慶応四年神戸事件を考える

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Ⅲ.衝突(一月十一日)

1.日置隊の発砲

 日置隊の発砲については、外国側の「故なく発砲」また「外国人の命を狙った発砲」という主張に基づいて最終的な処断がなされた。
 しかし、薩長とは立ち位置が異なっていたが尊王を藩是として活動をしていた岡山藩が朝廷の命令で進軍する途上で理由もなく暴発するだろうか。
 日本側だけでなく、外国側の資料でも、最初に西国街道上で外国人(フランス兵)によって引き起こされた軋轢があり、それが日置隊の発砲を引き起こしたことが記録されている。両者の資料を比較しながら、何が起きたかを確認したい。(※1

(1)西国街道沿いの紛争から銃撃へ

 岡山藩は居留地近辺を通過することを踏まえて、出撃前に「夷人への対応」を尋ねる(「外夷へ対候処置振、如何相心得居可申候哉」。『史料草案』巻二十、十二月二十九日)など外国人(夷人)と接触することはある程度考えていたと思われる。しかし、武装して進軍する武士の隊列を、強引に横切る乱暴者が出てくるなどということは予想できなかっただったろう。
 日本側、外国側それぞれ複数の資料があるが本サイトでは日本側の資料としては日置家中小姓・山崎喜兵衛(五俵二人扶持)の報告を同物頭・高須七兵衛(百六十石)が書き留めた「高須七兵衛聞書」を、外国側の資料としては日置隊の進軍を妨害したキャリエールの近くにいたマルタンのフランス公使ロッシュ公使宛の供述書「一八六八年二月六日 ロッシュ公使宛マルタン供述書」をそれぞれ基本として衝突の原因を探してみたい。

①進軍
 神戸居留地の北を通過する西国街道を日置隊は警戒しながら進んだ。隊列の先頭は、物頭・丹羽勘衛門率いる小銃隊であったと思われる。それに続いて家老・津田孫兵衛の配下の士組、さらに続いて、瀧源六郎(横目格・百石)率いる大砲方が続いていた。

【日置隊隊列の先頭部分(推定図)】
日置隊の編成。先頭に銃隊、二番手に家老組、続いて大砲方
▽隊列について補足

 神戸での隊列については、「高須七兵衛聞書」による。「瀧善三郎自裁之記」では、鉄砲隊は他に物頭・角田与左衛門、同・御牧勘兵衛それぞれが率いる二小隊、計三小隊が配置されていたとする。「高須七兵衛聞書」は先頭隊あるいは全体の隊長のみを記した可能性もある。
 また順番は不明だが、他の兵士(徒組、旗鼓旗本、日置帯刀側近隊と騎乗の帯刀、後詰め、輜重隊、隊卒)が続いたと思われる。なお、日置帯刀自身はかなり後ろに居たと「忠尚申状」などで報告している。

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「高須七兵衛聞書」「瀧善三郎自裁之記」を参照して作成した。

②フランス兵の行列への乱入
 日置隊の先頭部分が居留地の北側に差し掛かった時、二人の外国人が大砲方・瀧源六郎(※2)の前を左から右(家側から居留地側へ)に横切ろうとした。
 源六郎が手真似で(横切らずに)回るように伝えた。通訳もいたので、二人は止まった。

▽外国側の記述との関係―1

 両者の記述はまったく同じではないが、行列に沿って移動した人間が二人いたこと、そして彼らが立ち止まったことなどは重なる。
 大砲方の先頭を行く瀧源六郎から見たら横切ろうとしている外国人の二人連れがいたので、手真似で「回れ」と指示したら、「相控」えた(止まった)、しかしマルタンから見れば、隊列に沿って歩いていて、よく見るために止まった、という状況ではないか、と推測した。ただし、通訳の有無は合致しない。彼ら一般の兵士に通訳がつくことは考えにくいが、この点を判断する資料は確認できていない。

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 そのあとに、一人の外国人が、右側から御家老組の影山万吉(中小姓。十八俵二人扶持)の前を横切ろうとしたので、槍で押しのけたところ、紛れて、瀧善三郎の前に行った。
 善三郎も押しのけたところ、尋常でなく怒り、大声をあげて、強引に押し通った。

