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故瀧政信殉国事歴の2ページめ

下されば、なおさらこの後の人々の心持ちにも関係し、ありがたいと、五代へ申し出た。

 英国公使の元へ参り、「この度の備前藩の家来の暴発の一件について東久世が参るべきであるが、京都に外せない用事があるのか、今になっても(神戸)に下ってこず、次第に処置の期限になりそうなので、自分が当所まで参った。この件の処置が済むまで、当地に滞在するので、各国公使を集め協議したい」と言った。
 そうすると、「どのようになるにしても、明日協議すべこととし、時間などを取り決めて伝えたい。」と言った。
 なお「(犯人は)瀧善三郎と申す者であり、今日は当所より兵庫へ行くであろう」と言っておいた。
通訳 塩田三郎

 英国公使代理のラウダーが来て「備前藩瀧の助命の事を公使へ上申したところ、欧州の威厳が損なわれるので、死刑を動かすことはできないと言うことだった。従って、備前守がこれまでの藩内への指導が行き届かず、この度のような暴挙に到ったことについては、重々詫びを入れる。しかしながら、相手も存命と聞いているので、処断するにしても(責任者とされている)一士の助命だけは出来ないかと頼むことにして、明日談判しては如何か」とのことであった。
 「一士の命を救いたくはあるが、備前の国情もあることなので、今日自分の一存でいろいろ取計らい、後になって詫びは致さず、処刑が妥当な罪ならば是非に及ばない等と事が済んだ後になって言われても、却って迷惑である。


また、東久世の審理の落ち度にもなるので、残念ながら一士を死刑にして、万士を戒めることとする。しかし、実際に相手が死んでいないのならば、その点で談判に及ぼう、さらにラウダーと相談したように(しよう)」と言い聞かせた。
 そうしたところ「非常に妥当なことです。では、その点をもって明日協議されるべきです。西洋でフランスの万国博覧会の時、ロシア皇帝に向って発砲した者が死罪を逃れた最近の例などを説明した上で(協議を)行うべきであると、気をつける点を内密に示した。

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注記と補足  

【人物】
五代才助 英国公使 塩田三郎 ラウダー

【補足】
(一)『五代に申し出た。』者について澤井権次郎の筆になる「兵庫一件始末書上」(池田家文庫 S6-128-(1))によれば七日早朝に澤井権次郎の名前で瀧善三郎の氏名を記した書付を提出している。また、「伊達宗城在京日記」には、『五代余程骨折候也』とある。この時、岡山藩側から、五代に要望したと思われる。
【参考資料】末尾に一括する。


(二)原文『英公使へ参』以下の文章について「一外交官の見た明治維新/下」によれば、神戸に着いたあと、宗城はイギリス公使パークスに食事に招かれ、その後領事館で会談している。
 「伊達宗城在京日記」にも同様の記述があるが、会談の内容については『懐中留ニ有之略ス』とある。会談の主な内容は、外国公使の天皇への謁見であるが、当殉国事歴はその部分は転記していない。また、サトウの回顧録および日記に記述されるこの会談内容は『外国代表の天皇[ミカド]に謁見する件』のみであり、瀧善三郎の処遇については何も書いていない。
【参考資料】末尾に一括する。

(三)『尤瀧善三郎ト申者ニテ』で始まる文言について「伊達宗城在京日記」ページ七〇五によれば、宗城が昼食後英公使と会談したのは一時過ぎである。「兵庫一件書上始末」によると、澤井権次郎と下野信太郞が、この日の午後五代に面会し、瀧善三郎の宿を決めるよう指示されており、これは前記会談の後と推測される。早朝瀧の氏名を届け出たときには、この指示はなされていない。
 昼食前後の会談で、伊達側が英国側に瀧の移送について、『今日ハ当所より兵庫へ可参ト』と報告したのであれば、報告したあとで岡山側から相談され、兵庫への移送を指示したことになる。この流れには違和感がある。
 瀧善三郎はこの時点には森村に居り、備前藩は五代の指示を受けて、そこから深江の正壽寺を経由して、兵庫に護送されている(「奉公書[池田定彦]」ほか)。『当所』が会談の場である神戸を指すならば間違いである。


 以上のことから、五代から瀧の身柄について、『今日こちらに送ってくるより、兵庫に送るべきではないか』と発言があった可能性を捨て切れていない。しかし、宗城が同席している場で五代がそこまで言及するかどうか疑問があり、また『申者ニテ』などの言葉をもとにこう訳した。
【参考資料】末尾に一括する。

(四)『通弁 塩田三郎』が前後の脈絡なく記述される。「伊達宗城公御日記」では、『又仏公使へ逢候援徳論少々咄尚其内別に逢度よし小松始名元認居同様申候 通弁 塩田三郎』とある。つまり、英国側との会談のあと、伊達宗城は(イタリア・アメリカ・プロイセンの公使を公会所に訪ね)、仏公使(パークス)とも会っている。転記者が神戸事件と直接関係がないと判断し、前後を省略したと思われる。通弁の名前だけ残した意味は不明。

(五)『ロシア皇帝暗殺未遂事件』とは神戸事件の前年の一八六七年、フランスを訪れていたロシア皇帝アレクサンドル二世がロンシャン競馬場での閲兵式からの帰途、狙撃された事件である。皇帝は無事だった。犯人はポーランド人アントン・ベレゾフスキーで、裁判にかけられ、終身禁固刑に処された。
【参考資料】


  • 池田貞彦奉公書(池田家文庫、資料番号D3-9)
  • 一外国官の見た明治維新、アーネスト・サトウ著、坂田精一訳、岩波書店、一九六〇年刊。ページ一五九。
  • 伊達宗城公御日記-慶応三四月より明治元二月初旬-慶応四年三大攘夷事件関連史料 その一- [宇和島伊達家叢書三]、宇和島伊達文化保存会監修、近藤俊文、水野浩一編纂、創泉堂出版、二〇一五年刊。ページ二十九
  • アレクサンドル暗殺(上)-ロシア・テロリズムの胎動-、エドワード・ラジンスキー著、望月哲男・久野康彦訳、日本放送出版協会、二〇〇七年刊

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