d.行軍をたどる

1月10日 御着宿から大蔵谷宿

 御着は姫路藩領。資料では確認できないが、岡山藩内の藤井や片上などとは異なり、警戒を強めた態勢での宿営だったろう。片上で往還名主について書いた標柱を見たが、宿場の役人たちも緊張したのではないか、と思われる。

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 第一次、第二次の長州征伐の出兵で多数の武装集団が西下し、北上した。彼らも野宿ではなく、宿場に泊まったようだ。藤井宿には、尾張大納言の一行1700名が泊まったという(山陽路四十八次ページ153)。
 「筑紫紀行」を始めとした江戸時代の紀行文を読むと、人馬継立・宿場・茶屋、それに海路を組み合わせた往還の仕組みは、地元の負担など種々の問題をはらみながらも一定の完成の域に達していたことが分る。
 戊辰戦争の戦場ではともかく、慶応4年1月上旬の西国街道周辺では、それらはまだ機能していたのではないか(本サイト、1月8日 片上宿 --片島 の【つぶやき】参照)。
 また、武器についても、佐幕派の藩の一部は鎧兜に槍といった装備だったかも知れないし、正規の武士が銃を足軽のものとして格下に見たのは確かであろう。しかし、かなりの藩で銃隊の組織化や西洋砲術の導入が進行していたのも事実である。
 岡山藩でも、文久三年(1863)頃から西洋式・旧式の大砲の製造を始め、藩内六カ所に砲台を設けている(岡山県史第9巻p65)。
 日置氏の所領金川西町道鏡にイギリス製の大砲(モルチール砲)が設置されたのは慶応2年(1866)である(御津町史年表ページ1029)。イギリス製かどうかはともかくモルチール砲は洋式臼砲である。詳細は不明だが、日置家にも洋式砲術家がいた可能性がある。
 また、日置隊の進軍は戦闘を覚悟していたかも知れないが本質的に警備の為の東上である。軍記物的なイメージを投影しすぎると本当のところが見えてこない可能性がある。

【補足】モルチール砲:武器と防具幕末編ページ84では製造国オランダとする。また、幕末・維新の銃砲大全では20ドイム臼砲としてドイムはオランダ語とする。前記資料及び文化遺産オンライン(文化庁が運営する文化遺産のポータルサイト)では、佐賀藩など日本国内でも製造されたとしている。岡山藩での製造については未調査。
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 大歳神社の前を通る。玉垣は新しいが、両側一対の常夜燈は『元治元甲子九月』とある。

玉垣と常夜燈。その先に鳥居が見えて、さらにその奥に神社の建物
(平成29年6月14日撮影。以下同じ)

 延命寺の前を進む。街道らしいまっすぐな道が延びる。

右側に古い家がある御着の道筋

 弁慶地蔵堂の前を進む。お堂の建立年は分らないが中の地蔵尊は天文22年(1535)のものである(姫路市教育委員会の説明板)。堂前の西国巡礼供養塔は享保の文字が読める。

四角の辻堂風の祠。瓦屋根。右側に説明板。

『備後守児嶋君墓』と刻まれた石碑がある。

大きな石碑に『備後守児嶋君墓(読みはびんとのかみこじまくんはか』と刻んである。六騎塚と呼ばれ、児嶋高徳の父範長主従六人の自害を弔って建立したと伝えられている。裏には「嘉永三庚戌年・・・」以下の建立年がある(姫路市教育委員会の説明板より)。
 嘉永三年(1850)というと、幕末の勤皇思想の広がりと関連があるかも知れないと思うが、建立者の佐和田清左衛門がどういう人物か不明なので、建立目的も分らない。
 勤皇思想と関連がある碑であれば、尊皇攘夷の活動をしていた日置帯刀はそのことを知っていたのではないだろうか。
*補足:佐和田静左右衛門は、六騎塚の生き残り和田四郎範家の子孫だという。(兵庫の街道いまむかしページ168)

 高砂市に入り、JR曽根駅の近くを過ぎると跨線橋の下に道標が集めてある。右端のものは明和2年、『圓光大師二十五霊場』と『右高砂十輪寺道』と刻む(近畿調査報告9、ページ296)。
 『左おう久わん』と刻まれているものが往還道に立っていたか。

薄暗い跨線橋の下に四つの道標が集められている。
(平成26年11月18日撮影)

 少し先の高台に五輪塔と石仏。五輪塔は児嶋範長の墓とも伝えられる。暦応5年(1342)のもの、石仏は永正4年(1507)のもの。阿弥陀仏である。(高砂市教育委員会の説明碑)。

左側に大きな五輪塔、右側に板碑に刻んだ石仏
(平成29年6月20日撮影。以下同じ。一部平成26年に撮影したものを使用)

