津山往来10

10 日限地蔵堂(津山市一方)から京橋御門跡まで

歩行日 平成27年11月13日(金) 距離 約3.7キロ
 (津山口駅南域の経路を管理人が推奨する「代替往来」を通ったときの距離)


 書いていることはいちおう点検していますが、見落としもあると思います。情報を利用される場合は、ご留意ください。
地図は北を上にしています。記述は岡山側からなので、下から上への説明になります。
日限地蔵堂から京町までの略図


 地蔵堂から30メートル前後歩いて、山側を周り込むように右(東)の分岐に入る。
130メートルほど進むと津山線の高架(第一河原橋梁)がある。ここで道は二つに分かれる。
分岐1 一方のガード

 ここから境橋までの経路について調査報告2p33-34では「佐良神社下から旧広瀬橋まで」として二系統の道を説明している。

  1. 元禄時代に古道と呼ばれた道。橋梁をくぐって東へ進む。
  2. 元禄時代に新道と呼ばれた道。橋梁手前で北に向う。同書の地図はこちらを記載。
 この道の変更は、「山上がり」と皿川の川筋の移転による。川筋の移転は延宝七年(1679)に実施されたもので、かっては一方村、北村、井ノ口村を流れ、境橋の下手で吉井川に合流していた。(調査報告2p33。同書で河原善右衛門の発案により、同人と植月新右衛門が工事を監督したことも触れている)。
 「山上がり」は農民の住居を山間の台地に移し、跡を田畑として、生産力を高めるものである。津山藩では承応元年(1652)から始まり、翌年一方村が高地に移された。(津山市史第3巻、p231)

 調査報告2では、どちらの道とも途絶しているようなので、検討の結果自分たちなりの[代替往来]を決めた。ここから井口の長法寺下まではその経路を説明する。他の経路については道の検討(津山口駅南部地域)を参照。
 また井口は資料によって井の口、井ノ口と表記されている。大方はその表記に従ったが統一がとれていないかも知れない。

 第一河原橋梁の手前山側に鳥居がある。行っていないが、佐良神社の別の参道だろうと思う。

 第一河原橋梁をくぐって、山裾を東に進む。橋梁から280メートルほど進むと、左に分岐する道があり、右には「美作国長岡七十七番札所参道」という比較的新しい石碑が立ち、山腹へ入る道がある。真っ直ぐ行くのが旧道だと思われるが、ここは左折して北へ向う。
一方の道 分岐

 左は札所碑を背に北を向いて眺めた写真。ここから一方踏切まで経路がわかる写真がないので右図で示す。
 最初まっすぐ北に向い、新しい家の前でぶつかったところを左折。西に向ってからゆっくり北へ曲がりながら進む。道なりである。途中左側に分岐があるがそちらは住宅地の中へ進み最後は行き止まり。
一方の道 細部図

 札所碑の分岐から250メートルほど進むと、津山線一方踏切の手前の分岐に到達する。 左が歩き直した平成28年9月1日の写真。右が平成27年11月13日の写真。家畜市場の塀がまったくなくなっている。中も更地。ここは右に折れて東に進む。
踏切前(新) 踏切前(旧)

 線路に沿って歩き出す。しばらくすると線路から離れる。津山口駅は家の影になって見えない。かわりに右手の山の中腹に長法寺の多宝塔が見えてくる。
津山口駅南 長法寺

 津山口駅は、明治31年に中国鉄道が岡山から津山まで開通したときは津山駅であった。最初岡山-津山間は一日四往復で、次第に増やされ、大正になると12往復まで拡大した。「けふの天気をさいはいに中国線の汽車に乗り 煙残して岡山を・・・」で始まり、経路の各停車駅を読み込んだ中国鉄道唱歌は我々が歩いて来た野々口、金川、箕地、建部、福渡、弓削、誕生寺、亀甲、皿山を経由し「・・・名残りも尽きぬ津山駅 川の向ひの津山町 千代とことほぐ鶴山に城跡残りて名もゆかし」と終わっている(以上津山市史第6巻p254-257)。
 開業当時は岡山-津山(現在の津山口)間を2時間35分で運行している(津山線・吉備線百年史、久保豪著・発行、2004.p15開業時の臨時列車の時刻表から算出)。
 平成28年9月現在、岡山-津山間(現在の津山駅)は各駅停車で1時間30分前後、快速で1時間10分前後である。もちろん煙も出ない。
 道の調査のとき、津山口駅にも行ったが、駐車場の片隅に待合所がぽつりと立っているだけだった。

