京橋・大手門・栄町(千阿弥橋)

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京橋西詰

 栄町の千阿弥橋があったところ(岡山市北区表町二丁目と三丁目の境界)には遺構が何もないので、新しい往来を歩き始めるとき、京橋西詰めに集合することにしている。

 京橋西詰には道路に関する二つの大事な標識がある。明治初年の里程元標と大正時代の道路元標である(道路元標について)。

里程元標 道路元標

 他にも大正時代に建てられた迷子石や旧橋本町の町名碑、25歳でなくなった自由律の俳人住宅 顕信(すみたく けんしん)の歌碑もある。
 京橋の紹介は おかやま京橋散策(岡山シティミュージアムデジタルアーカイブ:サイト確認平成28年10月9日)が充実している。
迷子石 橋本町町名碑

電車通り---大手門(南門)

 

 京橋から電車の軌道に沿って西大寺町商店街のアーケードに向かって西に進む。街道歩きを始めたとき、(管理人は)岡山城下の歴史をほとんど知らなかったので仲間に教えてもらいながら、大手門(南門)跡などを巡って表町まで移動した。

 電車が右にカーブする一つ手前の分岐(右側の背の高いマンション風ビルと左側の黄土色の2階建ての店の間)を北に向かう道(左写真)が、江戸時代前期には山陽道から二の丸へ向かう大手道だった。

 寄り道して見学。途中左側に小さな社がある。西大寺町朝日稲荷神社である。北に分岐してから、2つ目の交差点辺りからが内堀だったという 。北側左に背の高いマンション風の建物、右角に畠瀬本店や岡山県PTA連合会と書いた三階建てのビルがある辺りからだと思われる(右写真)。遺構らしいものはなにもない。
電車道 城の堀の跡

 内堀はこのまま西に電車通りを越えてオランダ通りまで伸びていた。そこから北に折れてシンフォニービルの方まで続いていた(「くらべてみよう江戸時代と現代のまち」)。

 その曲がり角に三階建ての火の見櫓があった。時を告げる鐘撞堂を兼ねていたので鐘撞堂と呼ばれることも多い。(鐘撞堂について)。昭和二十年六月二十九日の岡山大空襲で焼けた。見たことがある、という年長の知人がいる。

 元の電車道りにもどり、北に曲がる電車の軌道から離れる。西大寺町商店街アーケードの入口手前左に西大寺町などの由来を書いた説明板がある(左写真)。

 宇喜多秀家が城下町作りの一環として、西大寺の門前から有利な条件で商人を呼び寄せ、西大寺町の名をつけたことや、赤穂浪士  早水藤左衛門のことや備前太鼓歌で有名な「今屋の火事」のことなどが書いてある。かすれ気味なのが残念。

 西大寺町商店街のアーケードに入る。 前方に時計台が見える(右写真)。アーケードが交差するところだ。時計台のところで右(北)、天満屋方面に曲がる。
西大寺町説明板 時計台

 平成28年12月9日にここを通ったとき、白い説明板の横に、新しい「早水藤左衛門」の説明板が設置されていたので、両方が写った写真と変えました。

千阿弥橋跡

 100メートルほど北に進むと、アーケードのない道と交差する。四つ辻の西北角にチャコット岡山店、東南角には東西南北がある。交差点から北、天満屋に近い方が表町二丁目、南、時計台に近い方が表町三丁目である。

この交差点はかっての堀(中堀と内堀をつなぐ細い堀)であったと思われ、ここに城府から出立する官道の起点である千阿弥橋がかかっていた。ここより北は榮町であるが、もとは千阿弥町と呼ばれていた。(榮町について
仙阿弥橋跡


全体図

 城下の地理は「くらべてみよう江戸時代と現在のまち」より推測。なお、「備前 明和三年岡山城廓絵図」(「岡山城絵図」明和3年刊の複製),正富安治解説,昭和礼文社.昭和33年作成(1958)によれば、上記の内堀は明治30年から42年のあいだに埋め立てられた。 千阿弥町の表記は資料によって仙阿弥と千阿弥の二つがある。


最終確認 平成28年10月9日

参考文献一覧

 参照する

岡山の街道を歩く
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