津山往来・建部

八幡の渡近くの遺跡

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願成寺の題目碑と七社八幡神社

 平成28年8月6日、七社八幡神社を参拝に行く。熱暑のなかを歩く。たけべ八幡温泉の左側を進むと、「温泉場踏切」がある。それを越え、細い国道484号線に出会う。
温泉場踏切


願成寺の題目碑

  484号線を越えて斜め右に曲がりながら、そのまま道なりに右に向って行けば七社八幡宮に行くのだが、左の墓地の前の大きな題目石が気になって拝見した。

 左写真の家と比べて見て大きさが分かる。大きな題目碑が三基。文字は比較的読みやすいが、字が多く、また右端の題目碑に刻まれた「清正大神祇」という文字が題目とどういう関係があるか分からなかった。 その横に丸っこい自然石の碑。さらにその横に不思議な形の石碑。
願成寺の題目碑

 帰宅後、建部町史 地区史・資料編p338-340に説明がある建部上 願成寺の地の題目碑であるのに気づいた(建部上は地名)。一部を以下に転記する。なお、写真の順番に記述を並び替えた。

一番右側の題目碑
[正面] 南無妙法蓮華経清正大神祇
[右横] 一天静謐宝禄祝萬祈宮保松寿武運究千秋
    円機正純□妙法流高低見聞觸真俗同共成菩提
[左横] 時維萬延肇元龍集庚申■林鐘念四
    金福山廿一世 日晉
    當子二百五拾年之忌景奉建立 應需謹書
[裏面] 発起 願主土州高智府市邑丑之助秦親忠
       副司長州赤間関山田清左衛門方義
    補助 里正當郡田地子邑行森源次郎正賢
              伍長 當邑溝口儀三良弘近
                同 戸田兼右衛門秀世
二番目(中央)の題目碑
[正面] 南無妙法蓮華経 日蓮大菩薩
[裏面] 天明元年幸丑十月三日
    五百遠忌 村中
    元宝塔在建部上渡場八幡橋脚下宗祖村中
    六百五十遠忌記念移転千(于)處也 村中
    昭和五年五月吉日
    石工福渡町山中義太郞
三番目の題目碑
[正面] 南無妙法蓮華経 大覚大僧正
[裏面] 文政九丙戌四月三日

 「清正大神祇」の碑:□の文字は左側が「享」で右側が「月」の一字、■は左側が「ネ」で右側が「異」、示偏に「異」の祀るではないか、と思う。
 願主が高知(土州高智)の人であったり、副司が下関(赤間関)の人であることが興味をひく。
 補助「里正」というのは庄屋や村長をいうこともあったようで(国語大辞典)行森さんは田地子村の村長か名主と考えて良いと思う。岡山大学 池田家文庫 マイクロフィルム目録データベースの「払上申銭札之事」という項目の注記に「大庄屋 田地子村行森源次郎」という名前が出ている。
 同一人かどうかは不明だが、同じ家の人ではあろう。田地子村は明治22年(1889)に上建部村になる(岡山県御津郡誌p70)。その時以降上建部村村長として行森猪太郎、同乾太の名がある(同前、p177)。
 これらから推測して、願主「市邑」は、郡長かなとあたりをつけたが、市邑(あるいは「市村」)という苗字の人は同書p172の郡長の名簿にはなかった。県令でもない。とりあえずここでお手上げ。(補記:伍長というのは五人組頭であろうか?)
 「金福山廿一世 日晉」は、下記の題目岩の題目を書いた僧と同一人物だと思われる。なお、金福山妙福寺は、福渡にある日蓮宗のお寺である(建部町史 地区史・資料編p194)。
 建立年に関しては、明治初頭と推測して良いのではないか?と思う。

 同書の石碑の項には三基の題目碑の左側にある丸っこい自然石の碑の説明がない。管理人の読みだと「奉勧請堅牢大地神守」「衆人快楽」。堅牢地神を勧請した碑ととれるが、末尾の[守]の意味が分からない。

 五基の石碑の左端は建部上の川渕にあった題目岩の破片であった(同前p340)。

不思議な石碑 題目岩跡:福渡の町から八幡橋を渡り左折、少しばかり進むと急に幽すいな趣のある風景がある。地元ではこの地を「お題目」と呼び、昔このあたりは岩が川縁まで迫って、人々は大井手の溝縁を伝って生活路としていた。この難所では、多くの人や馬が倒れ、これを哀れんだ人々が浄財を募って、天保十一年(一八四〇)「南無妙法蓮華経」と七字の題目を岩に刻んで、その冥福を祈ったという。題目は妙福寺の日晉上人が書いたといわれ、その長さは約九メートル、岩に刻んだ一字には米が一斗五升も入ったといわれている。この題目岩は昭和九年の大水害で崩れ落ちてしまって、今はその破片が祀られている。(建部町史 地区史・資料編p331-332から引用)


