慶応4年1月7日、姫路藩と明石藩へ使者を出し、翌8日に出発。この時点で鳥羽伏見で幕府方であった姫路藩が城下の通行や宿営を認めるか分っていたか不明である。(赤穂藩及び龍野藩は、使者を藩境まで迎えることで敵意のないことを示している。「日置忠履歴」)。
姫路藩の回答を得ていた可能性もあるし、龍野藩領内を通行しているあいだに姫路藩の返事を受け取り、最終的な対応を決めるつもりだった可能性もある。
鳥羽伏見の戦いの報に接したあと、進行隊形を改め、砲兵一、小銃隊二、士隊一が先行した。(「日置忠覚書 瀧善三郎神戸一件書」「日置帯刀摂州神戸通行之節外国人江発砲之始末書類」。池田家文庫S6-115の内の一つ。)
片上宿から最初は平坦な道であるが次第に緩い登りになる。それほどいかないうちに宝鏡寺がある。門前に寛政11年の題目碑がある。金川から来た領民は日蓮宗が多かったと思われるので、題目碑に反応したかも知れない。
登り坂が続く。その途中に天神社がある。常夜燈に『安政二乙卯歳』と刻んである。
登りの頂上付近に立石川が流れる。橋の手前に題目碑があり、川を渡ったところに地蔵尊が立っている。題目碑は歴史の道調査報告1(以下「調査報告1」)に記載されているが、地蔵尊については書いていない。地元の人に伺った話では「玉芳童子」と刻まれており、その方の墓地に同じ名前の寛政年間の墓碑があるという。ここでは、地蔵尊の写真を載せた。
ゆるやかに登りと下りを繰り返し、新幹線の高架の下をくぐって、その先国道2号線に合流する。ここから長い登りである。
国道の東側大池の端に「片上一里塚跡」の標柱がある。地籍上の位置は50メートル下にあるという(調査報告1p12)。
国道から分かれてさらに登り、途中で藤之棚茶屋を通る。この日日置隊は片上から片嶋まで9里半を進む。さらに国境の峠も越える。
さらに登る。その先一本松の集落。公会堂の前に祠がある。この集落にも茶屋があった(調査報告1p11)。
少し下り池の横を通り、山裾を下る。冬であれば風が強いと思われる。
さらに進むと伊里中の集落を通る。右手に浄光寺がある。岡山藩はここ伊里中と三石に、慶応3年12月晦日と慶応4年1月5日に人を派遣している。1月5日の通達では、日置帯刀の指示に従うように補記している(姫路討伐始末)。
下りきったところにある閑谷学校への道を示す道標は明治のものだから日置隊は見ていない。しかし、伊里川を渡って北に分岐する道の先に閑谷学校があることは知っていただろう。伊里川にはかって土橋がかかっていたという。
伊里川沿いを進んだあと離れて登って行く。その先登って国道2号線に合流してからも登る。その後は持出川に沿って木谷村を過ぎる。国道に合流してからも登り。登り続けた頂上の手前に八木山一里塚があった。現在は標柱があるだけであり、その先を山陽自動車道の高架が横切る。
八木山集落を過ぎ、薬師如来の参道の前を通る。八木山にも茶店があり、緊急の場合は宿場的な機能も果たしたようだ。ここから先は兄坂、弟坂と呼ばれる難所で、頂上の大西峠に向う。(調査報告1p9)。現在は国道2号線となり、難所の面影はないが登りが延々と続く。大砲を引いていけるのかと思う。分解して運んだのではないか、と推測しているが、今まで閲覧できた資料にはそのことは書いていない。
峠を越えて下ったところに二基の地蔵尊がある。清水の地蔵尊で、足元には今でも清水が湧いている。古い一基は日置隊も見たのではないか。そして、ここで喉の渇きをいやしたか。
その先三石第二隧道の手前で国道から離れ三石方面へ下る。
しばらく歩くと光明寺がある。寺前の常夜燈には天保四癸巳三月成就日とある。ただし、山陽線の敷設や火災などにより本堂の移転などがあり(境内の沿革)日置隊が進んだときは今の状態ではなかったと思われる。
宗友川を渡り、金剛川を渡る。かっては土橋がかかっていた。三石の町中に入る。
三石は岡山藩の東の国境の宿である。大西峠を越えて来て、さらに、大きな峠が控える。それに備えて、三石は整備された宿場だった。慶応元年の「松平備前の守領分備前国和気郡三石駅往還筋家別絵図畳数取調書上」によると、本陣、脇本陣、厩が整備され、『家数百三十七軒、内百二十軒御宿二可相成分』とある。(調査報告1p8)。
かどやの看板があるところが本陣の跡である。片上から三里、早朝出発であれば昼食には早いが、休憩したのではないか。
三石明神社には文政十三庚寅歳三月吉日と刻まれた玉垣がある。