 まっすぐな往還道が東に延びる。薬師堂や大師堂がある。下の薬師堂は入口に三体の地蔵尊が並ぶ。中には四国西国秩父坂東供養塔がある。四国以下はそれぞれ巡礼地である。近畿調査報告9ページ296によれば、文化13年(1816)建立である。

格子の扉の門の前に三体のセク物が並ぶ。褪せた赤色のよだれかけをされている。花が供えてある。

 阿弥陀歩道橋から東を見る。国道は北西から南東に進むが、西国街道は東にほぼ真っ直ぐ進む。この先の安楽寺付近に本陣があった(近畿調査報告9ページ295)そうだが、宿場としてどれくらいの機能があったかは不明。

阿弥陀歩道橋から見た風景。右側は片側一車線の道。西国街道は左に伸びるやや細い道。

 橋爪の集落に入ると、小高いところに五輪塔がある。この辺では大きな五輪塔をいくつも見ることができた。

どっしりした橋爪五輪塔

 延宝八年(1680)の鳥居がある。

生石神社の鳥居。周りは住宅街。左手前に常夜燈がある。扁額の字は読めないが、生石神社の鳥居であるという(近畿調査報告9ページ294)。
 生石神社は石の宝殿をご神体とする神社だが、地図で見るとこの鳥居からは直線距離で1.2キロほど南西にある。今は目の前に住宅街があって何も見えないが、日置隊が通過した頃は見えたかも知れない。
 横に山片蟠桃が結婚記念に寄付したという安永二年(1773)の銘がある常夜燈がある(横の説明碑)。

 JR山陽線の踏切を渡り、宝殿駅に近づくと右側に『左石寶殿』『コレヨリ十三丁』と刻まれた道標がある。写真中央の道を進めば石の宝殿に行く。

少し左にかたむいた道標。左側には道が延びる

 そのまま南東に進み、加古川の西岸に出る。加古川は船渡しであった(近畿調査報告9、ページ293)。
国土交通省が建てたかこがわの看板。橋の向こうにビルがちらほら。

 商店街に入ってすぐ左側の人形の店陣屋のところが陣屋(山脇邸)であった。姫路藩の加古川役所として建てられ、参勤交代の大名の応接などに使われたという(加古川市教育委員会の説明板)。ここはまだ姫路藩領である。役人と日置隊はどのような対応をしたのだろうか。

人形の店という看板の隣りに陣屋と書いた看板がある。外は別に見えるが、中はつながった人形店。

 胴切れ地蔵尊の前を通り、龍泉寺の前を通る。
 別府(べふ)川を渡る。往還はずっと南東に向って進む。『おりいの清水』と書いた加古川市教育委員会の説明板がある。かって、瀬戸内海を行く船が水を汲んだそうだ。
 日置隊も水を汲んだかも知れない。

 宝篋印塔がある。泉式部の墓と伝えられる(近畿調査報告9ページ291)

玉垣に囲まれた古い宝篋印塔

 野口神社の前を通る。近世は山王五社と呼ばれていた(同前)。入口の常夜燈は『天保十四癸卯年孟冬吉辰』と刻んである。写真には写っていないが、狛犬は寛政十戊午年のものである。東南角に立つ日岡神社丁石の年代は分らない。

しめ柱の左側に常夜燈、その奥に瓦葺きの門

 その先は高層住宅や商業施設ができて西国街道は途絶しているが、商業施設から出て来たところに野口の五輪塔がある。高さは2.25メートル、室町時代初期のものといわれる(同前)。

どっしりと貫禄のある野口の五輪塔。横に小さな五輪塔が横に複数ある。その横に説明板。これも少し古びている

 南東に進む。山陽線を越えた先にある平岡会館のところに一里塚があったというが(同前)、今は何もない。

 喜瀬川を渡る。しばらく行くと清水新田の宝篋印塔がある。

背が高く、すっきりした清水新田宝篋印塔 かっては、30メートルくらい北にあったようだ。移設のとき分離した石組み部分の上に石塔本体が乗ると5メートルくらいはありそうだ。
 周囲がいまとおなじような田であれば、日置隊も見えたはずだ。

 さらに南東に進むと、「是よ里 者り満名所[道]」という道標がある。観光案内のような道標である。日置隊には無用だったか。

 清水神社の前を通る。明和と宝暦の常夜燈がある。その先、高台の墓地に貞和二年(1376)年の五輪塔がある(兵庫県教育委員会と明石市教育委員会の説明板)。

階段の上、墓地の手前にある五輪塔

(これは平成26年11月18日撮影)

