津山往来 5

八幡の渡し ~ 神目中(神目駅近く)

歩行日 平成27年10月16日(金) 距離 5.6キロ

 書いていることはいちおう点検していますが、見落としもあると思います。情報を利用される場合は、ご留意ください。
 地図は北を上にしています。記述は岡山側からなので、下から上への説明になります。
福渡から神目までの略図


 潜水橋を渡り終え、建部を振り返る。備前国から美作国に入る。かっては、国境であり、「八幡の渡し」には旭川の中央に国境の杭があったという。国境としての八幡の渡し
潜水橋

 川原の駐車場から上ると、国道53号線に出る。左手に建部町観光物産案内販売所があり、向かいは福渡病院。調査報告2では、旧道は国道を渡って、八幡神社に向かっていたらしいが建物が増えてはっきりしないとして、残っている参道の説明をしているのでこれに従う。

別の道【思案1】
 「津山街道を歩いてみれば」では土地の老人の話として、53号線から郵便局(現在の福渡局)の角を右折して線路を越すのが街道だという説を挙げている。
 後日郵便局横の道を歩いてみた。この経路の方が渡し船が到着する旭川東岸からはまっすぐ石引峠へ向かう感じである。つまりはこんな風だったのではないか、と考えた。
 日常的に往来する者は、八幡神社に参ることもないので、船着場から峠に向った。しかし、信仰や興味で八幡神社に参る場合は、船が着いたあと、参道を通って八幡神社を経由して峠へ向った。
 調査報告2の記述も、「参道を示す」である。この時代、五街道など幹線を除けば経路などに現在の国道や県道ほど厳密に定義していなかった。どちらが正しいということもない。
 我々は“物見遊山の旅”だから、もちろん八幡神社へ参った。

【思案2】
 潜水橋を渡ると、気持ちは八幡神社へ向ってしまって、旧来の渡しの船着場を探さなかった。再調査の時、川岸を眺めたが、よく分らなかった。旭川の福渡側の川岸は雰囲気のある石垣が続くが、川湊としてはのっぺらぼうだし、石垣が新しい気もする。資料を読んでも、細かい地名が分らなかったので、そのままになっている。
 何となく、八幡橋下の公孫樹あたりが船着場だったのかも知れないと思っているが、宿題としておこう。
福渡側の旭川 八幡橋下の公孫樹

 国道53号線を津山方面へ北上する。しばらくして、JR津山線のガードをくぐる。
国道53号線 津山線ガード

 左手に衣料品店(総合衣料みふね)が見える。衣料品店の手前に横断歩道がある(津山線のガードから初めての横断歩道)。その横断歩道を渡って道路右側に入っていく路地が現在残っている参道である(左写真)。(ここを曲がらずにまっすぐ行くと、右側に上記郵便局がある。)
 路地に入るとすぐに左手奥にある赤い鳥居がある。近づくと正一位稲荷大明神の小さい祠がある。
分岐 稲荷-福渡

 進んで行くと、道の正面、家のあいだに津山線の線路が見え、その先に八幡神社の鳥居が見える。まっすぐ行くのが本来の参道であると思われるが、津山線に分断されているので、右に周り、れんが造りの小型アーチの鉄道橋をくぐる。
踏切 鉄道橋

 鉄道橋をくぐり、右手に特別養護老人ホームのオレンジ色の屋根を見ながら進むと、四つ辻がある(そういえば旭川の対岸、たけべ温泉の前にも老人施設があった。川越しに向かい合っているのは神社だけではなかった)。
 左に曲がり、川を渡ると先ほど津山線で分断されていた参道と北へ向かう道(我々が歩いている道)が交差する。右折れして、八幡神社に向う。
八幡神社参道 八幡神社山門

八幡神社 以前は八幡宮と呼ばれていたが、明治6年に八幡(やはた)神社となった。志呂神社、厨(くりや)神社(久米南町)とあわせて弓削庄(ゆげのしょう)の三社といわれた。隋身門は嘉永3年(1850)の建築である(説明板)。ここで昼食。

