d.行軍をたどる

1月5日~1月7日 片上宿滞留

 「日置家記写」は片上に3日滞留したとする。自裁之記でも日数は不明だが滞留したと推測できる。

潮光山正覚寺

屋根の大きい正覚寺  門前の常夜燈は元文三年。待機している間、日置帯刀達は情報収集と今後の進軍について協議していたと思われる。兵士達はどうしていたろう。訓練や武器の手入れをしていたか。休み時間に、寺や神社に参ったり、店をひやかしたりはしなかったろうか。
 なお、瀧善三郎は、命じられて一度岡山にもどり、大砲の用意をしている(日置家記写、自裁之記)。
再度往復したのだろう。壮健な青年だったと思われる。

津山への分岐。左側に津山街道と書いた木の標柱が立つ  三石まで進んで待機しておく方が距離が稼げると思うが、片上は港でもあるし、津山への往来の分岐点でもあるので、多様な策が選べるからか。それより、片上で鳥羽伏見の戦いのことを知って、とりあえず進軍を止め、状況把握に努めたのか。

【補記】1月6日早朝、「伏見に於いて朝幕の間に兵端が開かれたので、通行する赤穂、龍野、姫路の動静が計りがたいのでその旨心得て進行すべし」という軍令が来ている。(日置忠覚書 日置帯刀摂州神戸通行之節外国人江発砲之始末書類」(池田家文庫S6-115)

 京都から岡山藩の山田陽三郎(山田市郎左衛門。400石。このとき判行格)達が到着したとある。「日置家記写」では、『山田陽三郎ら』とあり、自裁之記にはそれに加えて、『外交方沢井権次郎([史料草案巻二十]によると備前少将留守居)、村上勇次郎(岡山藩士、330石)、矢吹卯之二(鴨方藩士)の名前が上がっている。

【補足】外交方沢井権次郎が書いた神戸事件について報告書が、池田家文庫中の「兵庫一件始末書上」である。慶応四年二月の日付がある。


【検討】
 日置隊が片上に滞留していたとき、後続の池田伊勢隊はどうしていたのかを検討してみた。1日遅れで出発したから(史料草案巻之二十一)日置隊が滞留したとき、そのまま進めばすぐに追いついたと思われる。
 両隊が合流したという記述はないが、慶応4年1月11日午後、日置隊が神戸で外国兵と衝突した時、池田伊勢の隊は大蔵谷付近におり、衝突の報を聞いて徳川道に進んだとされる。つまりは、半日遅れくらいで続いた可能性が高い。
 日置帯刀と池田伊勢は叔父と甥の関係であり、その後の記録に両者が不仲であったという記述もない。また、山田陽三郎や沢井権次郎が日置隊と池田伊勢隊とに個別に立ち寄るほど余裕のある状況であったとは思えない。おそらく、総督の池田伊勢(あるいは副督の水野主計)を交えた作戦会議が行われたのではないか。
 なお、日置家記写・自裁之記・日置忠履歴などの資料は岡山藩全体の動きを記したものではなく、あくまで日置氏の記録である。

【追記】(平成29年8月30日記)
▼メモを読む

 第二次長州征伐(慶応2年)以降、西日本は局地的には内戦状態だったと思う。
 岡山藩を始め実際の戦闘に参加していない藩も多いが、壊滅的な損害を蒙った藩もある。例えば浜田藩である。長州軍の攻撃により城を焼き退却、領地を占領(「長州預」)され、飛び地である鶴田(現:岡山市北区建部町鶴田)に逃れた。そこで鶴田藩(二万石)として再興した。
 小倉藩も城を焼いた。藩領内での激戦が続く中、将軍家茂が死去し、幕府軍が引き揚げていった。逃げ場のない小倉藩は自ら城を焼き、田川郡香春(現福岡県田川郡香春町)に藩庁を移した。小倉藩は単独で戦闘を続け、奇兵隊と互角に近い戦いをすることもあったが力尽き、慶応三年一月和睦した。時期は異なるが、どちらも家老が割腹している。(浜田藩については「新編物語藩史第九巻」、小倉藩については「九州の諸藩 第二期物語藩史7」を参考にした)。
▲メモはここまで・たたむ


 慶応は内乱の時代だ。この先西国街道(山陽道)が通過する姫路は、藩主酒井忠惇が老中として、徳川慶喜に従って大阪城を退去し、また前藩主酒井忠積と江戸詰藩士を中心とした佐幕派と姫路藩重臣による新政府派とが対立していた。
 岡山藩は西宮警備のために東上している部隊の進軍路が途絶することを恐れ、1月7日に姫路・明石の両藩へ使者を出す。岡山藩庁から派遣されたのか、日置隊が派遣したのかははっきりしないが、自裁之記には家臣2名の名がある。

 岡山藩はこのあと、1月9日に、池田伊勢の家臣布施藤五郎と銃隊40人を手野へ分配した。10日には建部に陣屋を持つ池田図書介(森寺池田氏)と同隼人(隠居した図書介の父。図書介が若年につき)に姫路出張を命じた。姫路討伐の命が朝廷から出されたのが1月11日、池田図書介と隼人以下上下437人雑人100人、馬10騎が岡山を出発したのは12日、13日には三石で軍議をしている。(姫路討伐始末)

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