津山往来9

佐良山駅(津山市高尾)~日限地蔵堂(津山市一方)まで

歩行日 平成27年11月13日(金) 距離 約2.7キロ  


 書いていることはいちおう点検していますが、見落としもあると思います。情報を利用される場合は、ご留意ください。
地図は北を上にしています。記述は岡山側からなので、下から上への説明になります。
佐良山駅から境橋(津山市)までの略図


 佐良山駅から米?翁碑まで進んで出発。
少し進むと右手の山腹にとがった石がある。なんとなく意味がありそうで、近くの人に尋ねると、お参りしている人がいたとのこと(平成27年11月13日)。しかし、再調査(平成28年9月1日)には、見当たらなかった。笹が生い茂っていたので隠れたのかも知れないと思い進んだ。
米?翁の碑 謎の石碑

 その先で旧国道に合流する。調査報告2p30では合流点の少し手前に井戸跡がある、と記述する。かなり真剣に見ていたが分からなかった。右に公民館と小さな公園がある。

 井戸は分からなかったがきれいな水が流れる用水路がある。山と川に挟まれた水がきれいな土地柄なんだ。
用水

 合流してから170メートルほど進むと高尾踏切がある。踏切を渡ってすぐ左のやや細い道に入り、家のあいだを通る。向こうに見えるのは国道53号線。
高尾踏切 国道へ

 53号線との合流点の目の前は高尾信号。向かいに見える橋は大倭橋である。道を捜してあちこちしていたら、不思議な形の井関が目に入った。津山往来は右折だが、少し寄り道。大倭橋南詰の土手を左に曲がって100メートルほどのところ。
 位置からいってこれは高尾大井手ではない。
高尾北交差点 高尾の井関

 道を捜したのは調査報告2p30の記述が最初理解できなかったからだ。
 「大倭橋から湯谷交差点の間の道は、国道五十三号線と人家との間にかろうじて生き残っている。」とある。交差点で周囲を見回してもそれらしい道はなかった。
 この時「大倭橋」という言葉に釣られて交差点を渡ってしまったので、余計分からなくなり、あちこち探したということだ。

 この区間、結局三通りの経路を歩いた。(1)皿川沿いの土手、(2)国道沿いの歩道、(3)上記国道から下に分かれる細い道。踏査報告2p30の表現に一番近いのが(3)である

 交差点を渡らずに右に曲がり、30メートルほど進むと右に下りる細い道がある。 最初は道というより大きめの側溝という感じ。下に雑草よけだと思われる厚いシートが敷いてある。シートに雨の水たまりが残っている。あまり通りたくない状況の道であるが、とりあえず危険はなさそうである。
細い道 細い道2
 90メートルほど進むあいだに道らしくなる。宝くじ売り店(上左写真のまん中の赤い看板の店)裏を通りすぎて旧国道に合流する。左を向けば交差点。これがおそらく湯谷の交差点だと思う。

 そこから少し行くと右手に山側へ入って行く細い道があり、踏み切り(湯谷踏切)がある。試しに行って見ると、踏切を渡ったすぐ左側に「佐良山城主 入谷河内守源長昌之墓」という石碑があった。入谷河内守源長昌は篠山城の城主である。

入谷河内守源長昌之墓 元亀二年(1576)頃、毛利麾下の入谷河内守以下三百の兵が守る篠山城は宇喜多氏麾下の花房職之率いる一千余の軍勢に攻められ、死闘の末落城した。城主入谷河内守は家来に背負われて高尾の方に敗走する途中敵の放った矢が背に当たって死んだ。この石碑が立っているところで入谷河内守は息を引き取ったという(「佐良山地域の歴史を探ろう」p28-29より)。なお、この石碑は昭和34年9月に高尾町内会有志により建立された(同p19)。
 久米郡誌p163では「伊利谷河内守の墓」として、所在地は佐良山村大字高尾、赤松左京太夫政村に囲まれて戦死、墓は五輪塔で、頭痛歯痛にご利益があるとする。久米郡誌には「作陽誌に佐良湯谷とあるのは誤である。」と補記がある。二つの資料の情報はどちらも「入谷河内守」について記述していると思われるが、管理人は地理もよくわからず、整理ができない。あくまで参考程度です。
 津山瓦版 篠山城跡(サイト確認:平成28年11月1日)などにも記述がある。

