慶応四年一月四日午後六時、日置隊出発。出発した場所は城下としか分らないが、日置家家臣団を核とする部隊であれば、同屋敷からの出発の可能性が高い。
日置氏の上屋敷のあった外下馬門西からであれば南へ一キロ歩けば京橋の西、下屋敷のあった国清寺前からであれば、北へ数百メートル歩けば小橋の東で西国街道(山陽道)へ出る。旧暦一月四日頃であれば、出発時には日が沈んでいる。冬の夜行軍になる。
岡山の入口森下門を過ぎ、百間川を渡る。現在は改修して広くなっている。
高屋の用水横の常夜燈と小さな祠。石碑には「美豆波能売命」と刻まれている。常夜燈は嘉永。日置隊の進む道を照らしたかも知れない。
西国街道(山陽道)を岡山から東へ進むときの最初の宿駅。
「筑紫紀行」(吉田重房(菱屋平七)の著わした紀行文、文化三年刊。ここでは日本紀行文集第一巻より引用)では『藤井宿 岡山より是まで二里五丁 人家五百軒計(ばかり)宿屋茶屋多し』と記す。
寛永頃から整備され、拡張された。宿屋は二十軒以上あり、東西二軒の本陣が設けられた。幕末期は伝馬十疋。元治元年(1864)には長州征伐におもむく尾張大納言の一行1700人を泊めた。(岡山県歴史の道調査報告第一集 山陽道、山陽路四十八次、吉備と山陽道を参考にまとめた)
岡山城下から藤井駅まで、道中方覚書では二里、吉備温故秘録巻之十六(官道上)では二里四町四十間。一里3.93メートルで計算すると、8.4キロになる。
今回、京橋西詰から藤井宿(総社八幡宮)まで歩いて、yahoo地図で測定すると約9キロだった。吉備温故秘録が岡山の起点とする岡山栄町(千阿弥橋)からの距離だと、これに400メートル弱加算しなければならないが、そうすると1キロ前後の誤差が出る。正確な距離を測ることが今回の歩行の目的でないので、あまりこだわらないことにした。この先の経路でも同じ程度の誤差は生じていると思う。
行程全体の高低差はほとんどない。遮蔽物はあまりなく、風は当たりそうだ。
【藤井宿の入口:新往来横に立つ素戔鳴神社】
闇を照らす天保2年建立の常夜燈。日置隊は夜これを見たと思う。手前の鳥居は慶応四年四月の建立。日置隊が宿泊したときはなかった。
常夜燈の右を北に続く道は、新往還である。神社の東に[藤井北町町内会・藤井里山の会]が設置した看板がある。[平成29年3月4日確認]
総社八幡宮。手前の常夜燈は文化九年と刻まれている。この光に照らされて、日置隊はそれぞれの宿に分散したのかも知れない。
沼の踏切を渡り、池の横を進み、沼の交差点手前を左に入り、少し行くと旧国道2号線を斜めに渡る。山裾を進む。沼の歩道橋から東向きに撮った写真。左が旧国道2号線、右が西国街道(山陽道)。この程度の広さの道を進軍した。道は山側に廻りこむ。
倉安川と出会う。倉安川は江戸時代の運河であり農業用水路でもあった。日置家下屋敷があった国清寺の南に旭川への出口がある。和田八幡宮参道の常夜燈は天保三年の建立である。日置隊も倉安川沿いを進んだことだろう。風を遮るものもない。
御休小学校西側の福岡神社の鳥居と常夜燈。日置隊が通ったときは、春日大明神ではなかったか。鳥居は新しいが、常夜燈は文政七年。
吉井川の西岸の一日市。文政四年の常夜燈。吉井川は船渡しで、川止めの時は一日市で待機した。本陣、旅館、一里塚もあった。
筑紫紀行では『是より堤に上りて三四丁行けばひと市村。人家四五十軒。茶屋宿屋もあれど間(あひ)の宿なり。』と記す。
先駆隊に続いて日置隊、このあと池田伊勢の700名が来る。山陽道を含めて各宿場の対応力は大きいものがある。ただし、地元の負担は大きかったと思われる。
一日市一里塚跡から見る吉井川。東岸の船待ち宿は八日市村(吉備と山陽道p15-17)。下流には戦国時代金川に拠点を置いた松田軍(山名氏が支援)と赤松・浦上軍が戦った福岡合戦の地がある。軍記物が好きな男がおれば、川渡りのとき、そんな話も出たかも知れない。長船を含む一帯はかっての日本刀の産地でもあった。
元文二年の熊山道標(坂根)
森の本橋の常夜燈
香登に入ると石長姫神社の前を通る。常夜燈は嘉永二年。
香登一里塚跡と大内神社。一里塚は石垣しか残っていないが、日置隊が進んだときは、榎木があったはずだ。
寛文の頃津田永忠を奉行として改修された大ヶ池。平成にも改修された。日置隊が進んだ頃、大ヶ池の周囲は水田だったのだろうか。
江戸時代から焼き物の町だった伊部を通る。「筑紫紀行」では『伊辺焼という陶器を作り売家多し』と記す。履掛天神宮の背後を通って、天津神社の前を通る。安永八年の常夜燈がある。
伊部から葛坂峠を越えて、片上に入る。現在は片上隧道で峠を抜ける(それでも上り坂の頂点にトンネルがある)。かっての西国街道(山陽道)は、右側から葛坂の峠を越えていた。今はかなり切り下げられているが、かってはかなり急な登りであったと思われる。野戦砲六門(四斤山砲であれば砲身の重さ一門約100キロ、全備重量218キロ。武具と防具 幕末編p90)は運ぶのが大変だっただろう。四斤山砲は分解して馬で運べたそうだが(同前)。
峠を下りてきたところに、千部塔がある。
片上宿は、備前藩の御茶屋があり、定伝馬はないが駅馬15疋、本陣・脇本陣があった。瀬戸内海の有力な港でもあり、岡山藩の米蔵も設置され、年貢米を大阪や江戸に運んだ。(吉備と山陽道p11-12)
筑紫紀行では『片上宿 藤井より是まで四里二丁 人家三百軒計(ばかり)茶屋宿屋多し』と記す。
宿の入口辺に小さな祠がある。左側の常夜燈には文化十三年の銘がある。
本陣跡の碑。他にも脇本陣跡、前海屋跡など簡単な説明があるが往事のものはほとんど何も残っていない。いくつかの資料に本陣跡は片上鉄道、片上駅構内の線路の下という記述があるが、今はその片上鉄道もない。
吉備温故秘録では、「在番士一人あり」とある(巻之七 村落五和気郡、西片上村)。真光寺以下4つの寺院の記載がある。
津山往来との分岐点を過ぎたところに、備前焼きの狛犬が向かいあった宇佐八幡宮がある。正保3年現在地に遷座された(岡山県神社庁のホームページ。サイト確認:平成29年3月24日)。狛犬には文政九年の刻銘がある。