日置帯刀摂州神戸通行之節外国人江発砲之始末書 2

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日置帯刀摂州神戸通行之節外国人江発砲之始末書の2ページめ

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*** 解読文 ***

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殊之外憤怒之顔色ニテ大声を発し、理不尽ニ
押通り、同時人家よりも短銃を以テ出会、狙掛ニ付
其場之勢不得止、得道具を以突掛り候処
浅手ニ御座候哉、何も屋内へ逃込、其侭追掛候処
裏口より供先を浜手へ相廻申、先手銃隊共
右之挙動を見受、直ニ搏出候付精々相制し
候内、彼より[注①もカ]浜手より及発砲候付、一先人数を山手へ
繰込見合候内、外国人共更ニ銃卒押出し、終ニ
摶掛候付、尚亦此方ニも発砲申、尤右ハ不慮之
義も差起り、此上大事ニ立至り不申様早々
人数引揚申候

異人より日置之小者へ相渡候書付[注②]
日本松平備前守家臣、池田伊勢、日置帯刀
両人神戸町通行之節、右両人供之者より無故
鎗戟砲器を以て外国人を襲申分、何故ニ候哉
早速申訳ニ罷出可申候、若各国共満足する様


【注①】復古記/第一冊/巻二十三/ページ六五三では『も』。この方が意味が通る。
【注②】銃撃戦の時、捕虜となった下田村の民之介(寺田竹三郎の鉄砲持)が持って帰った文書。復古記第一冊巻十八、明治元年正月十一日、(ページ五三一)に、同文。また、大日本外交文書第一巻第一冊八七(ページ二一四)に掲載されている『兵庫、神戸及其他ニ於テ各国公使ノ掲示シタル注意書』と重なる部分がある。後者には、形式は若干異なるが英文原文が併記されている。 次の解読文へ

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*** 口語文 ***

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ことのほか憤怒の表情になって大声を出し、理不尽に押し通りました。
 同時に左側の民家からも一人短銃を持って出て来て、狙いかけて来ました。その場の行きがかり上、やむを得ず持っていた槍で突きかけました。
 浅手だったのか、夷人はみな、家の中へ逃げ込みました。追いかけたところ、裏口から隊列の先頭を浜側に回りました。
 先頭の銃隊の者たちが、この挙動を見て、直ちに発砲したので、一生懸命制しているうちに外国人も浜側から発砲に及んだので、ひとまず隊を山側へ向わせ状況を見ていたところ、外国人はさらに銃隊を繰り出し、しきりに撃って来たので、こちらからも発砲に及びました。
 しかしながら、このことは予定外のことから持ち上がったことなので、これ以上大事にならないように早々に隊を引き揚げました。

  [〇外国公使団が捕虜に渡した通告文]
外国人より日置の使用人へ渡した書付
日本国松平備前守家臣、池田伊勢および日置帯刀の両人が神戸町を通行した際、両人の供の者から、理由なく鎗で攻撃し、外国人を襲ったのは何故か、至急説明に罷り出るべきである。もし、各国公使が満足するような


【人物】
 池田伊勢 日置帯刀 下田村の民之介

【補注】
 松平備前守 : 岡山藩主池田家は、慶長十二年(岡山藩、ページ三〇八、略年表)から松平を名乗り、明治元年に復姓(史料草案巻之二十一、明治元年正月廿日)した。なお、明治元年二月に新政府(弁事役所)から本姓に復するよう指示が出されている(史料草案巻之二十二、明治二年二月八日)。なお、衝突時の岡山藩主は、池田茂政。水戸藩主・徳川斉昭の九男、申請していた致仕が認められ、事件後の三月十五日に家督を譲った(岡山大百科ページ一三八。復古記第二冊巻四十八ページ八七六)
 池田伊勢はこのとき、後方の大蔵谷におり衝突時には神戸にはいなかった(池田伊勢御奉公之品書上、池田家文庫、資料番号D3-9)。しかし、全体の惣督である。日置隊について捕虜となった寺田竹三郎の奉公人、民之介(瀧善三郎神戸事件日置氏家記之写同人遺書並辞世之歌)に聞き出した可能性が高い。
 日置使用人(日置小者)とは、下田村の民之介。 次の口語文へ

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