鴨方往来8・里庄から笠岡まで

鴨方往来8・里庄から笠岡まで

里庄から笠岡までの略図

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 歩行日 平成27年4月23日(木)里庄(才申)~笠岡(笠岡市笠岡) 距離 約 6キロ(千阿弥橋跡から累計 51.6キロ)(寄り道除く)


 里庄駅から跨線橋で前回の場所へ。「才申」(左写真)は合併して今の地名になったとメンバーが教えてくれた。才は「才ノ脇」だと思うが申はまだ調べていない。しばらく歩くとかすみ保育園の裏側を通る(中写真)。数分歩いて高架の下をくぐる(右写真)。上は道路。

 ゆるくカーブを繰り返すが道なりに進む。「八ツ的公会堂」という小さな標示がカーブミラーについているが、変わった名前だ。
「磯千鳥酒造」がある。同社のホームページによれば、宝暦元年からこの地で営業し、この辺海岸線だったことがこの名前の由来。続いて数分で西の平公会堂がある。

 道なりに進むと、土手道の288号線に登っていく。288号線は川沿いを進む。横に歩道があるので安心して歩ける(左写真)。
 道の反対側に「仁科会館」の案内板がある。今立川を新庄橋で渡る。左前方川向こうに萩原工業里庄工場が見え始めると分岐は近い(中写真)。
 左側に「しんでんばし」、右手にファミリーマートがある。右手に行くと絵師方面。優雅な地名だ。288号線は川沿いに左に進んで行くが、往来は「富岡」方面に直進(右写真)。ここから笠岡市。

分岐から10分ほど歩くと上に登る分岐があるが、ここは左に曲がる(左写真)。曲がるとすぐに今度は右手に曲がる。カーブの左側に坂本精米所の大きな看板が見える。精米所の建物の端に常夜燈が立っている(中写真)。「金比羅大権現」と彫ってある。

進んで行くと左手に富岡保育園がある。日本風の建物なので保育園に見えなかったが、大勢の子どもの声がした。前のバス停の名前も「富岡保育園」である。

富岡保育園を過ぎたら右手に注意。郵便局まで行ったら行き過ぎ 。右写真のような消防倉庫があり、さらに「防火水そう」の丸い看板が立っている。このうしろに辻堂と種麦事件由来の地蔵尊がある。

辻堂 お堂の中には、三体の石仏が安置されており、それぞれ弘法大師、大仙大権現、如意輪観世音菩薩と書かれた木札が置かれている。お堂の詳細はよく分からないが、浜街道沿いにあったという「富岡村四ツ堂」かと推測した(笠岡市史第3巻p314)。

 お堂の前左に鎮座されている地蔵尊について、調査報告6p70には「明和六・七年の不作の時に、村民を代表して種麦の貸与を庄屋に哀訴したが強要と曲解され処刑された」とある。歴史を知らない管理人は種麦を借りに行っただけで処刑というのは如何に何でもひどい、と思って調べたが、不発に終わった強訴というのが実態のようだ(笠岡市史第2巻、p226-228)。(種籾事件について

 

 道は少し変則の交差点(左写真)。左に分岐する角に道標がある(右写真)。「すく かさ岡 ふく山 み」と見える。埋まっている部分は「ち」のようだ(鴨方往来拓本散策p125-126)
分岐 道標

 家と家のあいだの路地の先を進み徳民於賀神社に参拝する。
狭い道 富岡神社

 街道に戻り、しばらく行くと右手に「吉祥院参道」という道標があった。北に行ったところにあるお寺だ。笠岡のお寺は駅前の区画整備事業で移転したものが多い。その先次第に線路(山陽線)に近づいていき、それから少し離れる。

 途中で宝篋印塔や地蔵尊のある草が生い茂った墓地があった。宝篋印塔に「官位栄□ 不来自室」と書いているように思ったが読めなかった(左写真)。

 さらに廃業した酒造会社、応神山登山道入り口を右に見ながら進むと、もう一度山陽線に近づく。真角踏切は渡らず、山陽線の右側を線路沿いに歩く。前方の山上は古城山公園である。(中写真)。

 右手に地福寺の山門に続く階段を見て進めば、目の前に60号線の高架、稲富稲荷神社の鳥居、薬師堂が見える(右写真)。

詳細不明の石碑群 線路沿いの道

辻堂 高架の下の交差点は「伏越交差点」その横に薬師堂があるので浜街道の「伏越薬師堂」だと推測した(笠岡市史第3巻p314) (左写真)。

伏越にはかって遊郭があったとネット情報で知った。湊の近くには遊郭があることが多いが、詳しいことは分からない。往来は高架をくぐって進む。

寄り道して稲富稲荷神社と古城山公園に行くことにする。

 


 鳥居の近くの備前焼きの狛犬。後ろに何か書いているが、よく読めなかった。鴨方往来拓本散策p127によると台座には「弘化五年戌申夏之吉日」とあり、読めなかった狛犬には「天保九年九月」と刻んである。

