d.行軍をたどる

1月9日 片島宿から御着宿

 片島宿から準戦闘態勢になったか。それとも姫路に入る手前鵤宿当りか。鵤宿までは龍野藩領である。
 以下、筑紫紀行下を引用する。
 「半里計(ばかり)行けば正條の宿、下りの人のみに人馬を継(つぐ)なり。人家百軒計(ばかり)茶屋宿屋あり。」

 正條本陣跡。この近くに高札場があった(歴史の道 調査報告集成9 近畿地方の歴史の道9 兵庫1。以下「近畿調査報告9」ページ308)。

正條本陣 綺麗に選定した松の木がある
平成29年5月15日撮影(以下同じ)

 現在は揖保川を揖保川大橋で渡る。筑紫紀行では「正條川とて大川あり。濶(はば)二丁計(ばかり)、舟にて渡る。」とある。写真は現在の揖保川大橋から下流方向を撮ったもの。正條の渡しはこの橋より南200メートルほど下流(近畿調査報告9ページ307)。鉄橋の向こう側。

正條の渡し。今は鉄橋がかかっている。

 峠はなく、平坦な道を進む。三角地に祠があり、常夜燈の文字「肥後屋儀兵衛 嘉永四辛」と読めた。祠を含めて移設したようだ。

龍野の祠。小さな祠の前に常夜燈。

 林田川を渡る。文久三年(1863)頃はもう少し下流の橋渡しだった。渡り賃8文(近畿調査報告9ページ306)。公用で移動する軍隊は渡し賃を払ったのだろうか。特に公用の命令元がそれまでの幕府から朝廷に変わったとき、どうなったのか。どちらにしても資料未見。

林田川が先に見える。

 林田川を渡ってすぐのところにある茶屋垣内地蔵尊の西側に一里塚があった。今は地蔵尊があるだけ。地蔵堂の建立年は分らない。

茶屋垣内地蔵尊は古い辻堂のような建物の中に鎮座されている。

 しばらく行くと斑鳩寺への分岐。一対の常夜燈。左は『寛政六甲寅三月』、右は『天保十三壬寅』のものである。

斑鳩寺常夜燈が両方に並ぶ参道。

斑鳩寺三重塔。永禄八年(1565)建立(境内の説明板)

朱塗りの三重の塔  七八丁行けばいかるがの村、人家十文字に町をなして五六百軒あり。入口に正徳王寺あり。寺内に三重の塔あり。門前に茶屋多し。(筑紫紀行下) 

 正徳王寺は斑鳩寺だと思われるが、確認できていない。

 太田の地蔵堂。祀る子授け延命地蔵尊は行基作と伝わる。「行程記」にも石地蔵の記述があるという(近畿調査報告9ページ305)。西国街道(山陽道)はこの前を東に延びる。

瓦葺きの太田の地蔵堂。両側に常夜燈。ベンチが二つ。

 黒岡神社の鳥居の前を通る。ここまで起伏が少なかったが、ゆるい登り。
坂の途中に桜井の井戸がある。今は竹林の中(白い木柱は標柱。そこから右へ入れば井戸)だけど、慶応4年はどうだったのだろうか。

桜井の井戸に至る上り坂。左はコンクリートブロックの土留め。右は竹林。

 小さな上り下りがあり、北に進んで山田峠を越える。開鑿されて低くなっており、現状は標識がなければ峠だとは思えない。
 大西峠、船坂峠、有年峠を越えてきた日置隊は苦も無く越えたと思う。

 是より山道十丁計(ばかり)登りて二十丁下れば青山村、人家四五十軒茶屋あり。此所より姫路の御城の天守見ゆ。(筑紫紀行下)
 東に向きを変えて姫路城下に近づいていく。緊張は強まったと思われる。確認しなかったが、現在は姫路城は見えないと思う。

左に古い家の残る青山の町並み

 夢前川の手前に2メートルを超える道標がある。

上の方が黒ずんだ大きな石柱。 ・左 備州 九州/金毘羅 宮嶋 往来
・圓光大師 二十五霊場 美作国 ?? 道
・右 因州 伯州 作州 温州 往来
 安政2年(1855)のもの。後ろにも文字がある。日置隊通行の時は、周囲に障害物はなかったか。
 圓光(円光)大師は法然のことであるようだ(岡山県大百科下)。円光大師二十五霊場というものがあり、1番が誕生寺である。(浄土宗公式サイトより:平成29年7月29日確認)。

 村の出口に青山川とて、濶(はば)百間計(ばかり)の川あり。徒にて渡る。(筑紫紀行下)。筑紫紀行でいう『青山川』は、夢前川のことだと思われる(現在の夢前川の手前に青山川という川があるが、幅5メートルほど)。
 現在は、少し下流の夢前橋を渡る。

 alt=

 高さが3メートル近くある堤のそばの常夜燈。『文政十丁亥年八月吉日』とある。この位置がかっての渡し場であった(近畿調査報告9ページ302)。

夢前川近くの常夜燈。笠が黒ずんでいる。

 手野に入ってすぐの旧家。この先公民館のところで手野宿のことを尋ねた人が、『この辺で一番の旧家』と教えてくれたお宅。公民館よりかなり西にもどった。
 「それほど大きな宿場ではなかった。」ということだった。「道中方覚書」や「筑紫紀行」にも出てこないが、美作道との分岐点であり、夢前川の船着場でもあった。寛政2年(1749)の村明細帳によると家数93、人数430とある(兵庫県の地名Ⅱページ528)。

