慶応四年神戸事件を考える

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Ⅷ処断に向けて

3.二月八日(陽暦3月1日)

(1)助命の動き

 七日の夜にラウダ―が伊達と話した時には、否定的だったパークスが八日の朝「発砲号令之者」の死刑を予定通り実施すべきかどうかサトウに尋ねた。パークスも迷っているようだった。

(2)伊達の交際

 神戸に来てから、伊達は外国公使達と頻繁に会い、食事を共にし、親交を深める。「発砲号令之者」の処断が決まる二月八日の会議の前後も同じである。資料を見る限りでは、会話の主な内容は当時の政治情勢である。神戸事件についての記録はほとんどない。また、伊達自身が瀧の助命に関して外国公使に向かって発言した気配はない。

〇九時半にフランス公使ロッシュが伊達の宿舎に来る(『御手留日記』頁45)。
 『伊達宗城公御日記』には、この時各国公使に「詫状」を明日出すと約束している(頁32)。
 その後、岩下方平、五代才助、伊藤俊介、寺島陶蔵と事前の打ち合わせをし、十二時に騎馬で兵庫本陣を出た。

〇午後一時に運上所(仮公使館、『御手留日記』では「公会所」とある)に着き、長崎に赴任する途中に訪ねてきた九州鎮撫総督・沢宣嘉(公卿)と警護の大村純熈(大村藩主)を各国公使に紹介した。
〇会談
 神戸での衝突の談判に入る前に、「この度自分は外国事務総督を命じられた。はなはだ事情にも疎く手抜かりがあり、かつ愚昧であるので、対応等が行き届かないであろう。また、これまで徳川幕府の役人の話を伝え聞くところによれば、協議が兎角議論になりがちであったということだが、なにとぞ互いに信義を以て腹蔵なく、話し合いたい」と言ったところ、外国公使から「望むところである」との答えがあった(『御手留日記』頁45)。
 会議のやりとりの要旨は『大日本外交文書』で見ると次の通りである。
※「宇」は伊達宗城、「外」は外国公使である。資料によって若干表現が異なるが、趣旨はほぼ同じである。

宇 
神戸で外国人と争った岡山藩隊長を兵庫に置いている。如何に処分するかと告げて説明資料として「日置帯刀に通達した文書」(二月二日に岡山藩へ通達した「発砲命令者への割腹命令・日置帯刀謹慎命令」であると思われる)を各国公使へ示した。
外 
この書類は、国内に通達したか。
宇 
通達した。
宇 
①大っぴらに各藩の留守居へ通達されるべきである。
②人命を絶つのは、忍び難いことではあるが、今後お互いが親交を深めるためには、避けられないことである。
③切腹は日本では当然の罰か。
宇 
武士への罰である。
外 
日本の法律では、(このように罰を受けた者の)土地を取り上げると聞くが、そのようなことは行わないように願いたい。
宇 
了承した。

【日本側の記録】

▽資料・大日本外交文書/維新史料綱要

『大日本外交文書』第一巻第一冊、頁三四二
一四二 二月八日(三月一日)(外国事務総督)伊達宗城ト各国公使トノ応接記
神戸事件ニ付岡山藩士処罰ノ件
二月八日宇和島侯六ヶ国公使へ応接
宇 外国交際ノ義互ニ腹蔵ナク談シタキモノ也
備前士ヲ召連レ兵庫ニ置ケリイカニ処置スヘキヤ
此間日置帯刀ニ御達ノ書付ヲ示ス
外 右書面ノ趣普ク国内ニ御達ニナリタルヤ
宇 然り
外 公然各藩留守居へ可被達ナリ
人命ヲ断ツハ不可忍コトナレトモ以来親シク交ルカ為
ニハ不可巳ナレハ及此事
切腹ハ日本ニテ当然ノ罰ニヤ
宇 武士ノ罰ナリ
外 日本法ニテ切腹ノ(ママ)ヲ取上ケタマフナリト聞然ラサルヨウニ御
頼入
宇 諾
其外余談多シ不記

合字トモ」を「トモ」とするなど一部修正した。

『維新史料綱要』第八巻、明治元年二月、維新史料編纂事務局発行、昭和十三年刊、頁一七八
議定兼外国事務総督伊達宗城 前宇和島藩主〇大/坂裁判所副総督(この部分割書き) 兵庫ニ至リ、各国使臣ニ面シ、外国人ト神戸駅ニ争闘セシ岡山藩隊長ヲ死ニ処スベキコトヲ告ぐ。時ニ仏国全権公使「ロッシュ」Lëon Roches 徳川慶喜ノ為ニ調停ヲ試ミントスルノ説アリ。宗城、其虚説タルヲ明カニス。

