鴨方往来・金光(占見)~鴨方陣屋跡


鴨方往来6・金光(占見)~鴨方陣屋跡

金光(占見)~鴨方陣屋跡までの地図

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歩行日 平成27年4月16日(木)金光(占見)~鴨方陣屋跡 約3.4キロ(順路1を通った場合)(千阿弥橋跡から累計40.2キロ)


金光(占見)  岡山発8時55分の山陽線三原行に乗り、金光駅に9時25分に到着。金光小学校、金光中学校の横を通って、前回(平成27年2月20日(金)の最終地点浅口市金光町占見からの出発である。

目印のそろばん塾と占見の町名表示を確認して歩き始める。前回は写真の右手から来て金光駅に向かった。今回は金光駅から北進して写真の左手に進む。

 鴨方往来は畑や住宅が並ぶ中を右に左にゆっくり曲がりながら進む。分岐もあるが道なりに進む。右手に神社がある。

津くまの分かれへの分岐 火の見櫓がある。ここから津くまの分かれまで、資料により3種類の道が示されている。ここでは我々が正しいと推測した順路1の経路を説明する。この道は途中まで調査報告6と同じであるが、津くまの分かれの手前で別の道を進む。(検討内容を見る

 火の見櫓の鉄塔を右手に見て、道なりに進むと5~6分で、正面で左右に分かれるT字路に出会う(左写真)。

 T字路で右に曲がる。小高い丘の上に山神社が見える(右写真)。山神社方面に進むと、東から来た細い道(山側の住宅地と田んぼのあいだを縫ってくる道)と交差する。交差する道に折れる。T字のところから二本めの左への進入路を左折することになる。
分岐 山神社


 寄り道して山神社に参拝した。社の右前に巨石がある(左写真)。

屋根の四つの出っ張りにそれぞれ「山神」と書かれた瓦があった(右写真)。隅鬼というそうだ(ネット情報)。

由来などが分からないので岡山県神社庁の神社検索で調べると、「山神社」という神社は15社前後あり、読み方も「やま」と「さん」の両方がある。無格社や村社などの小さい神社がほとんどだ。ここの山神社は「やまじんじゃ」で通称「やまのかみさま」と呼ばれるらしいが、それ以上は不明。
山神社の巨石 山神社の瓦

 山神社から坂を下る。東の方から田と住宅地の境界を縫ってきた道と交差する。この道を西に進む。


 家と家のあいだの細い道(ブロック塀やフェンスが両側に続く)をしばらく進むと正面右手に三和保育園が見える(写真左)。

三和保育園の前を通り、右手の山裾を回り込みかたちで進むと、左から来る道と合流する(左から来る道が調査報告6の地図に掲載されたもの)。

右写真のカーブを曲がったところが「津くまの分かれ」である。
三和保育園 津くまの分かれの手前

 ここの地名の澳は沖と同じ意味の言葉らしい。津+澳で、湊の沖といった意味を連想させる。海あるいは海岸だったことを示す地名のようだ。

 金光町が建てた説明板には「津澳」の地名を千年比丘尼が「これが“つくま”に帰ってくる」と言ったことに由来すると書いている。おかやま伝説紀行p120-121に詳しい。日本の人魚伝説は人魚の肉を食べて不死に近く生きたという「千年比丘尼」の話が多い(というか他は見聞したことがない)。


〇八重山群島の昔話に、「人魚の歌」という物語があった。ある村に人魚が津波を知らせるという話である。海と暮らす人々らしい物語である。(『日本の民話』20沖縄・八丈島篇、伊波南哲・浅沼良次編、ほるぷ、昭和50年。p185)

津くまの分かれ 道標と祠がある。

道標には(正面)「右たましま 左をかやま 道」と書いてある。左面には施主 当村市郎右衛門、裏面には指形が右斜め上を指し、「五十六番奥院」と書いている(鴨方往来拓本散策、p98-99)。

鴨方往来のあちこちで「××番」と書かれた道標を見た。「△△八十八カ所」と名付けられた地域の霊場もいくつもあるようだ。

 田園風景の中を10分足らず歩くと、右側に見慣れない石柱と六字名号塔などがある(左写真)。石柱の文字は「神掌術治療所」と読めるが、どういったことなのかよく分からない。周囲に説明もない

 そのすぐ先に、磐岩(いわむら)神社の参道入り口の注連石(というらしい)が一対立つ。その向こうに鳥居がある。神社の近くまで入江だったという。数々の磐座があるらしいが、津くま周辺の道を調べていて、一人遅れたので見学せずに進む。

石柱と六字名号塔 iwamura-zinzya

その先5分ほど行くと正面の池の土手下に常夜灯がある(左写真)。文字は「奉燈」と読める。横に「改建 平成11年3月」と書いた新しい小さな碑がある。

 左に曲がって、池の土手に上がる。池の南側を進む。
常夜燈 池の横の道

 大小二つの池が続くからか夫婦池と呼ぶようだが、地図で確認すると実際は3つあるようだ(西側の池が分割されている)。

鴨方から笠岡にかけて、池が続いていたが、一つの池を二分割、三分割したように続く池が頻繁にあった。「百姓たちの水資源戦争」(渡辺尚志著、草思社、2014)などによると、水争いが続いた結果池の中に堤を築いて物理的に二分することもあったらしい(p106)。分割したような池が多いことは水争いを防ぐためであったか、などと推測した。