手野の旧家。二階に見える部分は白漆喰の虫籠窓(読みはむしごまど)。

 手前真っ直ぐ伸びる道が西国街道。左に入る細い道は美作方面への道。分岐の道標には『圓光大師 二十五番霊場』『右 第一番みまさか誕生寺道』『明和四年/丁亥十月 左たつの道』とある(読めないところは近畿調査報告9ページ302で補った)。先の旧家の方のお話だと、この川から東、公民館までが手野宿。公民館の前庭に西国街道の石柱が立つ。
 池田伊勢隊の布施藤五郎と銃隊40人が別働隊として、この日手野に泊まった(姫路討伐始末)。

手野の分岐。変形の五叉路。写真では四つの道しか見えない。左側にたつのへ向う道標。

 龍野町を東に進み、南に折れる。姫路城を迂回する形になる。船場川を渡る。「行程記」の時代には、船場川の東に備前門があった(近畿調査報告9ページ301)。

 二十丁計(ばかり)ゆけば姫路、片島より是まで四里二丁 酒井雅楽頭殿十五万石の御城下なり。境内に五重の天守、其外櫓あまたあり。(筑紫紀行下)

 姫路通行ノ節ハ銃卒ニ玉込申付候事(日置忠履歴)

遠くに姫路城が見える。天気が良い日。改装後なので綺麗である。

▼補足・幕末の姫路藩を読む

 姫路藩は元治元年(1864)に勤皇の名の下に活動していた藩士が粛正され、9人が自殺・斬首で命を失い、七人が永牢など総計78人が処罰された(姫路市史第4巻ページ835-843、『姫路藩甲子の獄』)。老中や大老を歴任した藩主酒井忠積による指示とされている。
 幕府方として活動する姫路藩は鳥羽伏見の戦い以後、慶応4年正月11日新政府による討伐対象の一つとなっている(復古記、史料草案)。
 その後紆余曲折を経て、新政府へ恭順するに至るが、その過程で勤皇派による佐幕派の粛正『戊辰の獄』が起きる(第二期物語藩史5ページ479-480)。

▲補足はここで終り・たたむ

 射楯兵主神社(播磨国総社)の鳥居は江戸時代前期のものである(説明板)。
 城下では戦闘隊形をとっていた可能性が高い。大砲も組み立てて引いていたかもしれない。ただ、日置隊の役目は西宮の警固である。途中で戦っては、役目が果たせなくなる。岡山藩首脳もそのことを警戒し、朝廷に伺いを立てていた。(史料草案巻二十)

射楯兵主神社の鳥居。遠くに神社が見える

 姫路市立東光中学校のところに明治二年頃まで外京口門があった。日置隊はその門を進んだと思われる。
 江戸中期享保に旅した菱屋平七は、この先但馬の温泉に向った。平穏な時代だった。

 かって船渡しだった市川を渡る(近畿調査報告9ページ299)。現在は市川橋がかかっている。

もとの石の橋桁が残る市川橋。歩行者用の側道がある。

 寛永二年(1749)の市川洪水による死者を供養する題目碑が山裾に立つ。

階段の上に古い大きな題目碑

 安政七年(1860)の道標。『右 やかじぞう、是より一リ』『右ヒメジ 左神戸』とある(読めないところは近畿調査報告9ページ299を参考にした)。
やかじぞうは『八家地蔵』のことかと思われる。(姫路市のホームページ:確認 平成29年7月29日)。

民家の庭先に小さな遍路道標。

 その先に一里塚があったが今は木製の標柱があるだけだ。

 さらに進み、御着の集落に入る。しばらくして、天川を天川橋で渡る。 日置隊が渡った天川橋は石造りの太鼓橋だった。文政11年(1828)に架橋し、昭和47年に出水で中央部橋脚が崩れて撤去された。現在は、御着城跡に移設されている。下写真がそれである。
 行程記では天川橋の東詰に高札場を描く(近畿調査報告9ページ298)。

保存されている天川橋。まん中が高い太鼓橋。ただし、それほど高くはない。

(この写真のみ平成26年11月18日撮影)

御着宿

 徳正寺の前を通り、御着公会堂の前に出る。ここが、御着本陣があった地点である。本陣の敷地は2,100坪、本屋の部屋数30室あった。
 御着は姫路-加古川の間(あい)の宿であった(公会堂前の説明板)。
 慶長の頃から宿駅として整備されていた(兵庫県の地名Ⅱページ513)。
御着本陣跡地に立つ御着公会堂
 今は説明板以外往時を偲ぶものは残っていない。
 片島から御着まで5里18丁、日置隊の進軍距離としては多くはない。しかし、いつ敵になるかも知れない姫路藩領を通過するのは精神的にはかなり厳しい。


d.行軍をたどる(1月10日 御着から大蔵谷まで)へ
前にもどる