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歩行日 平成27年2月13日(金) 中庄(駅からの道と往来が交差する点:道路西に三界万霊塔がある)~倉敷(クラボウドライビングスクールのある交差点) 距離4.8キロ (千阿弥橋跡から累計 18.2キロ)
常夜燈などがある手前の道に入り、西に向う。そのまま道なりに進み、用水路(六間川)に出会い右岸(北側)をさらに西に進む。(この日中庄駅は混乱のさなかだった。山陽線の踏切でトラックと列車が衝突する事故が起きていた)
直進しながら水門を左側に見て、次の信号のある交差点も直進。右角に三菱自動車がある。山陽マルナカ、ゲオの裏側を通り、対岸に祠を見る。
山陽自動車道の高架が見えるあたりから白いパイプの柵が両側にある細い道になる(左写真)。
高架をくぐって、旧2号線(岡山県道162号岡山倉敷線)に合流する。ここで右側に渡っておく。しばらく広い道を進み、大きく左カーブしたところから右へ分かれるやや細い道に進む(右写真)。
入り口に大きな左カーブの矢印がある。左側は坪井理研。
用水沿いを西に進む。倉敷市立北中学校に沿って曲がりながら南下。用水から離れる。その先右に曲がって橋を渡る道が鴨方往来であるが、左に進む道があり、その角に道標がある(建物の陰になっているので、少し左に進まないと見えない)。
そのあと、橋を渡って、信号のある交差点を横断する。
左の道標には、「[右面] (指型・右)そうじゃ 水わかれ 道 [正面] (指型・左)くらしき たましま 道」(石標は一部変体仮名)、左面には施主と世話人、裏面には前の道標と同じく石工 安藤久吉と記されている(鴨方往来拓本散策p57-58)」。
建立年はどちらも大正八年三月である。施主世話人は微妙に異なるが、同姓の人もおり、何らかの連携をとって作成されたのだろう、と思う。
さらに西進。個人宅の前に里程標がある。[正面]距岡山元標四 [右面]距下津井管轄境七里一」と読める。明治十五年に作られたようだ。鴨方往来に現存する岡山起点の里程標はこれで二つ目だ(里程標)。
歩いた時はよく読めなかったが、三石から十四里十四丁ということも書かれているということだ(鴨方往来拓本散策p58-59)。起点からの距離など決められた事柄以外は、適宜記入していたのだろうか。また一つ疑問
その向かい側の角に地蔵尊がある。「歴史の道調査報告 6」にある「延享二年の銘」がある地蔵尊だろうか。延享二年というと1745年らしい。ずいぶんと歴史がある地蔵尊だが、花も供えられ前掛け?もきれいだった。
道なりに直進し、浜ノ茶屋歩道橋のところで429号線を横断する(左写真)。
この辺にかって茶屋があってこの名で呼ばれたという。倉敷道(天城街道)や総社道と交わる交通の要衝であった。
土佐藩主山内容堂が山陽道から下って倉敷に行くために通ったり、鴨方往来に面する倉敷道では代官所の送迎の場所があったようだ。伊能忠敬の日記にも記されている由(調査報告第6、p66-67)。
往来が交差する明確な位置は分からなかったが、右の写真の半分埋まった道標に「倉敷下津井」とか「惣社足守」という文字が読めるのでこの辺りだろうと推測する。撤去されていないだけましかもしれないが、半分埋まった道標を見るのは悲しい。
10分ほど直進すると、左側に朱塗りの鳥居がいくつも並ぶ小さな社があり、クラボウドライビングスク-ルがある。その先の24号線の広い道が倉敷駅に向かう道だが、鴨方往来は広い道を横断して、まっすぐ西に向かう。交差点の向かいの建物の壁に「小野洋瓦(有)」と書かれている。