(以下略。『伊達宗城手留日記』の参考資料が上がっているが、参照した『御手留日記』『伊達宗城公御日記』の二月八日前後にはこの文は見受けられなかった。)
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【外国側の記録】

▽資料・パークスよりスタンレー外相への報告

『遠い崖』六、頁二八八
 前日、大坂から兵庫に来た外国事務総督伊達宗城は、この日すなわち、二月八日(陽暦三月一日)、諸外国の代表と会見し、神戸事件にたいする「御門の政府」の陳謝の意をあらためてつたえるとともに、発砲を命令した備前藩滝(※)善三郎(馬廻士、知行高百石、三十一歳)に切腹を命じ、同伴家老日置帯刀に謹慎を申し付ける旨を通告した。
 諸外国の代表はこれに満足の意を表明し、滝の刑の執行の日時と場所を伊達に一任すると述べるとともに、かかる処罰にしばしば付随する犯人の財産の没収を、今回はおこなわないように要望した(パークスよりスタンレー外相への報告、一八六八年三月十一日付)。
※「滝」は原文のまま。正しくは「瀧」

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〇会議のあと、イギリス公使パークスから伊達に夕食の誘いがあった。その後、オランダ公使のところへ行って、いろいろ話したあと、伊藤俊介の宿で小休止した。
 この時、オランダ公使に本(戦争図入り「プロシア・オーストリア戦争」)をもらう約束をする(『伊達宗城公御日記』頁33)。九日に「到来」とある(頁45)。(『伊達宗城公御日記』頁41)
〇夕方七時に、沢宣嘉とともにイギリス公使館へ行って夕食を呼ばれる。食後、話が長引き、真夜中になった。主な話題として、サトウの記録では懸案になっている帝の大坂行幸についてであったが(『遠い崖』6、頁287)、これはサトウが関心を持ったことで、『伊達宗城公御日記』では、万国公法にも触れている(※1)。神戸代理領事ラウダ―の部屋にも行き、夫人(※2)にも会ったようだ。この時、瀧の助命について話したかどうかは資料に書いていない。
〇深夜一時過ぎに宿に帰り、飲酒。「弥三郎へ伝言申含」とあるのは、宇和島藩士桧垣弥三郎のことか。(『御手留日記』頁45)

 
【居留地周辺図】
居留地周辺図 
  運上所(仮公使館)、英国領事館(旧幕府海軍操練所)、オランダ大使館は近距離にある。(『彩色えはがき・古地図から眺める神戸今昔散歩[中経文庫]』(原島広至著、中経出版、2011年刊、頁84の図を参考にして作成した。)

(3)決行日の内示

 時間をもどして、八日早朝、前夜五代に指示された文書を下野信太郎が西宮から持って帰り、伊達の本陣に持参した。

 夜になって、宇和島藩重役・須藤但馬から急用があると呼び出された。澤井らが参上すると、五代才助が面会して、「今日の昼に各国公使と会談した結果、明日九日暮れごろ兵庫の寺院で通達の通り取り計らうこととなった。心準備のために、伝えておく。なお、正式には明朝、五つ半頃(午前九時頃)本陣に来るように」と言われた。
 急いで帰り、事件の関係者が諸事打ち合わせた。

▽資料/兵庫一件始末書上[五]

『兵庫一件始末書上』池田家文庫(資料番号 S―6-128-1)

一 同八日早天信太郎帰着仕候ニ付、両人御本陣江御達
書類悉持参仕候、同晩宇和島侯重役須藤但馬旧字より
急ニ御用有之候間、可罷出旨申越候ニ付、直ニ罷出候処
五代才助面会仕、今昼後各国公使江御応接ニ相成
候処、明九日暮頃兵庫表寺院ニおひて、兼而御達
之通御取斗ニ相成候間、為心得内々相達候、尚正面
之義者明朝五ツ半時御本陣江可罷出旨申聞候ニ付、直
帰掛事件関係之者ニ諸事打合談判仕置候

【意訳】
一 同八日、早朝に信太郞が帰参し、二人で宇和島侯の御本陣へお達しの書類の総てを持参した。
 同晩、宇和島藩重役・須藤但馬より、急ぎの御用があるので参上するよう言って来たので、直ちに参上した。すると、五代才助が面会し、「今日の午後に宇和島侯が各国公使と応接され、明日九日暮れ頃に兵庫の寺院に於いて、兼ねてのお達しの通り、実施されることになった。心準備のために、内々に通達しておく。なお、正式には明朝九時に本陣へ出頭するように。」と伝えられたので、直ちに帰路、事件の関係者と諸事を打ち合わせ、相談しておいた。