▽外国側の記述との関係―2

 隊列を強引に横切った外国人は、フランス兵カイエ(Callier。英文資料ではキャリエール。英文を原文とする資料を多く参照したので以降、特に断らない限りキャリエールとする)である。「忠尚申状」によれば「尋常でなく怒りを表し(「殊之他憤怒之)」とある。「聞書」では、この時外国人は、「向こうへ行く」と言って、杖を振り回して通った。
 マルタン供述書は藩兵が「えらい形相で詰めよってきた。」と書く。フランス公使付の守備兵は、三日前の一月八日大坂の領事館で日本人の投石によって二人が負傷し、銃撃して日本人七~八人を倒している。日本人に好意を持っていない。
 それは岡山藩兵のみならず多くの日本人にとっても同じことである。少し前まで攘夷は天皇も主張した国是であり、西洋人を見るのは初めてだったろう。分からないものは不気味である。お互いに、相手の言動に悪意を強く感じるのは仕方がない。
 なお、マルタンは、キャリエールが行列を突っ切ったところ、および彼が瀧善三郎に槍で突かれたところを直接見ていない。また、キャリエールは煙草を買って店から出て、(おそらく一度浜辺側に渡って)マルタン達に合流するために横切ったとする。

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③槍でフランス兵を排除、別の外国人が銃で威嚇、そして日置隊の発砲
 (外国人が押し通ったと同時に)左手の家から一人、短銃を持って出てきて(こちらを)狙って来たので、仕方なく槍で突いた(だれを突いたかは書いていない)。
 外国人はみな家のなかに逃げ込んだ。追いかけたところ裏口から抜け出て、隊列の先を回って、浜の方へ逃げた。隊列の先頭の銃隊がこの状況を見て射撃を開始した。
(「聞書」と「忠尚申状」との記述は、この部分が少し異なる。どちらが正確か詰め切れなかったので、岡山藩の公式見解である「忠尚申状」に沿って記した。)
「忠尚申状」の全文を読む三角マーク

▽聞き書きの抜粋(意訳)を読む。

〇【聞書】
 瀧は「悪い奴だ」と言って、その外国人の横腹を槍で突いた。突かれた外国人は左の建物に逃げ込んだ。組士・坂口吉之介(給人、八十石)が槍を持って追いかけた。外国人は裏伝いに隣の家に逃げこんで、行方が分からなくなった。
 その時、神戸村東関門の向かいの建物から、数人の外国人が姿を見せて、二挺絡みの銃を角田与左衛門組(小銃隊)の足軽に向けた。
 足軽は、片膝をついて(折敷)構えたところ、相手が撃ちそうな気配を見せたので、命令を待たずに発砲した。

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〇衝突現場の模式図(※3)によって、位置的状況を推定する。

衝突現場模式図1
〇日置隊士(瀧善三郎)が槍で突いた場所は湊川と西国街道が北(生田神社方向)に曲がるところとの真ん中あたりである。フランス兵が逃げ込み、銃を構えたオランダ領事館前の建物より、西側に思える。推測に過ぎないが、日置隊の進軍に連れて、揉め事も移動しながら起きたと思われる。

〇発砲のタイミング・方角は「忠尚申状」と「マルタン供述書」はかなり重なる。
 具体的には、「マルタン供述書」では、隊列を横切ったキャリエールやピストルを構えたマルタンらは、銃撃を受けていない。発砲は「居留地の角」で起き、「居留地の方に向かって」いた。

④弾道について
 「聞書」の記述のように建物の前でピストルを構えた外国人に向けて発射したのであれば弾丸は西国街道の北側の建物に向かう可能性が高い。仮に生田神社方面に進んでいた前衛隊が振り返って撃てば、浜側に向かう可能性はある。
 「忠尚申状」のように隊列の前を回って浜側に逃げた者に向けて発射したのであれば弾丸は浜側に向かい、運上所までも容易に届く。
 西国街道北側の建物への銃撃は資料にない。確認した範囲の銃撃の記録は、すべて居留地方面(浜)に向かっている。家から出て来たマルクス一家が浜側に逃げたという記述があるが、銃撃にさらされるのを覚悟で、外交官らが集まっている浜沿いに向かって逃げたとするか、自宅方面への攻撃を避けたかは不明である。後者であれば、北側の建物への射撃の傍証になるが、その可能性は低いと思う。

⑤発砲命令ついて
 なお、「聞書」では、外国人の挙動に反応して、命ぜられることなく発砲が起きている。「忠尚申状」でも発砲命令については書かれていないが、海岸線に逃げる外国人に向けて発砲するという行為には何らかの命令が出された可能性がある。ただし、後の資料に出てくる瀧善三郎による「てっぽう」の発声はどちらの資料にも記されていない。