交差点を渡って少し歩くと右手に自然石の地神塔と文政二年と刻まれた(鴨方往来拓本散策p65)金比羅灯籠がある。道なりに進み、交差点を渡って5分ほどで伯備線の踏切が見えてくる。
踏切を過ぎて7~8分で、60号線を横断する。交差点左手に倉敷八王子郵便局が見える。
「箒木園白叟翁 白叟ハ宇野與三郎之父也 白露のはては しぐるる 浮き世かな
洗耳庵桑圃 桑圃ハ杉原恵三郎之父也 地に落ちるまでの とこかや 露しぐれ
明治廿八年四月日建立」と書いている由(鴨方往来拓本散策p68)。
それからすぐに左手に「春光堂書店」がある。小さいけど本がぎっしり詰まっているように見えた。
八王子橋の親柱に刻まれた橋名は大きくて頼もしい雰囲気がある。鴨方往来は八王子橋を渡ってすぐ右のやや細い緩やかな坂道に入り、信号のある広い交差点からは離れる。まっすぐ西に進み、右角に金比羅灯籠がある曲がり道をほぼ直角に曲がり、下の道に降りる。
さらに右を向くと両備バスの「古水江」バス停がある。
ただし、鴨方往来は降りてすぐ左折。この辺り今の地形などを基準にすると少し不自然な経路をたどるが、資料を見ると大正14年まで高梁川は東と西に分かれて流れていたようだ(調査報告6p66)(分流していた高梁川について)。二筋に分かれていた高梁川の東の渡し、水江の渡しがこの辺だろう。なお、水江の渡しは別の形で復活し、平成28年3月末まで運行された(水江の渡し)。
まっすぐ南下して、次の信号がある交差点で、酒工房あおえの横を右折する。そのまま水江交差点まで直進。交差点の向かい左側にはスーパー(ニシナ・フードバスケット)が見える。
水江交差点から5分弱歩いたところに両側に常夜灯が立つ小さめの社がある。鳥居の額には「阿知大明神」と書いてある。中に祀られているのは高さ三メートルの阿知五輪塔である。
倉敷市教育委員会が立てた簡素な説明板があった。『江戸時代後期に「阿知大明神」として崇敬された』という「備中誌」からの引用が記載され、古代にこの地方を開発したとされる「阿知使主」を子孫らが祀った、と推測している。
その先を5分ほど進むと、左手に上町公民館がある。前庭に地蔵尊の祠などが複数あった。たぶん周囲のものを集めたのだろう。
八十八カ所巡礼に関連した道標もあったようだが見落とした。この後も八十八カ所巡礼関連の古跡にいくつか出会った。各地域に様々な霊場巡りがあるようだが、詳細は分からない。四国巡礼以外は今はあまり話題に上らないような気がする。いつか調べて見たいことのひとつだ。
元に戻って鴨方往来は、西南の方に道なりに進む。右手に恵比須宮があり、さらに熊野神社参道の鳥居がある。熊野神社は遍照院の北西にある。さらに左手に火の見櫓がある。
遍照院から10分前後で、進行方向がやや細くなっている交差点に出会う。鴨方往来は右折(左写真)。この後は、道なりに高梁川の土手に向かって進むことになる。左角に小さな道標がある。「第八十三番道」と読めるので、これも八十八カ所巡礼関連のもののようだ。
右折して少し歩くと、地蔵尊が複数鎮座する祠がある(右写真)。
巡礼の道が続く。右手に小さな祠があり、その横に道標と牛の姿を刻んだ石碑がある。「万人講」と読んだ。大日如来を牛の守護神とし、それに関連する講のようだ(インターネットサイト、コトバンクによる。2015/03/16確認)
道なりに進むと、高梁川の土手にぶつかる。階段を上り、堤防の上を走る428号線に出る。対岸が又串水門辺りなので、ここが又串の渡しかと思う。二筋に分かれていた高梁川の渡しだ(分流していた高梁川について)。428号線は歩道がなく、交通量も多い。本来は船渡しで、この辺は高梁川の改修によってできた道だと思う。こだわらず河原に降りて船穂橋に向かって歩く。橋の手前で上り、高梁川を船穂橋で渡る。