 急な階段を上り、本殿を拝む(左写真)。境内にあった石像(中写真)。背中に蓬莱山を載せる亀(霊亀)だろうか、と推測したが言われは分からない。

 古城山公園へ向かう。自動車の上れる道があるのだが、そちらへ向かう途中であった山道を歩いてみた(右写真)。しばらく歩くと広場へ出た。

稲富稲荷神社 霊亀石碑 山道

 かって村上水軍の一族、村上隆重が笠岡城をここに築いた。その後廃城になり、明治40年に上部を削って新田の埋め立てに使ったために遺構はなくなった(説明板から)。

 港が見える。埋め立てる前はもっと広い海域に面していただろうし、高さももっとあったと思われる。きっと瀬戸内海ににらみをきかせていたのだろう(左写真)。

 「松山の上の広場にたゞ射せる 朝日より見る 海のある町 八十叟 清水比庵」と読める歌碑(中写真)。比庵は歌人で日光町長もされた人。関東大震災のあとしばらく笠岡に住まれた由(出身地高梁市のホームページより)。その他さまざまな俳句や川柳の石碑や歌碑、詩碑がある。
 宗祇が座って休んだという石があったが(右写真)、西国街道(山陽道)の残念さんのところに「吉田松陰腰掛け石」というのがあった(吉田松陰腰掛石は長崎にもあるようだ-ネット情報)。天狗や神様を始め、いろいろな腰掛け石が全国にあるらしい。広場の東屋で弁当を食べた。

古城山から海を眺める 歌碑 宗祇腰掛け石

 古城山公園から稲富稲荷神社へもどり、さらに階段を下りて、往来にもどる。

右手に笠岡の総氏神である笠神社(「古地図と巡る 笠岡今はむかし物語」による)の鳥居を見てから高架の道路をくぐって進む。笠神社は十月には各地区から樽神輿が出るという。

 正面にかなり古いアーケードがあり(左写真)、左側に東本町、右側にえびす通りと書いてある。アーケードのなかはくらい。「古地図と巡る 笠岡今はむかし物語」に「日本一くらい?アーケード」と書いているのはここのことか。仕出屋などがあり、「廣井三郎商店」の字がかすれた看板が下がっている。

この先往来は称念寺橋まで一直線だが、いくつかの古跡に寄り道した。


 調査報告6にある、妙乗寺の大蘇鉄は姿がなく、地元の人に尋ねたら10年ほど前に枯れたということだった。

 明治の廃藩置県の混乱のなかで旧小田県庁は生れ、はかなく消えた。(明治4年11月発足時は深津県。小田県と呼称されたのは明治5年6月~同8年12月。笠岡市史第3巻p36-214)。小田県史は当時を知る貴重な資料だ。日本文教出版から1971年に復刻されている。
 小田県庁の門は、妹尾の戸川氏陣屋門が移築されたもので、笠岡駅から真っ直ぐ伸びた県庁通りに面している(中写真)。

 笠岡代官所跡もここである。現在は笠岡小学校がある。

遍照寺は駅前再開発で移転したが多宝塔はまだ元の位置にある(右写真)。

商店街に進む道 小田県庁門 多宝塔

 調査報告60p71では小田県庁門を帯江領戸川陣屋の門であった、と記述しているが、笠岡市のホームページ 小田県庁跡(サイト再確認:平成28年4月7日)、現地の説明その他により、妹尾戸川氏の陣屋である、とするのが正しいと思う。

参加者集合写真 グループとしては、福山まで行こう、という方向になっているが、一応小田県庁門で一つの区切りとすることしたので、集合写真を掲載する。
 


 道は西に向って続く。「ほていさま 本通り」と書かれたアーチ?をくぐって進む(左写真)。

 34号線(笠岡・井原線)の向こうの森は稲荷宮、その横に威徳寺がある。広い34号線を横切って直進する(中写真)。

 隅田川を称念寺橋で渡る。名前の由来の称念寺は今はない。往来は次の分岐を左に進むが、直進して威徳寺へ参拝する(右写真)。

アーケード様の道 35号線を渡る 威徳寺への道>

 井笠鉄道の線路を撤去した道が南北に延びる。往来から直進して来た道と交差したところを右に曲がり、少し行くと威徳寺の入り口がある(左写真)。

 威徳寺にはとげ抜き白岩地蔵尊(中写真)が鎮座されている。元は西の浜の山麓に祭られていた(「古地図と巡る 笠岡今はむかし物語」)。

 また、井戸平左衛門の墓がある。井戸平左衛門は60才で石州大森の代官に着任し、後に笠岡も兼務した。享保の大凶作の時、井戸代官が管轄する地域からは一人の餓死者も出さなかった有徳の人である。笠岡で死去。幕府管理の米麦を独断で領民に与えた責任をとって切腹したとも伝えられる(墓横の説明板)が、切腹を立証する資料はない(岡山県大百科上p176 項目の著者/田中舜治)とされる。

 笠岡市史第二巻p209-213では、「享保十八年四月十八日に大森から笠岡陣屋へ来てから、同年五月二十六日亡くなるまで、周辺の大名家の藩医(岡山・福山・足守・三次各藩)の見舞い診療を受けたり、石見から主治医であった錦織玄秀を呼んだりして、療養に努めている状況を見ると自殺とは考えられない。」とする。郷土に係わる名君や名代官、忠勤な兵士を欲するあまり史実を無視する人がよくいるが、笠岡市史の記述は冷静である。

威徳寺 井戸平左衛門墓

 往来に戻って、西に進む。山陽線のガードをくぐる。スバル西の浜店の先で左折、隅田川沿いに下り、笠岡市立郷土館を見学する。前庭に「ふく山みち」と刻まれた道標や力石がある。力石はかなり重そうだった。

 このあと、往来に戻った。ハローワーク笠岡の駐車場のところまで行ったが、200メートルくらい西の交差点までもどり今期の終了とした。
笠岡の道 道標


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