御着は姫路藩領。資料では確認できないが、岡山藩内の藤井や片上などとは異なり、警戒を強めた態勢での宿営だったろう。片上で往還名主について書いた標柱を見たが、宿場の役人たちも緊張したのではないか、と思われる。
【補足】モルチール砲:武器と防具幕末編ページ84では製造国オランダとする。また、幕末・維新の銃砲大全では20ドイム臼砲としてドイムはオランダ語とする。前記資料及び文化遺産オンライン(文化庁が運営する文化遺産のポータルサイト)では、佐賀藩など日本国内でも製造されたとしている。岡山藩での製造については未調査。
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大歳神社の前を通る。玉垣は新しいが、両側一対の常夜燈は『元治元甲子九月』とある。

延命寺の前を進む。街道らしいまっすぐな道が延びる。

弁慶地蔵堂の前を進む。お堂の建立年は分らないが中の地蔵尊は天文22年(1535)のものである(姫路市教育委員会の説明板)。堂前の西国巡礼供養塔は享保の文字が読める。

『備後守児嶋君墓』と刻まれた石碑がある。
六騎塚と呼ばれ、児嶋高徳の父範長主従六人の自害を弔って建立したと伝えられている。裏には「嘉永三庚戌年・・・」以下の建立年がある(姫路市教育委員会の説明板より)。 高砂市に入り、JR曽根駅の近くを過ぎると跨線橋の下に道標が集めてある。右端のものは明和2年、『圓光大師二十五霊場』と『右高砂十輪寺道』と刻む(近畿調査報告9、ページ296)。
 『左おう久わん』と刻まれているものが往還道に立っていたか。

少し先の高台に五輪塔と石仏。五輪塔は児嶋範長の墓とも伝えられる。暦応5年(1342)のもの、石仏は永正4年(1507)のもの。阿弥陀仏である。(高砂市教育委員会の説明碑)。

まっすぐな往還道が東に延びる。薬師堂や大師堂がある。下の薬師堂は入口に三体の地蔵尊が並ぶ。中には四国西国秩父坂東供養塔がある。四国以下はそれぞれ巡礼地である。近畿調査報告9ページ296によれば、文化13年(1816)建立である。

阿弥陀歩道橋から東を見る。国道は北西から南東に進むが、西国街道は東にほぼ真っ直ぐ進む。この先の安楽寺付近に本陣があった(近畿調査報告9ページ295)そうだが、宿場としてどれくらいの機能があったかは不明。

橋爪の集落に入ると、小高いところに五輪塔がある。この辺では大きな五輪塔をいくつも見ることができた。

延宝八年(1680)の鳥居がある。
扁額の字は読めないが、生石神社の鳥居であるという(近畿調査報告9ページ294)。JR山陽線の踏切を渡り、宝殿駅に近づくと右側に『左石寶殿』『コレヨリ十三丁』と刻まれた道標がある。写真中央の道を進めば石の宝殿に行く。


商店街に入ってすぐ左側の人形の店陣屋のところが陣屋(山脇邸)であった。姫路藩の加古川役所として建てられ、参勤交代の大名の応接などに使われたという(加古川市教育委員会の説明板)。ここはまだ姫路藩領である。役人と日置隊はどのような対応をしたのだろうか。

 胴切れ地蔵尊の前を通り、龍泉寺の前を通る。
 別府(べふ)川を渡る。往還はずっと南東に向って進む。『おりいの清水』と書いた加古川市教育委員会の説明板がある。かって、瀬戸内海を行く船が水を汲んだそうだ。
 日置隊も水を汲んだかも知れない。
宝篋印塔がある。泉式部の墓と伝えられる(近畿調査報告9ページ291)

野口神社の前を通る。近世は山王五社と呼ばれていた(同前)。入口の常夜燈は『天保十四癸卯年孟冬吉辰』と刻んである。写真には写っていないが、狛犬は寛政十戊午年のものである。東南角に立つ日岡神社丁石の年代は分らない。

その先は高層住宅や商業施設ができて西国街道は途絶しているが、商業施設から出て来たところに野口の五輪塔がある。高さは2.25メートル、室町時代初期のものといわれる(同前)。

南東に進む。山陽線を越えた先にある平岡会館のところに一里塚があったというが(同前)、今は何もない。
喜瀬川を渡る。しばらく行くと清水新田の宝篋印塔がある。
 かっては、30メートルくらい北にあったようだ。移設のとき分離した石組み部分の上に石塔本体が乗ると5メートルくらいはありそうだ。さらに南東に進むと、「是よ里 者り満名所[道]」という道標がある。観光案内のような道標である。日置隊には無用だったか。
清水神社の前を通る。明和と宝暦の常夜燈がある。その先、高台の墓地に貞和二年(1376)年の五輪塔がある(兵庫県教育委員会と明石市教育委員会の説明板)。

 南東に進む。大山道道標など建立年の分らない道標といくつか出会う。日置隊は西国街道をまっすぐ進んだと思われる。道標に頼ることはなかったのではないか。
 十輪寺の角で南下する。西新町である。海に近づき、東南に向きを替えて、明石川を渡る。かっては徒渡りだった。現在は大観橋がかかっている。南を見れば海が見える。

渡ったところに明石城下の西の入口、姫路口門があった。今はなにもないが樽屋町の町名は残っている。明石駅の南側にビルが並び、この辺からは明石城は見えない。少し距離があるが、幕末は見えた可能性がある。(下の写真は明石公園内からのもの。仮に西国街道から見えても、もっと遠景である)

東へ進み、明石駅前交差点から南進して来た道と交差する。その向かい側に『みぎひめぢ道』『ひだり大坂道』と刻んだ道標がある。年代は不明。

鍵型に進んで、東に進む。桜町東交差点から南下して来た道との交差点の斜め前に、柿本神社への丁石の道標があるが、これは明治2年のものだ。
さらに東に進み、大蔵交番(子午線交番)のある交差点を左に曲るところに大きな道標。
『右 加古川 ひめぢ道』『ひだり大坂道』と刻んである。『施主人丸町 井上某』という表記が何となく何となく新しいが、裏面に慶応元年乙丑年五月とあった。明石城方面から来た人に対しての案内か。その手前の『日本標準時子午線通過地の標柱』は勿論慶応4年にはなかった。
 明石城下の様子は「近世明石における城下町プラン」から推定。(石田曜著、歴史地理学第252号(2010)ページ43-55)
大蔵谷宿の近くに平忠度の忠度塚がある。幕末の岡山の武士が平家の武将をどう評価したかわからないが、心に留めた人もいたかも知れない。

寛延三年(1750)に姫路藩酒井雅楽頭が参勤交代の途中に泊まったとき、昼食をとったあと、本陣に45人が泊り、家来は58軒に分宿した。日置帯刀が本陣に泊まることができたかどうか不明だが、家来達は周囲の宿屋に分宿したのだろう(同前)。
 元治元年(1864)の第一回長州征伐のとき、大蔵谷宿には幕府方の征討軍が連日宿泊している(同前)。
 元治元年10月26日から11月20日までのあいだに大蔵谷に泊休した長州征伐軍のうち100人以上の部隊を抜粋すれば次のようになる。
 現在、稲爪神社や攘夷監察使四条隆謌が泊まった大蔵院は残っている。稲爪神社の楼門は、享保2年(同社のホームページ:平成29年8月15日確認)建築。大蔵院には赤松祐尚夫妻の墓があるとの明石市教育委員会の説明板があるが、寺院の建物の建築年代は不明。
 
本陣や旅館の面影はまったく残っていない。本陣の跡には大蔵会館が建っている。