 もとの道にもどり、北上する。60~70メートル進んだところの左側に禁教として弾圧が始まった頃の不受不施派の高僧日船上人の墓碑がある。

日船上人墓碑 二つ並んでいる左側(古い方)がもともとの碑で、右側が新しく設置したものだと思われる。
 墓碑には「両寺中興之祖日船上人覚位明暦四戊戌四月十二日化」と刻んでいる由(建部町史[地区誌・史料編]p197)。上人は碑文にある通り明暦4年(1658)この地で亡くなり、遺体は信徒により山根の江田氏の土蔵で火葬されたと言われる(説明板)。

 その先、小さな橋で川を渡ってから少し進むと「岡山・建部 医療福祉専門学校」がある(左写真)。かっては岡山県立福渡高等学校であったが、同金川高等学校と再編した御津高等学校の発足後閉校していた。この専門学校は2014年に開学したようだ。
 専門学校の敷地にぶつかって、右に折れる。ここから上りになる。山越えの石引峠に向かう。
分岐 石引峠へ

 上り初めて2~3分で、右手にいろいろな石碑が集まって建っているところに来る。

建部の石碑郡  一番背が高いのが高さ2.5メートルの①題目碑。隣りが②黒船墓。さらに隣りが③芭蕉句碑、桜塚ともいう。
 句碑のうしろに出ているとんがった石碑が④堤宝山流記念碑。

①題目碑
「南無妙法蓮華経 日像菩薩」「寛政四壬子年」「四月上浣日」の文字が刻まれている。日像(にちぞう)とは日蓮の弟子で妙顕寺を建立した。詳細は不明。
 
②黒船之墓
安政年間(1854~1860)に播州から福渡の宿場町に流れてきた角力取りあがりの「黒船」という博打打ちの墓。忌み嫌われていたが騙し打ちにあい殺された。その後黒船の霊魂が現れ、不祥事が絶えないために供養された。
 
③芭蕉句碑
芭蕉の百年忌に当たる寛政5年(1793)に各地に芭蕉翁、追悼の碑が建てられた。
 
 さまざまのこと思ひ出す桜かな
  
の句と、「芭蕉翁」「寛政五年癸丑冬」「五尺庵主人立」などの文字が刻まれている。
(管理人には大きな<芭>の文字が推測できたが、他は読めなかった)
五尺庵は地元の俳人。芭蕉翁塚ともいう由。
 
④堤宝山流の碑
 剣型の刀身の正面頂部に「瑞尊」その下に流祖以下十二世までの名を刻んでおり、その他「安永二癸巳天六月十八日」などが刻まれている(一部省略)。小具足や柔術など組み討ちを主とした武芸の流派のようである。この流派の武藤徹山は、後に浪人して東武(東武州か?管理人)に移り住んだようだが、元は津山森藩の人らしい。
 (建部町史[地区誌・史料編]p198-204より管理人が抜粋し、まとめました。詳しくは同書を参照してください)。

 上りは続く。右側に石引池がある。そこから少し上ると左側に高さ50センチほどの石柱がある。

津山元標7里 「距津山元標七□」、「久米南条郡福渡村字□」「明治五年八月検査」と刻まれている。□は読めなかった文字。
 明治5年(1872)8月の検査で合格し、翌6年8月に一等県道として認定されたことを示す道標である(調査報告2p17)。
 距離は[七]以下が分からないが七里×町であったと推測する。津山の元標まで30キロ前後か。このあと、順次里程標と出会った。

 さらに登る。左手に「石引第2加圧ポンプ場」の建物がある。

 その先で道は二手に分かれる。ここは左に進む。分岐点にある中国自然歩道の道標が指し示す「豊楽寺」の方角である。
道

 さらに上る。峠の頂上に達したとき左手に分かれて坂を上る道がある。分岐の正面に指矢印の下に豊楽寺と刻んだ道標がある。
峠 豊楽寺道標

 トを左右反対にしたような感じで分かれていく。左に分かれて登っていく道は豊楽(ぶらく)寺に向かう道である。分岐点の南側(振り返ると見える)に中国自然歩道の看板があった。津山往来は、真っ直ぐ道なり。ここから峠を下り始める。

 峠を下り始める左手の山(上る豊楽寺参道と下り始める津山往来とのあいだ)の中に題目碑がある。下からは見つけにくい。
 豊楽寺への道標の裏側に山に登る小道があるので、そこを2~3分上ればすぐ目の前に題目石が見える。本来往来はこの高さだったのだろう。その後開削されたのだろうと思われる。題目碑の高さは2.1メートル、「南無妙方蓮華経安永八年亥四月 丑の百年」と刻まれている(「丑の百年」については調査報告2p17による)。
題目碑-石引峠2 題目碑-石引峠1