 もとにもどって国道53号線を進む。津山銘菓「津山往来」の看板がある。津山駅でせんべいを買った。
 その先、作陽誌にも載っているという高尾大井手がある。右写真は高尾橋から撮った(説明や目印はない。ごく普通の井関だが、大倭橋からここまであった井関はこれだけだったので場所としては高尾大井手だと推測)。
津山往来の看板 高尾の大井手

 さらに5分ほど歩くと左に分岐がある佐良山信号に出会う。左が津山往来であり、また旧国道でもある。
佐良山信号

 佐良山信号から190メートルほど進むと、左側に津山皿簡易郵便局がある。

皿局前の分岐 調査報告2p31に、郵便局から皿川に近接するまでの400メートルに関し、「郵便局手前で西に曲がり、そのまま川沿いを進む道も考えられる」とある。地元の人に尋ねると、郵便局前の道が旧国道である、とだけ教えてくれた。

 最初の歩行では郵便局前を直進し、佐良山診療所の東(右)側を通った。再調査の時、念のため郵便局手前を左折してみた。

 最初道は右に曲がりながら皿川に近づき、少し高い土手道につながる。そして、皿公会堂の裏まで延び、そこで右に曲がって旧国道に合流する。念のために土手道を通って通って皿大橋まで歩いてみた。
 結論としては、「分からない」。郵便局横の道から公会堂の裏までの道は何となく雰囲気があるが、その先の土手は改修されたのだろうと思う。この辺は皿川の水害などもあったようで不安定な土手道を往来とする可能性はあまりないように思える。(参考:1998年(H10年)の水害 国土交通省中国地方整備局 太田川河川事務所。
[サイト確認:平成28年9月14日])
皿川分岐1 皿川分岐2

 最初の経路を記述する。郵便局前の道を進む。左側に佐良山診療所がある。田圃の中をゆっくり左にかたむきながら進むと、左側に皿公会堂がある。そこからは皿川の土手に沿って北上する。

 公会堂前から90メートルほど進むと、佐良山小学校方面から来た道と交差する。それらしい場所は短い距離で二ヶ所ある。道路右側にある大日如来と刻んだ石碑の手前(南)の方は運動場の南側に沿って53号線に出る道。石碑の次に出会う細い道は、運動場にぶつかっている(右写真)。実はこの道が旧来の道であった。
 また、交差すると書いたが、現状は三叉路である。西(皿川側)は空き地になっている。地元の人に伺った話をもとに考えると、屋敷が二棟あり、道はそのあいだを抜けていた。しかし、二軒とも売られたあと建物は取り壊され、西に向う道も無くなった(廃道になった)ということのようだ。
佐良山小分岐1 佐良山小分岐2

 上記の空き地がブロックで仕切られた(たぶん屋敷地の境界)ところ(木の根元)に梵字の下に「大日如来」と刻んだ明治十年十二月(側面に明記)の石碑がある。大日如来の左右に施主や世話人名が書いてある。施主は皿村の人である。
大日如来石碑

調査報告2p31によると、

 佐良山小学校西に来ると、小さな四つ角がある。東は小学校のグランドから出て来る道、西には宝来橋東詰に至る細道があり、西の細道の角に「大師道」の道標が立っている。

とある。
 さらに、今はない西の細道は皿川を渡って、吉井川押渕に至る古道で、後醍醐天皇が隠岐に流される際に通行したとされる道である(調査報告2p31)という。そのことを偲ぶよすがはない。

 大師道の道標は平成27年11月13日に歩いたときは、空き地の皿川の土手に登る小さな階段に立てかけてあった(左写真)。尋ねた地元の方が一緒に探してくださってやっと見つけた記憶がある。
 再調査のとき(平成28年9月1日)に同じところにはなく、もとのところより3メートルほど北、空き地の金網で囲った部分の後ろ(金網と土手のあいだ)に立ててあった(右写真)。この位置は、佐良山小学校運動場から来た道の延長線上である。どなたがどういう理由で動かしたかは不明だが、道標はやはり立っている方が良い。ただ見つけにくいのは変わらない。
 正面、指矢印の下に「大師道」、側面に「世話人 佐良山村大字皿村 大字平福村 明治廿二年」とある。背面にも文字があるが「米倉」「家」「光」らしい文字が窺えるだけで読めなかった。
大師道道標-皿川1 大師道道標-皿川2

 建物のあいだを進む。大日如来の石碑から400メートルほど進むと右手に産業廃棄物処理場がある。その先で皿大橋の東詰に出る。
 右側を見れば津山市皿の信号。そのまま皿川に沿って進み、80メートルほどで国道53号線に合流する。
皿大橋東詰