七社八幡神社

もとに戻り、北へ進む。数分歩くと七社八幡神社の鳥居の前に着く。階段を上がった ところに白木の拝殿がある。
七社八幡宮 七社八幡宮拝殿
 七社八幡神社は、旧村社で、主祭神は応神天皇外六柱。毎年、建部町内の七社の神輿が参集する建部祭りが行われる。
(建部祭り おかやまの文化財(サイト確認平成28年10月10日)
 拝殿は新しいが、本殿は岡山市の重要文化財である。境内の北側に長屋のようなものがある。八つに仕切られていて、それぞれに神社の名札がつけられている。建部祭りで集まる八つの神社(当社含)の神輿の安置場所ではないか、と思った。
 いずれ建部祭りを見に来よう。(平成26年10月9日にいきました。拝観記録
七社八幡宮本殿 七社八幡宮長屋
旭川を越えた向こうに福渡の八幡神社が見える(オレンジの屋根の上)。
福渡八幡神社遠景

七社八幡宮  岡山県の神社、神社検索(岡山県神社庁のホームページ:サイト確認 平成28年8月15日)

 このあと幸福橋を渡って、福渡の八幡神社へ参った。これも両参りというのだろうか?
 たけべ温泉に入浴して帰宅。平成28年8月当時、入湯料は650円。岡山市内に住む65才以上の人はシルバー料金ということで570円。平成の大合併にはあまり好意を抱いていなかったが、良いこともある。「福わたり」という銘柄の日本酒もあった。

日本酒ふくわたり 残念ながら福渡産ではないが、旧建部町時代に姉妹都市であった兵庫県淡路市の千年一酒造で醸造したもの。管理人は、1合カップを買って帰った。


国境としての八幡の渡し

 今では一つの行政区であるが、八幡の渡しの西岸・建部は備前池田藩の国境の町、東岸・福渡は美作の国境の町であった。境界の旭川のまん中に、国境の杭があった。同時に旭川を下り、そして上る高瀬舟による舟運の基地のひとつでもあった(写真は建部側から福渡側を望んだもの)。

八幡の渡し  津山往来を岡山から八幡の渡しまで歩いてくる道々、津山藩への備えと考えられる日置氏、建部池田氏の陣屋町を通った。さらに幕末になると横井上のお台場、大砲を置いた金川の道鏡、台場の予定地だった建部の台橋など、鳥羽伏見の戦いで幕府方だった津山藩を警戒していたことが感じられる。津山側からはどう見たのか、機会があれば調べたい。

 建部町史 地区誌・資料編を引用する。

「津山往来」は岡山城下の出石を出て、建部上渡りまで来ると、ここから川渡りとなる。「岡山往来」は津山の城府を出て、福渡の町尻まで来ると川渡りとなる。(p188)
 福渡は水陸の要衝であって、昔は賑やかな宿場町であった。それで、かっては赤松氏は代官所を置き、津山藩は、「表番所」「裏番所」を置いていた。
 「八幡の渡し」は何百年となく旅人や村人を渡し続けたが、明治十一年(1878)八月十五日遂に彼岸の板橋が架けられ、渡しは止んだ。しかし、二年後の明治十三年に洪水で流失してしまし、再び「八幡の渡し」が始められ、以降大正十年(1892)四月、木橋の八幡橋が架けられるまで続いていた。(p189)

 永正年間(1504~1520)赤松氏が家臣木梨伊賀を代官として備前への備えとして当たらせた代官所の記録があり、また慶長八年(1603)森氏が美作に入封して番所を設けた記録もある。森氏除封以降の記録はないが、明治初年まで番所はあった。(前記資料p190より抜粋)

 人と物資が行き来し、繁栄したであろう八幡の渡し。番所があって当然だと思うが、建部町史 地区誌・資料編では福渡側の代官所、番所に関する記事がある(p188-190)が、建部側の記事にはない(p330)。
 本当になかったのだろうか。国境を接した場合、番所はどちらかの藩だけが設けるのが一般的だったのか、も含めて興味がある。

一応確認していますが、混乱しているためまだまちがいがあるかも知れません。今後追加修正の可能性があります。


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