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歩行日 平成28年2月1日(月)笠岡(ハローワーク笠岡の駐車場北)~用之江辻堂 距離 約 4.6キロ(寄り道除く)(千阿弥橋跡から累計 56.2キロ)
ゆっくりカーブしながら2号線を金浦信号交差点まで進む。山裾に小さな祠、その前に牛と思われる浮き彫りの像がある小さな石碑がある。
さらに進むと歌碑。「沖つ風 浪立つべくも吹かぬよに 金の浦より出づるあま舟」と書いている由(おかやま旅ネット金浦の名の由来碑:サイト確認2016/02/23)。 金浦という地名は藤原家経のこの歌にちなんだという。
山裾に石仏が並ぶ。笠岡にはいくつもの小さな霊場があり、金浦には金浦八十八ヶ所霊場(笠岡市内のミニ霊場(その2):サイト確認2016/02/24)と呼ばれる巡礼路がある。往来はその一部を通る。
右写真は左写真の左端の石仏だが、四十一番と書かれている。八十八ヶ所は四国八十八ヶ所の各寺になぞらえられているようだ。このあともしばらく、同じような石仏を見た。お地蔵さまのように見えるが、観音さまとの区別がつかない。
その先金浦信号交差点を右折(左写真)して、国道2号線から離れる。すぐ右手の山裾に石仏がある。これも金浦八十八ヶ所の一つである。
道の右手高台にある角田興業へ向う道も遍路道のようだが、往来は直進。道の横にまた石仏があるがこれは巡礼路の石仏かどうか不明。
さらに先に進むと道路左側の商店角に題目碑がある(左写真)。一面に髭文字で「南無妙法蓮華経 南無日蓮大士」横面に「奉誦久遠偈三千部供養」とある。横に石仏がある。
そこから少し先、笠岡信用金庫横に赤い鳥居がある。かなり荒れた階段を上ると、岩に祠が作ってあり(右写真)、「ときわ稲荷大明神」という札があった。
少し先で、二叉に分かれる(左写真)。別れ道の分岐点に石仏がならぶ。往来は右と判断。巡礼路は左に分かれたあと合流するようだ。
分岐から230メートルほど進むと、ガードをくぐる。手前左手に報恩寺がある。ガードの右側には石仏がある。これも巡礼路の石仏である。
金浦郵便局の前を通り、そこから100メートルほど進んだ交差点右に恵美須神社(左写真)がある。恵美須神社の先には久我邸、さらにその先に吉田川を渡る千歳橋がある。恵美須神社の背後に共同井戸(右写真)がある。久我邸は奥に広がる大邸宅で、同家は素封家だったようだが詳細は未調査。
千歳橋を渡ると左手のゴミステーションに隠れるように常夜燈と祠があり、その奥に光明院がある。金浦八十八ヶ所霊場の一番札所である(金浦八十八ヶ所霊場:笠岡市内のミニ霊場(その2):サイト確認2016/02/24)。その先道は左にほぼ直角に曲がり、山陽本線に向う。
山裾を右に曲がり山陽本線沿いを進み、すぐに離れる(左写真)。右手に墓地があり、その先で二つに分岐する。往来は左側の小さな橋を渡り、吉浜踏切に向う道である。右に進めば、金浦小学校の前を通って東の辻堂に向う。
分岐するところ、右手の山際に岩を穿った祠がある(右写真)。左側の祠には白い馬形が祀ってある。この祠がお清明神だ(お清明神と白馬さま)。この辺はもう吉浜である。
吉浜踏切を渡る(左写真)。120メートルほど進むと、分岐がある(右写真)。分岐手前左側に金浦排水機場の大きな建物がある。この時は外装工事をしていたのかシートで覆っていたので外観はよく分からなかった。
正面のコンクリ-トで覆われた崖の中腹に常夜燈が見えた。階段があったが上りにくかったので、近くの人に尋ねると、もともと排水機場の辺にあった金比羅様の祠を山の上に移し、さらに万世橋手前右側の公会堂裏に移したとのこと(万世橋から公会堂裏を見たら、確かに小さな祠があった)。常夜燈は移設せずに残したということのようだ。今でもお祭りをするという。
