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浅口郡金光町占見1529(金光中学校北:鴨方往来6スタート地点)から、津くまの分かれ(金光町占見205:道標と祠がある)までの経路は資料によって三つの道がある。
大日本帝国陸地測量部発行の明治37年測図の5万分の1の地形図をもとに次のように述べている(p40-地形図はp43)。
(前略)分離丘陵南の標高10メートルあたり、丘陵と低地の接点附近には東西に俗称鴨方往来と言われた里道である聯路(連なる道。管理人注)が続き、玉島道口で県道玉島~矢掛に交差していた。占見新田・下竹の村落はこの往来に街村として帯状に立地し(後略)
下のyahoo地図を見ながら、往来と思われる道筋を拾っていく。まず、yahoo地図の番地1318と179-1のあいだの道を西南に下がってきて186-9で山神社方面に向う。そして1132の手前で西に向い、その後西南に進む。三保保育園を右に見ながら199-4の津くまの別れまで向う。
縮刷が異なるのでわかりにくいが、管理人はそう読んだ。調査報告6と異なる道順だと思うが、この道を我々の鴨方往来の道とした。ただし、少なくともある時期は順路2も主要な往来であったのではないか、と考えられる。あくまで推測であるが、順路1は比較的後期の往来であったのではないか。こちらを採ったのは、金光町誌の記述である、ということが大きい理由である。
歩行記録:鴨方往来6
(大宮神社の)鳥居前から西に400mほど行って、右山際へ緩やかに細い道を進めば往来傍に共同井戸がある。(略)くねくね曲がりながら山際を抜け、視界が開けたあたりから、田畑より少し高いところを歩いていくが、新田干拓以前は海岸際であったようである。三和保育園を過ぎたら金光駅方面からの道と合流する。いわゆる、津くまの分かれである。(p15)
[検討]同書の地図の転載は見合わせるが、順路1が左に進んだ火の見櫓の分岐を右に進み、その後山裾を進んでいる。そして、山神社から南下する道あたりで順路1と合流し、三保保育園前を通過して、津くまの分かれに至る。
なお、前記「大日本帝国・・・」では、この経路は判読できない。
歩行記録:火の見櫓のある分岐を右折れ。山裾を回る緩い上り坂。家と草地のあいだを通るので、犬が顔をのぞかせて吠える(田舎の街道歩きは犬に吠えられることがよくある)。
山裾を通り、下り始めたところに、地神塔と共同井戸がある。井戸の横の自然石には「水神」と刻んで有る。その先に自然石の地神塔がある。右写真は振り返って撮ったので、奥にあるのが共同井戸である。
道なりに曲がりながら南に下がる。60メートルほど南下したところで右に分岐する道を進む。その後、西に進む。最初にある交差点で南に下がるのか、直進して山神社の山裾を回り込むのか、どちらであるかは分からなかった。どちらをとっても、山神社から下ってくる道と交差し、三保保育園の前を通り、津くまの分かれに至る。
一番風情があるのがこの道である。我々としてはいちおう順路1を採ったが、先にも書いたように金光町誌の記事を優先したためである。
残念なのは「鴨方往来を歩く」がこの筋を選定した理由が判らなかったことである(巻頭に参考資料一覧があるが、どの資料で判断したか不明)。干拓以前の道かも知れないと思うが確認する手段がない。
「金光町宗元に、津くまの道標がある。」(p68)とあるが、経路の説明はない。末尾の地図には、山神社から南下して来た道とぶつかるところまでは順路1と同じであるが、そこで南に下り県道60号線に接触し(上のyahoo地図でいえば番地185-5のところ)、右折して西に向う。写真左の道が県道60号線。右の道を進むと金光鍼灸院の前を通って津くまの分かれに到達する。順路2の「鴨方往来を歩く」でいう「金光駅方面からの道」はこれであろう。
この道は「大日本帝国・・・」に記述されていない。また地元の人の話では、新しい道だということだったが、それは県道を指しているのかも知れないと後で思った。
参考文献
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