【寄り道】

 時間があれば道標の先に行ってみることにしている。後日(平成28年8月4日)、再調査の一環として建部から神目まで歩いたとき、豊楽寺道標に従って、山道を登っていった。寄り道は道筋に頓着せずに歩いています。
 10分ほどで二手に分かれる。分岐の左側に中国自然歩道の道標、右側に豊楽寺参道という石碑(左写真)。この後も二種類の道標が適当にあったので、それに従って歩いて行った。
 2~3分で次の指矢印の道標がある(右写真)。
豊楽寺への道 豊楽寺道標

 指矢印にそって進む。1~2分で到達するT字路(左写真)。左を見れば少し先に仁王門口を示す石柱がある(右写真)。
豊楽寺への道 豊楽寺道標

 少し行くと豊楽寺仁王門がある(左写真)。岡山市指定重要文化財である。階段を上り本堂(右写真)に参拝。
豊楽寺仁王門 豊楽寺本堂

 左写真は大師堂。右写真の中央の宝篋印塔は寛延三庚午歳三月吉日の記載がある。
 百日紅の花がきれいだった。
豊楽寺観音堂 宝篋印塔

 豊楽寺は美作八十八ヶ所霊場二十一番札所であり、真言宗の名刹である。
第二十一番霊場 静謐山 豊楽寺については、美作八拾八ヶ所霊場のホームページ参照。 (サイト確認:平成28年9月26日)
豊楽寺文書[三十三通・二冊]は岡山県指定重要文化財である(岡山県ホームページ 県指定文化財一覧(その4)で平成28年9月26日確認。)

 歴史の道調査報告2p17-18に「宇喜多直家による日蓮宗の改宗を断り、寺領没収、建物は破壊し尽くされた。」とある。岡山県大百科下p701も同じく寺院を破壊したのは宇喜多氏と記述、事件が起きた年を「天正年間(1573~1592)」としている。
 いっぽう、(環境省・岡山県の記名がある)豊楽寺の説明板では「天正の頃(1573~1592)」に「松田氏」によって「寺院を没収し堂塔を破壊」とある。
 「岡山県の歴史散歩」p274では、「永禄年間(1558~70),宇喜多直家麾下の松田左近将監(元輝ヵ)」によって「改宗を強要」され、「こばんだため破却された。」とする。(説明板は平成28年8月4日確認、「岡山県の歴史散歩」は1版1刷)
 管理人は、下記の資料(※)によって金川城によった松田氏の滅亡を永禄11年(1568)、と判断し、その時松田元輝も討死したと考えている(松田氏の足跡をたどる)。「天正の頃に松田氏」が豊楽寺に日蓮宗を強要することは不可能である。
 管理人は、現在のところ、前記「第二十一番霊場 静謐山 豊楽寺」の記載に従って、「天正年中(1573~1592)に宇喜多氏」により破却されたとするのが妥当だと考えている。

※ 岡山県大百科下p827、吉備温故巻之三十八(群書集成八p279)、以下岡山県御津郡誌、御津町史など。
 強調のための太字は管理人による。

 このあと、適当に歩いたので経路ははっきりしないが、下り道でまた中国自然歩道の道標があった。左側山に入る道が豊楽寺へ行く中国自然歩道。管理人は右側の舗装路を下りて来た。そこからさらに下り、藪の中にある2丁の丁石を確認して、石橋を渡った。森から出たところは、最初に歩いたとき【寄り道】として見学した舟形光背の地蔵尊の丁石(1丁)や豊楽寺道標がある建石だった。
豊楽寺参道 豊楽寺参道

 最初に歩いた時に峠を登りきったときの豊楽寺道標、峠を下りて出会った建石の道標と丁石が指すものが自分のなかでつながった。
 建石の豊楽寺道標や舟形光背の石仏の丁石については、下記の【寄り道】に記述。


 アスファルト舗装の道を下っていく。左側は山、右は田畑。しばらく下ると左側にお堂がある。石引大師堂だと思われる。

石引大師堂 建部町史 [地区誌・史料編]
 「石引大師堂」は建石より少し石引に上った道上にあり、(略)また「馬頭様」とも呼ばれている。昭和十五年ごろまでは堂内に馬頭の絵馬があったという。この地は備作往来の石引坂と豊楽寺の麓でもあり、馬の守護神として広く信仰された馬頭観音を祀ったものともいわれている。(p261。p260に写真)