万世橋を渡る。渡って少し行くと、山際に石仏が四座ある。右端の石仏は十四、その他にも数字と文字が刻んであったが、読めなかった。この辺りは備中吉浜三十三観音札所の巡礼地のようだ。(備中吉浜三十三観音札所(笠岡市内のミニ霊場(その2):サイト確認2016/02/24)
万世橋から数分歩いた右側の空き地に「菅原神社改築記念碑」と書かれた石碑があった。菅原神社はこの先なので経緯は不明。
そこからさらに数分で左手の広い空き地に「興業校跡」という石柱があった。地元の人に尋ねると興業校とは吉浜村の旧小学校だった。明治6年に開設され明治11年に至誠、広明と合併し、吉浜小学校になった。(笠岡市立金浦小学校の沿革:平成28年3月7日確認)
しばらく行くと左側に御堂がある(左写真)。その手前にある石の小さな祠は備中吉浜三十三観音札所十三番石光山石山寺と書いた札がある。小首をかしげたように見える観音様がある。
御堂は恵比須さまのようだ。これは備中に多い辻堂とは形が違う。そして、祠と御堂のあいだにある大きな石が笠岡から西浜(「ようすな」と読む)、吉浜を経由して福山へ向う道への開通祈念碑(右写真)である。
石には「享保十七壬子天此道成就」と刻んであるという(よしはま物語p34)。かなり風化しているが、享保十七という文字は読み取れた。
享保17年はこの地域が干拓されてから71年が経過しており、それまでは山道を通る上道が福山への道だったようだ(同前)。
さらに5分ほど進むと、左手に菅原神社への参道がある。参道入口には狛犬と大きな常夜燈(高さ三メートル余、天明八年、願主吉浜村中)がそれぞれ両側あり、さらにその後ろに小ぶりの常夜燈二十対が並ぶ。
【寄り道】菅原神社に参拝する。同社は吉浜干拓の十三年後の延宝二年(1674)年に当時の福山藩主水野氏の命を受けて造営されたという(吉浜の菅原神社説明板及びよしはま物語)。
西の用之江にも菅原神社があり、そちらは万治二年(1659)の創建(同社説明板)という。はじめは天満宮と呼ばれていたが、明治に現在の名前になった。
参道両側に二十基並ぶ小ぶりな常夜燈のうち、最初の十二基には、子の当番、丑の当番、寅の当番、という具合に亥の当番までの祭礼当番名と寄進者及び年号が刻まれている。
建立年号の順になっていないのでもともとは当番の都度寄進されたものを後で並べ直したものだろうという。祭礼当番は「釣頭(つりがしら)」と呼ばれる十二家が交代で占有していた。(釣頭制度について)
右写真の眼鏡橋は木の橋を明治二十年に現在のかたちの石橋に架け替えた。池のカキツバタが咲く頃はきれいだそうだ。
(菅原神社については、よしはま物語p143-173「十 菅原神社」による。なお、常夜燈に関する記述は同p45)
菅原神社から100メートルほど進んだところで道は二つに分岐する。
福山への往来は左、右手を北上するのは出雲街道である(調査報告6p72)。右手に進むと京都以西では最大と言われる辻堂がある。この時は西堂へは行かなかったが後日西堂と東堂を見学した。
分岐の左側に関藤藤陰(せきとう/とういん)の生誕地石碑がある。藤陰は、幕末の学者、経世家である。福山藩主阿部正弘の命で、蝦夷、樺太、択捉島を探検し『観国録』『蝦夷紀行』を著した(岡山県大百科上p1383 項目の著者は/柴田一)。大政奉還後、迫り来る長州軍と和平交渉を行ったなどの事績はよしはま物語、p192-203に詳しい。そのとき藤陰が白装束(死装束)で長州兵の説得に当たったと地元の方に伺った。
分岐から100メートルほど進むと、上に登る道がある。途中に石仏が見えるが、そちらは池に向う道であり、往来は今来た道を直進する。
踏切を渡ってゆっくり左に曲がって用之江川に沿って進む。踏切を渡ったあとに直進する細い道があるのでなんとなく迷うが、往来は用之江川にそってゆっくり左に曲がり、その先に郵便局が見える道である。