その先、JR三石駅の手前に一里塚があったが、今は石碑があるだけである。ここで道は山側に向い、しばらく金剛川に沿って進む。
しばらくして金剛川から離れ、山側を登る。左手にある深谷瀧道の道標は明治時代に建てられたものなので日置隊は目にしていない。
山沿いを登り、山陽線を船坂第一踏切で越えて、一度国道2号線に合流し、しばらくして山側に分かれた道を進む。もちろん慶応4年は国道2号線はない。西国街道(山陽道)は一本道だったはずだ。
2号線よりかなり高い位置を進む。途中で上に分岐する船坂義挙の碑は皇紀二千六百年(昭和15年)に三石青年団によって建設されたもの。この頃勤皇を記念した碑の建立が多い。
西国街道はまっすぐ進み、三軒家と呼ばれる茶屋があったところを過ぎて、船坂峠に到達する。標高180メートルとそれほど高くはないが、難所のひとつであった(調査報告1p6)。
筑紫紀行では「坂道を二十丁計(ばかり)登り行けば三軒茶屋といふあり。また少し登れば船坂峠に至る。備前と播磨の国境の表(しるし)たてり。」とある。
県境碑のある現在の峠はかなり切り下げられている。10メートルほど見上げたところにあるのが元禄16年の国境碑だ。『從是西備前國』とある。往事の往還はあの高さを通っていたことになる。(船坂義挙の碑の方から元禄の国境碑のところに回り込む道がある)
調査報告1によると人力車や馬車の普及と峠の掘削は関係があるようだ。
2号線を越えて、有年峠に向う。明治時代に有年峠越えの道は鯰峠越えの道に変更になり、明治天皇の巡幸もその道を通った。鯰峠は馬で越え、馬路池で馬車に乗り換えたということだ。(有年地区まちづくり推進協議会の看板)。
有年峠の入口。
有年峠の頂上。ここから下り。道は荒れているが、3年前に東から西に越えたときも同じようだった。
ところどころ往還の風情が残っている。
西有年の一里塚は石柱があるだけ。圃場整備で移設された、宝篋印塔は鎌倉末期か南北朝初期のものとされる。日置隊も目にしたと思われる。
大避神社。坂越の大避神社とは別の神社。千種川流域には大避神社という名前の神社が複数ある。
鳥居には享保の文字が見える。
「峠より半里下れば西宇根村、人家二三十軒茶屋あり。村はづれにかち渡りの川あり。三十丁計(ばかり)行けば又川あり。是も歩(かち)より渡る。渡れば、播磨宇根の駅。三ツ石より是まで二里廿八丁、赤穂の御領なり。人家三百計(ばかり)茶屋宿屋多し。」(筑紫紀行下。宇根=有年)
面影はところどころにしか残ってないが、道筋は筑紫紀行が記す通りである。
有年の大庄屋『有年(ありとし)家』の長屋門がある。
有年の八幡神社の鳥居。延享元年に建立。現在境内には立ち入りが出来ない(崩落の危険がある由)ので見ることができないが、千種川を通る高瀬船のための灯台がある。
番所跡、本陣跡があるが、いずれも標柱があるだけである。
慶応4年(明治元年)4月1日づけで、新政府は道中関係の一切を取り扱う宿駅役所を設置(後、駅逓役所)し、道中奉行の権限を移した。
本陣への補助もなくなり、江戸末から衰退していた本陣にとどめを刺した。馬車や人力車など車輪を使って移動する道具や、汽車や蒸気船の登場によって、往還筋もかわっていった。
(幕末から明治にかけての宿駅については赤穂市史p625-627による。表記の一部を改めた。)
▲メモはここで終り・たたむ
「二丁計行けばちくさ川。濶(はば)百間計(ばかり)急流にて水深し、舟にて渡る。」千種川は高瀬船が行き来する道だった。
天保7年の池魚塚と地蔵尊。
有年牟礼の惣墳墓。近くにある地蔵尊は文政十年とある。
若狭野。2号線沿いの道をたんたんと進む。道幅もこの程度であったと思われる。日置隊340人はこんな道を進軍した。厳寒の季節である。
若狭野天満宮。境内の鳥居は享保十七年に奉納された(境内の説明板)。
道はゆっくり下り。2号線を越えて相生へ入る。相生駅の東南にある道標。「是より右 さいこくみち」 「是より左 あ加本城下みち」
「少しづゝの坂かずかず(後ろは繰り返しの“く”の字)あり。すべて備前の地より此あたりまで道よからず。かくて半里行けば久我村、人家三十軒酒屋ありて茶屋なし。出口にあるかちより渡る。」(筑紫紀行下)
この日の移動距離9.5里(約37.3キロ)。平穏な日ではあったが移動距離は長い。加えて大西峠、船坂峠、有年峠を越えた。かなり鍛錬された部隊ではなかったか。
明日は姫路城下を通過する。