 そこから10メートルほど下ったところに、右に枝分かれする道がある。分岐点左側の山裾に、小さな石仏が鎮座されている。風化が著しく施主六名(調査報告2p17)の名は確認できなかったが、何かが刻んであるのは分かった。
建石の分岐 建石の地蔵尊

 調査報告2の地図では、津山往来はここを右に曲がって進んで行き、豊楽寺道標と接触することはない。しかし、説明ページ(p17)では、「旧道をはさんでこの石仏のむかいの畑の隅に豊楽寺への道標が建つ」とある。現状ではこの記述に該当する道はない。(下図参照:印は建石の豊楽寺道標)
 福渡から石引峠を越えて、神目方面に向うには、津山往来として調査報告2の地図にある道か、建石の豊楽寺道標の前を直進し、津山線前田踏切を越えたあとで、東に折れる道しかない。
 

 いくつか検討したが、山裾の地蔵尊のところで右に折れる道を選択した。そのため、寄り道として、豊楽寺道標と丁石を見に行った。

【寄り道】
 右に折れる前に直進すると50メートルほど先に左へ分岐する道があり、角に三種類の道標が並ぶ。右端が中国自然歩道の案内。豊楽寺周辺ではいくつか見かけた。
真ん中の道標が示す瑞泉院というのは53号線を北に越えた山の上にある真言宗のお寺のようだ。美作八十八ヶ所霊場22番札所である。
参考:高野山真言宗 美作八十八ヶ所霊場 第二十二番霊場 竜堂院 瑞泉院(サイト確認平成28年8月16日)。豊楽寺は21番なので、遍路道標でもある。
左の石柱が、豊楽寺道標である。「左 豊楽寺」と読める。高さは1.5メートルある立派な道標で、これがあるので「建石」と呼ぶという(調査報告2p17)。
豊楽寺北参道 豊楽寺道標

道標が指示する方角左(西)に小さな石仏が鎮座されている(左写真の左端)。豊楽寺の丁石である。舟形の光背に「一丁」の文字が見える。由加山北参道の丁石は、距離(丁)がだんだん減っていたが、豊楽寺の丁石は道標から段々増えていき八丁で本堂へ到着する、というものらしい。
豊楽寺北参道2 豊楽寺丁石

 一丁の丁石から西に進み、石橋を渡って、坂を上り始める右側の藪の中に2丁の石仏丁石がある。調査報告2p17には「二丁目 下神目村前田庄介」と刻まれているとするが、「二町目」と読める。その他は「下」が見えるくらいで、笹に覆われて読み取れなかった。季節によるかも知れないが、道から少し離れた笹の中にあるので気をつけないと見落とす。(笹でよく見えなかったが溝があるようで近づけなかった)。
豊楽寺北参道3 豊楽寺丁石2

 後日、豊楽寺から中国自然歩道の道標(豊楽寺、志呂神社)の横の道を下りてきたが、調査報告2の通り、3丁以降の丁石は見当たらなかった。前記2丁目の丁石から前記自然歩道の道標まで往復してみたが丁石らしいものはなかった。

  道の西側(山沿い)に鎮座する地蔵尊のところから分岐する道を西に向かう。田の横の細い道。津山線に近づいていき、舗装が途切れる。道路は津山線に出会ってまた右に曲がっていくのだが、踏切でない踏み分け道のようなところ(いわゆる勝手踏切)を通るのがかっての津山往来であったようだ。
 津山往来道を津山線が分断したのであろうが、その是非はともかく現在は踏切のないところなので事故が起きた例もあるようだ。渡るかどうかは自己責任だが、くれぐれも慎重にして欲しい。
 北側にも同じような道が延びる。さきほどの豊楽寺道標の道をそのまま進み、前田踏切を越えて右折するのも選択肢の一つである。
勝手踏切 勝手踏切2