 一方踏切の手前の分岐から630メートルほど東に進むと、斜めに北東に進む道にぶつかる。T字路を左(北)に曲がる。
 すぐに長法寺参道へ進む分岐がある。ここは直進。
分岐 長法寺入り口


 平成28年9月のある日長法寺へ参詣した。長法寺はあじさい寺として有名だが、それは明治6年に津山城取り壊しに際し、紫陽花の絵を描いた障子を送られたことから始まるという。(参考:津山瓦版 紫陽花寺「長法寺。サイト確認:平成28年9月20日)
 山門の右上に見えるのが、薄田泣菫の詩集「二十五絃」に納められた「公孫樹下にたちて」のなかで歌われた公孫樹だといわれるもの。「公孫樹下にたちて」は青空文庫で読むことができる。
泣菫詩抄 青空文庫(サイト確認:平成28年9月20日)。
山門 長法寺の公孫樹

 お寺については前記津山瓦版の説明がわかりやすいので、そちらを参照ください。ここには管理人が興味を持ったものを中心に載せる。
 左写真は山門の前にあった三基の石碑のうちの一基。まん中上に錫杖を持った地蔵尊。その下に「日本回国」と刻んである。右に「天下泰平国土安全」左に「参州西部宇曽利山」(州は力が三つの異体字)と読める。宇曽利という地名は東北にあるようだが、参州とのつながりが分からない。年号は巳年しか読めない。
 右写真は階段入り口に鎮座されていた地蔵尊。
延命地蔵など 門前の石仏など

 左写真は階段の途中にあった三基の石仏。右端は延命地蔵尊、まん中は自然石に「大道?地蔵菩薩」と刻んである。左端は不動明王だと思う。
 右写真の石仏は観音堂などが立ち並ぶ境内にあった。六面のそれぞれに仏の座像を彫り、下に文字が刻んであるが、「当国」などの文字がいくつか読めるほかは不明。
延命地蔵など 地蔵尊

阿弥陀堂と観音堂
延命地蔵など 地蔵尊

 梵鐘の横の説明板に明治29年、津山中学に赴任した田岡嶺雲が鐘の音に断腸の思いを残して津山を去ったという意味のことが書いている。

長法寺鐘撞堂  文政期(1818-1830)のころの津山画図に記載された八景の一つに長法寺晩鐘があるという(津山学ことはじめp242-243)。津山の人々に愛された鐘だとは思うが、それだけで『断腸の思い』になることはなかろう、と思った。
 調べたら「佐良山地域の歴史を語ろう」p104-105に料亭で出会った女性とのことが書いてあり、ウイキペディアでは土地の芸妓との恋愛のもつれと書いてある。そういうことか、と納得がいった。
 資料を読むとかなり興味深い人生を送った人だ。岡山県関係の資料には教科書事件(明治時代の疑獄事件)などを紹介しているが、県外での彼の活動については省略している気配がある。この件に限って言えば全体像を知るにはウイキペディアの方が適している気がする。もちろんきちんとした評伝や彼の著作を読むのが一番だろうが。

 もとの道に戻る。


 長法寺参道への入り口から200メートルほど道なりに歩いたところで津山線井の口踏切がある(左写真)。
 続いて姫新線の井の口踏切がある(右写真)。二つの踏切のあいだは20メートルくらいしかない。二つ目の踏切を渡って60メートルほど進んだら、右手の道に入って建物のあいだを進む。
津山線井の口踏切 姫新線井の口踏切

 向こうにガソリンスタンド(シェル)のマークが見える(左写真)。
右写真は、出てきたところで振り返って見たもの。(進行方向に向って)左が東洋緑地。その次のブロック塀はガソリンスタンド。右が中島建設。調査報告2p34にある「三晃精機」という会社は見当たらなかった。もしかしたら建物のあいだを通るとき右側にあった動いていない工場がそれかも知れないと思った。インターネットで調べてもこの辺りに同名の会社はなかった。
建物の間 出口