▽外国側の記述との関係―3

 『神戸事件』では、他にも衝突に遭遇した複数の外国人の証言が掲載されている(頁107―133)。そのなかから、マルタン供述書を補完するフィッシャーの供述を記す。

 なお、外国人の供述のなかの何点かに、騎乗の指揮官と発砲を結び付けているものがあり、逆に攻撃命令は聞かなかった、という供述もある。
 これについては日本側の記述には、日置帯刀が止めようとしたこと以外、記述がないので比較検討ができなかった。責任回避のために秘匿したとは考えにくく、最初の混乱の現場にいたマルタンの供述に攻撃命令の記述がないことなどから、騎乗の武士のその動きは銃撃のあとの行為ではなかったか、と思う。

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【衝突現場模式図2)】
衝突現場模式図2 
※衝突現場模式図2について

⑥まとめ
 先述のように日置隊士のほとんどが、間近に外国人と接するのは初めてだったろう。人間とも思えないような男が、隊列のなかを乱暴に動き回った。もちろん言葉は通じない。恐怖からくる憎悪もあったかも知れないが、支配階層に属する者の自負心もあったと思う。
 フランス兵キャリエールはいつから日本に居たのだろうか。他所の国に来て、その国の文化や人に何ら尊敬も恐れも持たないということは、かなり知性が低い。彼らのなかに日本人に対する軽蔑や憎悪があったかも知れない。
 キャリエールの乱暴な行動が日置隊士による槍での攻撃を誘い、それが外国人による銃を用いた威嚇に結び付いた。
 そしてそのことが日置隊の発砲を引き起こした。細部は詰め切れなかったが、大きな流れはこのようではなかったか。
 ただし、後に行われる日本側特使(外国事務総督の二人)と外国公使団との交渉では、このことが論じられることはなかった。事実を究明し、相互の責任を追及するものでなかったからである。

【追記】
 神戸事件関係の資料では、「発砲」と記述されることが多い。当サイトもここまで「発砲」としてきた。しかし、その先に人がいれば、「銃撃」とする方が適切である。この後は時により「銃撃」という言葉を使う。

(2)銃撃にさらされた居留地

 日置隊の先頭の小銃隊が、浜に向かって撃ち始めたとき、居留地にいた外国人達は、突然の発砲の意味が分からなかった。降ってわいた災難を避けるために、彼らは必死に走って貸倉庫や運上所に逃げ込んだり、蔭に隠れたりした。短い時間の一方的な発砲の後、銃撃は止んだ。
 外国公使団のうち、イギリス公使パークス、ドイツ公使ブラント、オランダ公使は居留地にいた。

▽ドイツ公使ブラントの回顧録

(アメリカ公使らと食事のあと)われわれ一同、すなわち、ドゥ・ラ・トゥール伯爵(イタリア公使)、アメリカ軍艦イロクォイ号、オナイダ号の艦長イングリシュ氏とクライトン氏(※3)、それに私が、税関の建物を出て、それを囲む何の建造物もない砂地へ行ってみると、そこには多数の外国人が集まっていた。彼らは隊を組んで行進する日本の軍隊を見物しようと集まったらしい。この広い砂地の北に接する街道を大坂に行軍して行く兵の数は数百人はいると思えた。われわれは約三百から四百歩ぐらい部隊から距離をおいていたが、しかし、ずっと近くに寄っていた外国人も多くいた。
 突然、部隊がこちらに向きを変えるのが見え、すぐにそれに続けて一斉射撃が起こり、ビュウビュウと音を立てて弾丸が飛んできたが、ほとんどはわれわれの頭上を飛んで行った。(中略)
 二回目の一斉射撃が起こり、われわれと日本軍の間にいた外国人がどっと踝を返して逃げて来た。私は正確に事態を覚った。日本軍は見物の群衆に向かって発砲したのだ。群衆のなかにはハリー・パークス卿もいた。二人の艦長が艦に戻ろうとボートに急ぐ間、私は税関に走って戻り、アメリカの守備隊を招集すると、階段を駆けのぼってサーベルと連発ピストルをつかむや、すぐにまた下に駆け下りた。(中略)
 だから日本軍が、六、七回、一斉射撃をしたあと―彼らは連発銃で武装していた―再び何ごともなかったかのように行軍を続けるのを見た時、私は少なからず驚いた。(以下略。この後、ブラント達はすぐに反撃に移る)。 (『ドイツ公使が見た明治維新』頁134。( )はサイト運用者による。読みやすいように改行を施した。)