城見郵便局の前を通過する。前方に県道3号線の高架が見える。往来は直進だが、高架の直前に左に分岐し、国道2号線に向う道がある。その分岐の角や、下に下りたところなどに石碑があったが、由来などは分からなかった。もとにもどって高架をくぐる。
高架をくぐって少し進むと、右手に城見小学校がある。その石垣の東角に、小さな道標がある。西向きの指の矢印の下に「坂東七番天神□」(□は半分埋まって読めないが宮ではないか、と推測。その側面北向きの指の矢印の下に「九番 ××」(×は不明)と刻んである。右写真をクリックすると拡大した文字面が標示されます。その後はブラウザの戻るボタンでもとにも戻ってください)。
城見小学校の前を進む。右側に小学校の正門、左側に用之江公会堂がある。
そこから100メートルほど進むと、辻堂を挟んで道が分岐する(左上写真)。用之江の辻堂である。往来は辻堂の右手を進み、山裾を登って県境の峠を越える。備中の辻堂は旅と信仰の気配に包まれている。見るといつでも感動する。手前から社稷碑、常夜燈、辻堂、石仏が並んだ御堂と連なっている。社稷碑は笠岡周辺には多いようだ。自然石の地神、五角柱や六角柱の地神塔、それらと同じく土地と農耕に結びついたもののようだ。興味を持っているが、まだよく理解できていない。
【寄り道】辻堂の分岐を左に行くと、山陽本線に沿いながら次第に近づく。250メートルほど行くと山陽本線用之江踏切があり、横に大きな横断陸橋がある。踏切か陸橋で線路を越して、国道2号線北側の歩道を西に230メートルほど歩くと、右側に岡山県と広島県の県境碑がある。目の前に踏み切りがあるので、そこを渡るか、2号線を用之江踏切まで戻って、さらに四つ堂まで戻って往来を進む。
峠に向う前に分岐点の右、山側にある用之江の菅原神社に参拝する。石段を登ると、閑静な拝殿がある。吉浜の菅原神社とは趣が異なる。この社は万治2年(1659)に創建された(同社説明板)。
往来を歩いても2.5キロほどの近くに菅原道真を祀る神社が二つあるのは、支配者である水野氏の思い入れか、村人の思いなのか。
辻堂の北側を進む。辻堂から100メートルほど進んだときに右側に小さな児童公園がある。児童公園の反対側つまり左側に向う分岐を進んで、国境の峠に向う。(左写真)
田園風景の中を登っていく。しばらくずっと上り。
畑や田、農家らしい家などが続く田園地帯の中を進む。左右に直角に分岐していく道は無視してまっすぐ進む。辻堂から300メートルほど来たとき、上に登る道と、そのまま進む道に分岐する(左写真)。福山への往来は、左手の上り道である。
峠へ向って登っていく。右手に桜並木や大きな屋敷がある。しばらく登ると県境の峠に到着する(右写真)。ここまで辻堂から約630メートル、10分強の道のりである。
ここから先、調査報告に類したものがないので、いくつかの資料を参照して道順を決めた。正しいかどうか分からないが、道標や辻堂に巡り会う味わい深い道だった。 検討内容
山沿いの畑しか見当たらない道を進む。軽トラックしか通れそうにない道幅。少し行くと山側に板碑が二つと石仏一つが並ぶ。石仏には神明不動明王と書かれている。真ん中の板碑は右側「天保十亥□」(□は不明)。真ん中「石鉄山蔵王大権□」(□は埋まっているが大権現ではなかろうか)。その隣りは「六月?日」と書いているような。左端の板碑は右「天下太平」真ん中「奉経大乗妙典□」左側はなにも分からない。
山腹を横に進む。狭いが舗装している。今は畑に通う人の道である。しばらく歩くと民家もある。
元の道を下る。道路右側に池があるところで、左に斜めに下りる歩道を歩いた。こちらが本来の道ではないか、と推測。バス停の裏側を通る。
少しそれて神原酒造の建物に行くが廃業しているようだ。
その先左手に大門駅北口のバス停がある。さらに少し先のT字路を左に行くと大門駅。T字路で今日の終了。左に曲がって大門駅から帰岡。
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