 目の前を横切る53号線はやや高い位置。津山往来は津山口信号を斜めに進んでいるが小さな坂を上って国道を渡り、小さな坂を下りて右手の狭い道に入る。往来は吉井川までまっすぐ延びていて、後から国道が分断した感じである。
 国道の南側に立って右後ろを見れば、うどん屋がある(津山口駅南部の再調査のとき昼食。セルフ式のうどん屋だった)。左側はガソリンスタンド。
津山口信号 うどん屋

 目の先に吉井川の土手。この対岸がかっての字広瀬になる(津山市史第3巻p179などを参考)。右写真は境橋の上から撮ったもの。この辺に広瀬橋がかかっていた。

津山口信号 吉井川

 鉄砲町の土手と吉井川の南岸を結んで架けられて広瀬橋は、今津屋橋などと同じく九月末から十月に新しい土橋がかけられ、翌三月末から四月中に取り払われていた。ちなみに、長法寺で触れた文政期の津山画図に記載された八景に広瀬橋夕照というのがある由(同前)。確かに灯りの少ない江戸時代、それも川辺の夕焼けはきれいだったろう。
 なお、橋のない期間は渡し船で人や荷物を運搬した。資料には「城下防衛」なども理由として挙がっているが、管理人には水害への対応、というのが一番納得がいく。橋があるとそこに流木などが引っかかって河川氾濫が起きやすい。
 しかし、18世紀の末頃には、常設の橋が架けられていたようだ(橋については「津山市史第四巻p124-125、及び「絵図で歩く津山城下町」p155の記述を参考にして要約)。延宝七年(1679)の改修までの皿川はこの近くで吉井川に合流していた(調査報告2p35)。

現在広瀬橋はなく、土手道を西に進み、少し上流に架けられた境橋の南詰から、吉井川を渡る。ここからは迂回路である。(平成27年11月13日に歩いた時はこの辺から小雨が降り始めた)

境橋南詰最初の境橋が架けられた時期は明治半ば(※)であるようだが、明治19年からの道路改修に関連した工事ではないか、と推測している(確認できれば補記する)。なお現在の境橋は親柱に「昭和十一年竣工」とある。

 ※「古写真紹介」~失われた津山を求めて、佐野綱由著、[博物館だより No.64,2010.3]。津山郷土博物館。同館のサイトから閲覧可能。

 境橋を渡ってすぐ右(東)に曲がって吉井川土手を進む。栄橋北詰めから100メートルほど進んだところで、土手から離れる分岐に入って(左写真)、すぐに右の分岐に進む(右写真)。
 迂回路が終わり、鉄砲町の南筋を進むこの道が江戸時代の土手道である。(「絵図で歩く津山城下町」p154)。
鉄砲町の道 鉄砲町の道2

  1. 津山市第三巻の「図42 津山城下町平面図」では鉄砲町を東西に通る道は三筋ある。現在はその三筋の外側(吉井川北岸)にもう一筋ある。後になって土手道が整備されたと判断した。
  2. 「鉄砲町」の案内板は上記三筋の一番北側(光厳寺や鉄砲町会館がある筋)にあるので津山往来の道筋からは離れている。
  3. 森藩時代に鉄砲足軽の屋敷があったことが『鉄砲町』という町名の由来とされる。また、江戸時代の初めには城東地区にあった鉄砲町に対して、西鉄砲町と呼ばれたこともあったという。これは「津山誌」の記述によるようだ。「正保津山城絵図」では「足軽町」と記載され、「津山絵図」では「鉄砲者屋敷」と記載されており、鉄砲町というのは通称であった由(「絵図で歩く津山城下町p154))。なお、説明板に土手筋に大砲の練習場所があったことが書かれている。吉井川対岸の着弾点までの距離が五町だったので五町場と呼ばれた。「津山誌」下48丁にも同様の記事があり、元禄後のこととしている。

 消火器や駐車場の町名表示に「鉄砲町」や「鉄砲町南通」という名前を見るくらいで、この筋に目印や看板はない。
 190メートルほど進むと、大きい自然石の石碑がある。「究竟寺 専用駐車場」と書いてある。そこから90メートルほど進むと究竟寺がある。
 究竟寺から40メートルほどでT字路にぶつかる(右写真)。正面は材木置き場である。
究竟寺 鉄砲町の道3