 左に皿川、右手に津山線、まん中の国道53号線を歩く。
皿大橋から5分。国道左側(皿川側)に日切地蔵堂がある。これは平福の地蔵堂である。この先に一方(いっぽう)の地蔵堂がある。もともとは一つの地蔵堂であったが、分離した(調査報告2p33)。また、平福の地蔵尊は「日切」、一方の地蔵尊は「日限」と表記を異にするという(「津山学ことはじめ」p231)。
平福の地蔵堂

 ここから先、調査報告2p32には「この辺りから、国道五十三号線は川沿いを走るが、往来道は少し山よりを行く。JR津山線が走っている辺りまで東よりを通っていた。現在はその道は痕跡しか残っていない。」とある。
 最初に歩いたとき、下から山裾を見て、道らしいものが見えたが入り口が草の生い茂った勝手踏切だったし、その先ちゃんと通じているかどうかも分からなかったのでそのまま国道を歩いた。

 平福の地蔵堂から少し進んだところ右側に平福踏切がある(左写真)。
 再調査のとき、ここを渡って右側(津山線を下に見ながら、先ほどの勝手踏切方向に戻る)に進んでみた(右写真)。
平福踏切 平福踏切2

 津山線の東側の山腹を通り、勝手踏切の東側の手前まで通じていた。

平福の旧往来 左は戻りながら津山方面を見て撮った写真。
 このほぼ真下を津山線が通る。皿川にかかる大渡橋が見えた。途中で出会った方に尋ねると「この道が昔の道だ」と教えてくれた。かっては目の前に琵琶が渕が広がっていたのだろう。

【琵琶ヶ淵】
 かって皿川は東の一方村の方へ入り込んでいて、大渡橋の手前は琵琶ヶ淵と呼ばれる大きな淵であった。この淵に大干魃の年、雨乞いに楽を奏でたところ、龍神が感応して美女の姿で現れ、琵琶で流泉の秘曲を奏した。たちまち大降雨があり、干魃に苦しんでいた人々は救われた。
「津山学ことはじめ」p230をもとに管理人がまとめた。久米郡誌等にも記載されている。

 この道がかっての往来だと思うが、通ってみようとする場合は、勝手踏切を渡らず平福踏切から逆戻りするようにして欲しい。なお、国道53号線の東側の歩道を歩けば、それほど違った道ではない、と思う。
 また、平福の地蔵堂から北へ向うとき左側(歩道のない側)を歩くと、犬屋さんの前で強烈に吠えられる。右側の歩道を歩いた方が無難。


 再調査のとき、津山藩の煙硝庫を見学に行った。平福踏切を渡って道なりに左に曲がるか、目の前の道を上る。どちらも先で合流する。その後は、ただ道なりに登って行く。途中で右に曲がる道(津山老人福祉センターさら楽方面)があるが曲がらない。下左写真の地点までただ道なりに進む。目安として、管理人は一度道を間違ったり、地元の人に道を尋ねたりしながら、この目印まで30分弱で登った。
 雑木林の中に入る。細い道の何カ所かに右のような案内がある。
煙硝蔵へ 煙硝蔵へ2
 林の中をしばらく行くと、古墳のような穴がある。古墳を硝煙庫として使ったようだ。
 一ヶ所しか目に入らず、もとに戻りかけた時、より大きい一ヶ所を見つけた。右に曲がる左側にあって気づかなかったようだ。こちらの方が大きい。
煙硝蔵 煙硝蔵
 中は石室で、古墳だったということが頷ける。
煙硝蔵

 津山藩は森氏から池田氏に領主が替わっているが、最初に森氏が皿村に煙硝庫を作った(山北村から移転した)。その時移転された煙硝は約二十万斤(102トン)だという。
 また、元治元年(1864)十二月、作業中に一基が爆発した。徴発された村の人夫三人が吹き飛ばされ、爆発音は現在の柵原町まで届いたという。(「津山学ことはじめ」p158-159から管理人が要約)
 再調査の途中に思いついて行ったので、一番大きく津山市指定史跡の1号煙硝蔵を見落としていた。一基爆発を三基のうち一基爆発=残りは二基と誤解していた)。
 ※調査報告2及び「津山学ことはじめ」では「塩硝」と表記されているが、道案内の看板にあわせて「煙硝」とした。国語大辞典にでは[煙硝]は硝石のことで、有煙火薬のことも指すようだ。有煙火薬は合薬ともいう。

