山往来5
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