 T字路を右に進んで藺田(いだ)川にぶつかり、川に沿って土手を上がる。
 鉄砲町の説明板にあった大砲練習場もこの辺だろう。ただし、河川工事の影響で位置は若干ずれている。また今よりかなり低かったようだ(「絵図で歩く津山城下町」p154)坂の上で藺田川を渡るのが新橋。その先に見えるのが上にアーチのある今井橋である(左写真)。
 土手に上って、藺田川を新橋で越える(右写真)。
鉄砲町の道4 新橋
 現在新橋が架かっているところには、かって「三枚橋」が架かっていた。
 三枚橋について「古写真紹介~失われた津山を求めて」では「津山誌」からとして『森氏は、鉄砲町と南新座の間の藺田川に、巨石3枚を並べて、長さ5間3尺(約10m)、幅1間(約1.8m)の石橋を架けた』と説明する。(「古写真紹介」~失われた津山を求めて、佐野綱由著、[博物館だより No.64,2010.3。津山郷土博物館]。大正10年当時の三枚橋の写真も掲載されている。同館のサイトから閲覧可能)。

 また、大正12年の津山駅開業までは、当時の津山駅(現津山口駅)から、津山に入るには、境橋を渡って、出雲往来を通って翁橋から入るか、備前往来を通って三枚橋を渡るしかなかった(同前)。


津山城下への道 調査報告2p35では広瀬橋(あるいは広瀬の渡)で吉井川を越えてからそのまま北上し、西今町から出雲街道経由で翁橋を渡り新魚町まで進む道は翁橋に西大番所が設けられたことにより利用されるようになった、とする。
 また[津山誌 下]48丁では『【備前古往還】 東方藺田川ニ沿フ 藺田筋是ナリ 延宝中西大番所成ルニ及テ森氏公事ヲ以テ来ル者ヲシテ必ス此ヲ過シム 明治二年己巳二月里程調査ニ当リ其迂回ナルヲ以テ民部省令ニ照シ更ニ三枚橋通ニ改ム。』とする。
 津山城下町とその周辺の津山往来は何度か道筋が変更されている。重要な道ではなかったので、その都度適当な道が利用されたと考えている。
 我々は調査報告2のp35及び地図に記載されている『新橋(三枚橋)を渡って、今井橋北詰、桶屋町、新職人町、新魚町、堺町を経て京町に至る道』を津山往来として歩いた。これ以降の説明はそれを前提としている。


 吉井川の土手を東へ向う。この辺は新しい土手を歩くので、旧状は分からない(調査報告2p35)。すぐ今井橋の北詰。江戸時代には南新座土手の外側には河原が広がって、水路が引かれ水車場があった(「絵図で歩く津山城下町」p98)。ここから北に折れて南新座に向う。南新座はかって武士町だったところだ。当所寺町だったが、武家町が不足した結果寺院を移転して武士町とした(同前p96-97)。
 広い道を北に進むと南新座交差点がある。
 南新座の交差点を北に通り越して次の交差点を東に折れて「知新館」方面に進む。道路の北側に案内標識がある。
南新座 知新館の分岐

 交差点から進んですぐ右手(南側)に和風のどっしりした家がある(左写真)。その家の塀(交差点より)に南新座の説明板がある。説明板には武士町だったことだけでなく、「江戸時代の終わり頃に農民や町人の更正施設として勧農所や督業場が置かれた。」ことが書いてある。
 知新館は津山藩松平家の家臣であった平沼家の屋敷があったところである。津山瓦版には平沼騏一郎(第35代総理大臣)の別邸とある。(サイト確認:平成28年9月21日)。
 知新館からさらに東に進むと、すぐにT字路にぶつかる(右写真)。ここは左(北)に折れて、妙願寺方面に進む。
知新館 T字路

 道の右側、東に向う分岐の角に「桶屋町」の説明板がある。城下町建設当初に桶屋が移住させられてこの名になったという。
 同業の店を集めて住まわせるということを城下町の歴史ではよく聞く。運上の徴収などを始めとして管理がやりやすいからだろうか。江戸時代は商人も職人も同業組合を作って、外部の参入を制限したり、内部的を統制したりして、それぞれ利益を守った。村方でも村内での統制は厳しかったようだ。新参者は警戒されたり、軽く見られたりしがちだ。「同業組合」や「村」はなくなったが、今でもその傾向が残っている気がする。