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 この時、アメリカ公使ファルケンバーグは、運上所のベランダにいて、日置隊の隊列を眺めていた(『神戸事件』頁120。『ポルスブルック日本報告』頁216)。
 そして、自国国務長官宛ての報告で、数発の弾丸が公使館(運上所)の建物に当たったが、その多くは至近距離を通過(逸れた)と記す。


 オランダ公使は、このあとフランス兵と一緒に追撃に参加しているので、近くにいたと思われるが、フランス公使ロッシュに関する記述は未確認である。各国公使は同一行動を取っていたわけではなく、アメリカ・プロシア(ドイツ)・イタリアの三ヵ国の公使は運上所に宿泊していたが、その他は宿泊先も異なっていた(※4

(3)銃撃についての仮説

 衝突のあと、外国側と日本側は事件の解決について会談を持つ。しかし、両者の協議は衝突の原因を分析し、敵味方の責任の有り様を主張する協議ではなかった。
 そのため、両者が公式に原因を協議した資料はなく、異なる立場から書かれたいくつかの資料を比較して推定するしかなかった。しかし、確定的な情報はなく、何らかの矛盾や疑問が残った。仮説の域を出ておらず、また煩雑なので別に記す。
銃撃について三角右マーク

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補注

※1.資料の比較による検証について
 具体的には、同じ局面を描写したと思われる日本側資料と外国側資料を比較した。
 日本側の資料は衝突現場で銃撃戦を行った日置家中小姓・山崎喜兵衛の報告書「高須七兵衛聞書」(御津町史収録)、岡山藩が新政府関係者に提出した「忠尚申状」(忠尚は日置帯刀。『復古記』の記述に従い、こう略記する。『日置帯刀摂州神戸通行之節外国人江発砲之始末書』(池田家文庫、資料番号 S6-128-2)など複数の資料に収録されている)を基準にして、「瀧善三郎自裁之記」を援用した(御津町史収録)。なお、衝突後、岡山藩は「忠尚申状」を新政府関係者に上申しており、藩の公式見解であったと思われる。
 外国側の資料としては、内山正熊著の『神戸事件』に収録された事件関係者が自国公使に提出した供述書、及び事件に遭遇した外交官による自国への報告書を基本にした。また同様の資料は萩原延壽著の『遠い崖』6などにも収録されていた。
 発砲に至る経緯は「ロッシュ公使宛マルタン供述書」(『神戸事件』頁128―130。以下「マルタン供述書」)を基本とし、アメリカ公使ファルケンバーグやイギリス公使パークスなどの外交官による本国への報告を援用した(『神戸事件』などに掲載されている。引用時、書名、頁数を記した)。
 言葉がまったく通じず、背景の文化や生い立ちも異なる集団による衝突なので、同じ状況でも受け取り方が異なることは予測できる。細部の異同に拘らず、できるだけ共通部分を確認するようにした。

※2.瀧源六郎
 大砲方隊長・瀧源六郎(横目格、百石)は、第一砲長も兼ねており、第二砲長・浜田虎介(中小姓、十五俵二人扶持)、第三砲長・瀧善三郎(側役、五人扶持)と続いた。瀧善三郎の兄である。

※3.衝突現場模式図1について
  地図は「彩色えはがき・古地図から眺める神戸今昔散歩[中経文庫]」(原島広至著、中経出版、2011年刊、頁84の図を参考にして作成した。同頁には「神戸古今の姿」(昭和4年)を参考にしているとある。
 この図では、オランダ領事館の前に家があり『巳九月建屋空地共仏人へ貸与』の書き込みがある。居留地の造成が遅れ、これがために外国人は周辺の日本人家屋を借りて当座をしのいだ。慶応四年三月以降、雑居地として認められた。(雑居地の許可年月については異なる資料もあるが『神戸地域学』頁27によった)
 供述をしたフィッシャーはプロイセン人であるが、参考資料の絵地図が明治二年制であり、それまでに借主が変わったと思われる。
 また、図中の関門番所について岡久渭城は旧幕府海軍操練所書生寮であるとし、『高須七兵衛聞書』で「異人交換所」とされたものであると推定している。