平福踏切に戻る。


 平福踏切の斜め前左側(53号線のガードレールの外側)に数体の石仏が鎮座されている。指矢印を刻んだ大師道標もある。

平福の石仏  写真の左奥、舟形の光背の石仏は右に「天保三年」、左側に「六月?四日」とある。右奥の自然石には「大日如来」とある。
 手前右(川側)の石仏は昭和三十六年と比較的新しい。手前左の石柱には「大師道」「東[北]?郡西加茂村[仁]??」とある。[ ]は推測、??は読めないものだが、西加茂村という記述から東北条郡かな、と推測した。そうすると1889年から1900年のあいだのものか。

 歩きながら琵琶が淵とはこの辺だったのか、と思って周囲を見るが、目印になるようなものはない。

 左に大渡橋があり、右に佐良神社がある。
 佐良神社は、この辺のたくさんの神社を合祀したという(調査報告2p33)。境内に和気神社もあった(下右)。合祀したのは大正2年のことのようだ。佐良神社 神社紹介 岡山県神社庁(サイト確認:平成28年9月15日)
佐良神社 佐良神社拝殿
佐良神社本殿 和気神社

 佐良神社の下の鳥居(53号線に面している)の北側に石仏や石碑、一石五輪塔がある。佐良神社がある小山の頂上は津山線によって切り通される前はかなり広く、七宇の僧坊を供えた壇徳寺というお寺があったという(調査報告2p33)。その遺物であろうか。

佐良神社下の石仏 石仏はよく見ると座禅を組んでいるように見える。台座の正面に「法界」側面にもいろいろ書いてあるが「菩提」「月」という文字が推測できる以外不明。背の高い石碑は、「大乗妙典六十六部」という部分のみ推測できた。あとは不明。墓石のような石碑の正面に「真[来]道道元禅宗門」側面には「天保九戊戌年九月」とある。
由来については不明である。この一帯は大きく様変わりしているのだろうと思う。

 佐良神社から北へ2~3分歩くと山側に地蔵尊、題目碑が並び一方(いっぽう)の日限地蔵堂と大師堂がある。もとは平福の地蔵堂とひとつであったものだ。
一方の地蔵堂 一方の地蔵堂
 地蔵堂には地蔵がぎっしり。入りきれないからか外にもあった。
再調査の時、斜め前の食堂でホルモンうどんを食べた。お店の人に伺った話。

 同様のことは調査報告2p33にも記載されているが、平成4年刊行だから、四半世紀前の調査である。今でも同じように言い伝えられているということだ。

 「日限」というのは日を限って願をかける、という意味のようだ。調査報告2p33に次の様な逸話が載っている。
 「昔、備前の武士が仇討の旅に出て、鳥取にかたきが居ると分かり、その道中琵琶ヶ淵の茶店で休憩し、日限地蔵の話を聞いて、一カ月の中にかたきを討つことができるようにと祈願して旅だった処、見事仇討がかなった、という伝説が伝えられている。」
 なお「佐良山地域の歴史を探ろう」p60-61では、仇を討つのは土佐藩士の子供とその母親(つまり藩士の妻)、仇は津山藩か鳥取藩に士官している、期限は二カ月と異なる。茶店の主人が毎日祈りをあげ、二ヶ月後に本懐を遂げた母子は茶店の主人に二両のお礼を置いていった。さらに、茶店の主人は佐良神社の下の鳥居の横に埋葬されたとされ、鳥居横の石碑群との関連も考えさせられる。
 また一方の大師堂には次のような説明が掲示されている。
「むかし、皿川に琵琶が渕という渕があった。ここでは、毎年身投げをする人があとをたたなかった。なんとかして身投げをさせないようにしようと相談し村の人たちはとむらいをしないという立札を立てた。その後は身投げをする人がぱったりといなくなった。喜んだ村の人たちは、そこに延命地蔵をまつった。人々はいつとはなしに日限り地蔵と呼ぶようになった。ところがこの地蔵が部落の境にあったので、結局二つに分けてまつることにした。」。(以下略。ふりがなは省略した)。

山裾のお地蔵さんのあいだに題目碑があった。

一方の題目碑 髭文字の南無妙法蓮華経に続いて「日蓮大菩薩」とある。「奉廻国巡?千?寺仕?」という読める文字も刻んであった。年号は「天保壬辰」(1832)だと思う。メモが荒っぽいので機会があれば再確認したい。

 このあと、30メートルほど国道53号線を北上し、それから東の分岐に入って行く。


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