 一つ目の池の西南角に「水分神」と書かれた石碑がある(左写真)。その横に「夫婦池の観音堂」の説明板がある。

 池に沿って進み、二番目のやや小さい池の南側に進む(中写真)。正面は小三宅公会堂。二番目の池の西角、樹の下に地蔵尊が鎮座されている(右写真)。

水わけの石碑 池の横の道 池の横の石仏

鴨方町の道 左手にコープを見ながら道を渡れば鴨方町。直進すると右手に常夜灯がある。さらに進むと、正面高いところに橋が見える。橋の手前右に道標。電柱の陰になり、かつ小さいので見落としやすい。左少し離れたところに常夜灯、地神塔、祠がある。

 橋を渡って100メートルほど直進。ぶつかったところを左折、右手に屋外時計を見ながらすぐに右折。すぐにかもがた町家郵便局がある。
鴨方の道 鴨方町家郵便局

鴨方町家公園その後は直進。やや広い道(64号線)を本町の信号で横断すれば、右手にかもがた町家公園の石碑と「江戸へ百八十里」という真新しい道標がある。

公園は江戸時代の商家の雰囲気たっぷりの旧高戸家住宅(左写真)、道具蔵跡、植物園など多くの施設があり、和風喫茶「まちや亭」(右写真)もある。そうめんが食べられるそうだが、弁当持参なので諦めた。

高戸家住宅 まちや亭

 高戸家住宅を開放している「伝承館」を見学した(左写真)。贅を尽くした内装や家具調度を見学して回る。表を派手にすると目を付けられるので、家の中を凝ったつくりにしているらしい。祭り寿司の発想か。

 鴨方藩は岡山藩の支藩なのでそういったところが似てくるのかと考えたが、商人の贅沢に目を光らせるのはどこでも一緒だったかも知れないと思った。

ここで初めての集合写真を撮る。平均年齢72才くらい(2015年4月現在)。
伝承館 集合写真

 町家公園の横に鴨神社の鳥居(左写真)がある。昼食を鴨神社で摂ることにして階段を上る。

 途中に宮の石橋(右写真)がある。「鴨方に過ぎたるものが三つある」うちの一つらしい。石を縦に渡しており、それでいて「そり」があるので、大きな石をその形に削ったのだろうと想像した。

里謡だというのだが、誰がそんなことを言ったのかよく分からない。あとの二つは西山拙斎、田中索我の二名である。
鴨神社 宮の石橋

 鴨神社の後ろに、いくつも小さな社殿があり、その前に社名を書いた小さな石柱がある。恵比須社、荒神社、多賀神社、若宮神社、稲荷神社、石鎚神社など聞いたことのある社名や寄立神社、五篠天神社、知利積神社、金丸神社などあまり目にしたことのない神社名もある。一つの小さな社殿に二つの社名があるのは相殿になるのか。

 玉島の長尾神社でも同じような小さな社殿を見た。多くの神様を祀る理由がよく理解できない。そのうち、何か資料を探してみよう。単純に考えるといろんな御利益を集めたとも思えるが、明治末の合祀とは関係ないのだろうか。そのうち調べたいと思う。昼食のあと、西山拙斎、田中索我のお墓に参った。

 その後、浄光寺の門前を過ぎて、鴨西公民館横の道を上り、長川寺(ちょうせんじ)に寄り道。

 途中に鴨方高校旧校地の碑(左写真)がある。写真を撮っていたら、話しかけられた。鴨方往来を歩いているというと、経路について推測を述べられた。指さす方向などから宮の石橋の下を通る道だと思われた。

 この経路を力説する人がいることは調査報告6にも出ているが、妥当性を判断する材料を持っていない。また、五街道やそれに準ずる脇往還でも時々道の掛け替えがあり、それ以外の道では、管理もそれほど厳重ではないと思う。だからいい加減に歩いても良いという意味ではない。

 長川寺(中写真)は、宝暦八年の藩主巡検時、本陣に火災が生じた場合の退避場に指示された。また、庭で領内の百姓が相撲をとって藩主に見せたようだ。その準備に経費がかかり、難渋したとある(鴨方町史 本編、p456-460)

 長川寺から下に降りる際に、竜宮城のような門があり、近づいてみると旧正伝寺の門であった(右写真)。竜宮門というそうだ。同じような形をした門は下関の赤間神宮や武雄温泉で見たが、赤くてもっと大きかったので、ぴんと来なかったが近づいて見ると本物だった。その後元の道に出る。
鴨方高校跡石碑 長泉寺 正伝寺山門

長川寺の参道が元々歩いて西から来た道と交差して南へ進むのが鴨方往来だが、鴨方陣屋は西に向かう。参道から降りてくると右折になる。

鴨方陣屋跡 70メートルほど進むと、右手に黒住教鴨方大教会所がある。ここがかっての鴨方陣屋跡である。石垣は当時のものである。

 陣屋といっても小規模のもので十数人の藩士や足軽が詰めているだけだった。また周囲に武家屋敷もない。

 鴨方藩主は江戸と岡山の藩邸に居り、ここで生活することがなかったからだ。たまに巡見のような形で鴨方を訪れるときも別に用意された本陣に泊ったということである(鴨方町史 本編、p456-460)。中に当時の井戸が残っている。鴨方は藩というにはすべてが小ぶりの印象がある。

 備前岡山から見た場合、鴨方往来の一つの到着地点はこの鴨方である、と思っていたのでささやかな達成感があった。でも道は続く。


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