 「桶屋町」説明板のところの分岐は通過。その先お寺が二つ続く。それぞれ山号と寺の名前を刻んだ石柱が立っている。最初が長泉寺、その次が妙願寺。妙願寺は津山藩森家ゆかりの寺で、森蘭丸や津山藩主森忠政の母親である妙高尼の画像(岡山県の指定文化財)などがある。境内に妙高尼の石像があった。
詳しくは津山瓦版 妙願寺などを参照 。(サイト確認:平成28年9月21日)。
妙願寺 妙高尼

 妙願寺の山門の前から右に曲がってアルネ津山に向う道に入る。東に向う道の両側が新職人町である(左写真)。道路右側に町名の説明板がある。
 森氏の入封後、具足師・研師・塗師・鞘師・銀工等、武具に関わる職人を置いたが、美濃職人町がすでにあったので、新職人町としたという(同説明板)。別の説も補足されているが、どちらにしても城下らしい町ではある。
 往来はここをまっすぐ東に進むが、アルネ津山がまん中にある(右写真)。天満屋などの商業施設とコンサートホールや市立中央図書館なども入っている。アルネ津山のあるところが新魚町である。西から入って東に通り抜けた。
新職人町 アルネ津山

 アルネ津山を出ると目の前にアーケードのある商店街が東に伸びる。ソシオ一番街というらしい。
 照文堂書店辺まで堺町で、堺町から東は出雲街道と重なる。津山では備前往来(我々がいう津山往来)よりも、出雲街道への関心の方が圧倒的に大きい。資料もたくさん出ている。また「津山誌」上9丁では、備前往還として、「堺町ニ於テ出雲街道ヨリ二分シ(以下略)」とある。

 堺町の次は京町になる。「絵図で歩く津山城下町」p68によると京町41番地に町会所があった。通路右側の寳多仏具店の手前くらいの位置だ。
 アーケードの東端は、京町交差点。交差するのは津山駅方面から今津屋橋を通って鶴山公園西側を通る県道394号である。
ソシオ一番街 京町交差点

 交差点を東に渡る。90メートルほど進めば、左に分岐する道がある。その向かいの角に「京町」の説明板がある。

京町説明板  京町は津山城の大手門(京橋門)前を東西に伸びる商人町である。説明板の後ろの駐車場は、江戸時代の終わりころ義倉(※)があった(以下このページの記事は特に断らない限り「絵図で歩く津山城下町p14-15」による)。義倉ができる前は屋敷地であったと思われる。その後山陽銀行本店が建った。山陽銀行は後に第一合同銀行と合併して中国銀行となり、山陽銀行本店は中国銀行津山支店となった。
※ 凶作や飢饉に備える為の備蓄穀物を納める蔵。穀物類の収集手段は課税や富裕者からの寄付によるが時代や地域によって異なる。津山藩の義倉については「津山城下町の義倉」、尾島治著、[津博No.81、2014.7] を参照。津山郷土博物館のサイトから閲覧可能(サイト確認:平成28年9月22日)

 下左の写真は京町交差点から東に向う道から北に分岐する道を撮ったものである。江戸時代であれば街道筋から津山城大手門(京橋門)を見ていることになる。
「絵図で歩く津山城下町」では、門に向う道が堀まで17間(約31m)あり、それが金比羅神社の所まで、その先13間(約24m)幅の堀があった。位置的には金比羅神社の北側の道は堀だったところだ。堀には木製の橋がかかっていた。
 右写真は金比羅神社(明治初年に場内赤座主殿の屋敷から移設された)、その先にある京橋門の枡形の遺構は家の影になって見えない。
京橋門方向 金比羅神社

 yahoo地図で測った距離と「絵図で歩く津山城下町」の距離が若干異なる。「絵図で・・・」は文献資料に基づいたものであると思うし、道路も変わっているので誤差だと思うことにした。堀などが杓子定規に造られたとも思えないが、いつかメジャーを持って行って測ってみたい。怒られるかな。もうひとつ確認していないことがある。金毘羅神社北側の道は暗渠の上を通っていて、北へ向う道を越えた東に細い用水が宮川まで続くようだ。それが堀の痕跡であるということである。
 「津山誌」上9丁に外堀について『廃城後民有ニ属シ対外之ヲ填ム』とある(填=ふさぐ)。