 津山線から離れ、西北に進む。農家の軒先を通り、誕生寺川に向う。土手道の一つ内側(田圃側)の道が往来だと思われる。

 左手に誕生寺川の土手道を見ながら遡上する。勝手踏切から500メートルほど進んだところで、屋敷地にぶつかり、二つに分岐する。左、日南橋の方角へ進む。

 屋敷地の北側に題目碑(読誦塔)がある。

題目碑  三段の基礎の上に高さ1.6メートルの切石を置く。正面に「南無妙法蓮華経」右側面に「安永丙申三月廿八日」左正面に「奉読誦妙典百部祖師五百遠忌」と刻まれている(建部町史[地区誌・資料編]p268-269)。法華経を五百回読んだということだ。久米南町誌によれば、天明元年(1781)日蓮上人の五百年忌を迎え、題目石が各地で建てられた。

 調査報告2の地図では下神目上のところで津山線の東側に題目石があるように記述されている。それで、日南橋に向う道と土手道が合流する交差点を右折して東に行って見た。
下神目上公会堂の前に「河原政太郞翁寄贈記念碑」や墓石らしいものがあったが、題目碑は見あたらなかった。
下神上踏切の先にも行ってみたが見つけることができなかった。 結局この周囲では、前記安永の読誦塔しかなかった。これだと津山線の西側である。
近くで農作業をしていた方とも話したが、移設したという話も特になかった。集落でお参りする、という話だけだった。また、建部町史の記述にもそういったことはない。再確認事項であるが、現在(2016年08月)は上記の題目碑のことではないか(地図上の点が間違っている)と思っている。

 日南橋の東詰から土手道を進む(左写真)。
しばらく行くと右斜めに民家の庭に入る道がある。その数軒の民家の先、右手に入ると高圧線の鉄塔の右側を真っ直ぐ延びる道がある(右写真は再調査の時=2016年夏)。これが、往来の名残ではないか、と思ったが、軒先を通る感じなので、鉄塔の手前まで土手道を進み、そこからこの延長線の道を進んだ。
ただし、この辺は河川工事や田の改修などで旧道がどの程度保存されているか不明なので、それほどこだわることもないと思われる。
神目の道 神目の道2

 日南橋手前の題目碑から一キロほど誕生寺川沿いに進むと、神目中松尾の集落に入る。オレンジ色の屋根の家の手前の空き地にややずんぐりした自然石の題目碑(読誦塔)がある。やや苔むしている。

松尾の千部塔[正面] 南無妙法蓮華経千部供養 
[左面] 願主當村勘次良 
と刻まれている。なお、久米南町誌p334には、「勘次郎」とあるが、管理人には「勘次良」と読めたのでそう記す。「郎」の字に「良」を充てることは江戸時代の文書ではよくあることだという。
 同書によれば勘次郎の妻が機を織る間も休まず法華経千部を読み上げたと語り伝えられているという。

 その先10メートルほど行くと左手に大きな題目碑(読誦塔)がある。高さが3メートル近くあり、久米南町内では最大とされる。

松尾の五百部塔 [正面] 南無妙法蓮華経 日蓮大士
 [左面] 奉唱首題五百部五百年御遠忌 世話人 多田一東
 [右]天明元辛丑十月 當村講中 と刻まれている(久米南町誌p334)。

 題目を七万遍唱えたものが一部とされる(建部町史民俗編p665)のであれば、3500万回数えたことになる。
 ひとりでは無理なので、講中で協力したのだろう。それにしても気が遠くなるような回数だ。
 また、世話人多田一東は講中外の人であるようだ(同前)。松尾には不受不施系の日蓮宗徒が内信としての信心を維持するとき、その支えとなった庵の一つがあった。
 久米南町誌p334では世話人多田一東を、そういった庵に係わりのあった人ではないか、と推測している。

小さな橋を渡る。土手道と平行して10分ほど歩くと右手に何かの跡地、それから神目小学校の体育館だったらしい建物が見え、金網越しに「百周年祈念碑」が見える。神目小学校は龍山小学校と統合されて誕生寺川を越えた上神目に移転している。
旧神目小学校

 その後も土手道と並行して進む。河合内科循環器科医院の裏(南)を通り抜けたところで、神目橋から来た道と、神目駅から来た道との合流点に出る(左写真)。目の前にJA津山神目支店の建物があるが、現在は稼働していないようだ。
 左に行けば誕生寺川の歩行橋、右に行けば神目駅である(右写真)。
地図から見れば、JAの建物が旧往来を分断しているように見える。
  神目駅前 神目駅


津山往来6-1
津山往来4
津山往来トップ
岡山の街道を歩く
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