 南東に進む。大山道道標など建立年の分らない道標といくつか出会う。日置隊は西国街道をまっすぐ進んだと思われる。道標に頼ることはなかったのではないか。
 十輪寺の角で南下する。西新町である。海に近づき、東南に向きを替えて、明石川を渡る。かっては徒渡りだった。現在は大観橋がかかっている。南を見れば海が見える。

大観橋から見える海。護岸の前に白波が立ってる。

 渡ったところに明石城下の西の入口、姫路口門があった。今はなにもないが樽屋町の町名は残っている。明石駅の南側にビルが並び、この辺からは明石城は見えない。少し距離があるが、幕末は見えた可能性がある。(下の写真は明石公園内からのもの。仮に西国街道から見えても、もっと遠景である)

白い壁、左右に白い壁黒い瓦の櫓が見える。

 東に進む。この辺の北には武家屋敷が並んでいたと思われる。一度北上し、南に光明寺を見た先に京口門があった。慶応4年当時も海側には町屋があったようだ。それでも、冬の海風は冷たかったろう。

 東へ進み、明石駅前交差点から南進して来た道と交差する。その向かい側に『みぎひめぢ道』『ひだり大坂道』と刻んだ道標がある。年代は不明。

歩道にある道標。『みぎひめぢ道』という字がくっきり見える。

 鍵型に進んで、東に進む。桜町東交差点から南下して来た道との交差点の斜め前に、柿本神社への丁石の道標があるが、これは明治2年のものだ。

 さらに東に進み、大蔵交番(子午線交番)のある交差点を左に曲るところに大きな道標。

建物の横の道標。『右 加古川 ひめぢ道』とくっkり見える。 『右 加古川 ひめぢ道』『ひだり大坂道』と刻んである。『施主人丸町 井上某』という表記が何となく何となく新しいが、裏面に慶応元年乙丑年五月とあった。明石城方面から来た人に対しての案内か。その手前の『日本標準時子午線通過地の標柱』は勿論慶応4年にはなかった。

 明石城下の様子は「近世明石における城下町プラン」から推定。(石田曜著、歴史地理学第252号(2010)ページ43-55)

 大蔵谷宿の近くに平忠度の忠度塚がある。幕末の岡山の武士が平家の武将をどう評価したかわからないが、心に留めた人もいたかも知れない。

大きな石の囲いのなかの忠度塚。花が供えてある。

大蔵谷宿

 宝永元年(1704)には屋敷294軒、人口1781人、本陣・旅籠61軒、馬46匹、駕仲間80人の記録があり、その繁栄は明治時代末まで続いた。(大蔵会館前の説明板による)
 参勤交代の諸大名のほか勘定奉行川路聖謨(嘉永6年:1853)、伊能忠敬(文久2年:1862)、攘夷監察使四条隆謌(文久3年:1863)なども泊まった(『明石市史』上ページ197-205)。

 寛延三年(1750)に姫路藩酒井雅楽頭が参勤交代の途中に泊まったとき、昼食をとったあと、本陣に45人が泊り、家来は58軒に分宿した。日置帯刀が本陣に泊まることができたかどうか不明だが、家来達は周囲の宿屋に分宿したのだろう(同前)。

 元治元年(1864)の第一回長州征伐のとき、大蔵谷宿には幕府方の征討軍が連日宿泊している(同前)。
 元治元年10月26日から11月20日までのあいだに大蔵谷に泊休した長州征伐軍のうち100人以上の部隊を抜粋すれば次のようになる。

  • 10月26日 越前丸岡藩 行先:雲州安芸 総人員:321人 本陣宿泊:45人
  • 10月27日 尾張藩 行先:不明 総人員:800人 本陣宿泊:不明
  • 11月 5日 稲葉美濃守 行先:芸州 総人員:2,200人 本陣宿泊:不明
  • 11月15日 紀伊藩大番頭 行先:不明 総人員:1,571人 本陣宿泊:不明
(『明石市史』上ページ205 表7を参考、備考は除いている)
 これをみても、宿駅の対応力が分る。

 現在、稲爪神社や攘夷監察使四条隆謌が泊まった大蔵院は残っている。稲爪神社の楼門は、享保2年(同社のホームページ:平成29年8月15日確認)建築。大蔵院には赤松祐尚夫妻の墓があるとの明石市教育委員会の説明板があるが、寺院の建物の建築年代は不明。
稲爪神社の瓦葺きの山門。両側に常夜燈。 二本の石柱の向こうに大蔵院の山門が見える。

本陣や旅館の面影はまったく残っていない。本陣の跡には大蔵会館が建っている。

大蔵谷本陣のあとに立っている大蔵会館の入口。玄関口の屋根は瓦葺き、左側に壁時計。右に説明板。


d.行軍をたどる(1月11日 大蔵谷から兵庫湊口惣門まで)
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