 金比羅神社から50メートルほど北へ行くと、「京橋御門跡 (津山城大手口)」と刻まれた石柱が立っている。左側の看板は「岡山県立津山高等学校 同窓会館」の説明板である。
 ここが津山城外堀の一郭であること、南東に京橋御門があったことなどが書いてある。なお、ここには岡山県立津山高等女学校があった。
京橋門跡の石碑
 下の石垣は京橋門の枡形の遺構である。これがどの部分であったかは分からないが、ここの辺に堀があり、大手門があったことは何となく想像できた。
京橋御門石垣

 終点であるが、拍子抜けするくらい往来に関する遺跡はなにもない。備前岡山の千阿弥橋跡と良い勝負である。それでも京橋御門跡の碑と、京橋門枡形の遺構があったので江戸時代に生きた人々の暮らしを何となく想像することはできた。

 

津山往来の終点(備前往来の起点)について

 調査報告2p36は「津山誌」によるとして、『森氏京町口ヲ以テ四達ノ起程所ト為ス』と記す。要するに津山往来の起点(終点)は『京町口』であるとする。地図で終点としているところは「京町」の説明板があるところである。京町口の場所がなかなか分からなかったが、「津山誌」下巻4丁の記事によって義倉があった場所であると判明した。

 津山市史第三巻p175では

 城下の道路の起点は、城の大手、京橋口で、ここから隣国や国内各地への道程は『元禄十〇年(1697)美作国津山改町』にはつぎのように記している。
 一、備前国境 福渡村(御津郡建部町)まで七里、飯岡(ゆうか)村(柵原町)まで五里、御城下岡山へ拾四里。
 一、同金岡(岡山市西大寺)海手まで拾七里、船路にて。
 一、同片上(備前市)海手まで拾弐里、船路にて。
(以下略:「ゆうか」以外のふりがなは省略した)

 「京町口」という言葉は「津山誌」とそれを参考にした調査報告2以外では見なかった。また、京橋御門の場合、枡形の遺構があるし、位置が少し違う気がするが石碑もある。岡山県歴史の道調査報告を基準とする原則から逸脱するが、津山市史の記述に従い、『京橋口』を津山往来の終点(備前往来の起点)とする。

後日談1

 平成27年11月13日はこのあと、津山郷土博物館へ行った。展示物を興味を持って見たが、前庭の道標はあまり熱心に見なかった。午後から雨でやや寒く、空が暗かったせいもある。

里程標 後日[距津山]の里程標について同博物館に問い合わせると懇切に回答して下さった。同博物館の前庭に里程標があったのである。
 平成28年7月くらいからに再調査を始めたのは、整理するのが遅くなっていろんなところを忘れてしまったということもあるが、それを自分の目で見たかったという面もある。今回目的を果たしたが、疑問はまだ解消していない。
 それだけでなく、資料を整理していて、翁橋経由の道の方が、江戸時代の往来かも知れないと思うようになった。いつかもう一度津山に行くことになるだろう。

【解決していないこと】
 明治初期に設置された里程標のうち、津山を起点とする里程標を津山往来でこれまで5基見ていた。七里、六里、四里、三里、二里である。五里は個人蔵であることが「津山街道歩いてみれば」p15に記載されている。
 今回津山郷土博物館で「壱里」とはっきり書かれた里程標を見たとき、これだこれだ、と思った。しかし、迂闊にも設置場所を確認していなかった。
 帰宅後写真を整理していて土に半分埋まって距離が分からない里程標(左写真)の地名が『久米南条郡一方村』であることに気づいた。場所からいくと、津山往来の里程標の壱里はこれではないか、と思うようになった。

後日談2

 再調査のとき、材木町の東大番所跡まで行った。松平氏の時代に津山の道の起点がここになったからである(調査報告2p36)。またついでに城東地区まで足を伸ばした。市内を東西に横断している出雲街道沿いを中心に古い町並みを復元しようとされているようだ。


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岡山の街道を歩く

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