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(4)瀧善三郎、遺書を認める

 瀧善三郎は兵庫脇本陣・桝屋長兵衛方に幽閉されていた。どのように過ごしたかは、笹岡八郎が残したものを見るしかない。
 「七日、八日両日を経過し、九日晩刻迄備前屋(桝屋の間違いと思われる)の一室に在り自若として期の至るを待つ、時には庭前の梅花を手折りて自ら慰め、或いは護衛の士の需めに応じて筆を執る」(「瀧善三郎自裁之記」)
 明日、切腹であることは、恐らく告げられていただろう。八日に認めた遺書(※3)の写が池田家文庫に収蔵されている。他人が見るのが分かっている遺書に情けないことを書くわけにはいかないだったろうが、それでも家族(※4)への愛情が込められているように感じる。

▼管見

 この日の天気は分からないが、雨ではなかったようだ。もし月が出ていたら、その月をそれぞれどんな思いで見たのだろうか。外国事務掛の者たち、岡山藩や日置家の者たち、森村にいる瀧源六郎。それぞれがどんな思いで夜を過ごしたか資料には書かれていない。
 善三郎は何を思ったか、誰を思ったか。遺書を読むと、それぞれ家族に文を残している。岡山にいる母と妻、二人の子ども。彼らに最後に会ったのは、正月四日だったろう。
 この日の遺書に、昨夜作った俳句が書かれている。
「春風の吹入るまゝにはつ旅寝」
勝手な連想であるが、妻の名前は「はつ」である。

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▽資料・瀧善三郎の遺書写

『瀧善三郎神戸一件日置氏記録ノ写 遺書並辞世ノ歌写』(池田家文庫 資料番号S6-116)
>瀧善三郎神戸事件日置氏家記之写同人遺書并辞世之歌

一筆奉啓上候先以而
母上様、姉上様益御機嫌克被為成御座、恐悦至極奉存候、然者
先般神戸ニ而異国人一件ニ付
朝廷ヨリ御重大之蒙
勅命候、並、殿様ヨリモ御厚大ノ蒙仰、其上跡式悴成太郞へ重大
ノ御禄被下置、旦那様ヨリモ御懇命ヲ蒙り、其上御禄頂戴被
仰付、莫大ノ御義誠ニ吾家ノ面目不可過之候段、実ニ言語ニ難尽
奉存候、猶此上御心ヲ御励被遊、成太郞御養育偏ニ奉願上候、将又
同人義次第ニ成長ニ相成候ハヽ、唯々文武ノ両道ヲ御励セ被遊、忠孝
ノ名天下ニ映候様、是偏ニ奉願上候、恐惶謹言

死生有命 富貴在天

いまハはや森の日蔭となりぬれと
朝日に匂ふやまと魂

二月七日晩兵庫ニ止宿す、風強きまゝ始あつて終なきを
思ふて
春風の吹入るまゝにはつ旅寝
二月八日
瀧 善三郎
正信 花押
拇印

御母上様
御同
御姉上様

妻子への遺書
三人とも無じ暮し候由目出度候、二人共養育の処偏ニ
頼入候、殊ニ母上様御老人ハ申ニ不及、孝行可尽候様只々御頼
申候以上
二月八日善三郎
正信花押
拇印
はつとの江

忰 成太郞へ
忠孝の道相守、御奉公第一ニ候

娘いは江
 女子ハ女子道、親江孝行可致候

 右之ヶ条忘れす相守可申候、何事も伯父様へ相談ノ上相努
 可申候

瀧善三郎辞世ノ歌 本書略懐紙 字体大概本書ニよりて写之
 きのふみし夢ハ今更引かへて
神戸かうらに名をやあけなむ[※]正信

※ 本書の記述と帯刀が後年著した『岡山藩家老日置忠自筆御用書上』(神戸市立博物館蔵)および東山霊園内の瀧善三郎墓碑に記載された「名をやながさん」、『故瀧正信殉国事歴』(池田家文庫 資料番号S6-121)、『井上金蔵日記』(池田家文庫 資料番号S6-121)の「名をやのこさん」など幾通りかの伝承がある。

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(5)西宮警衛隊を上京させるとの報告(二月八日)

澤井宇兵衛(権次郎)名で、西宮警衛隊を京都に差し登らすことを届け出る。

西之宮御警衛人数之内、槍隊其外冗官之者ハ国元ヘ差返シ、其余之分御当地ヘ呼登シ候心得ニ御座候、此段御届申上候 以上
備前少将留守居
二月八日澤井宇兵衛
 『史料草案』巻之二十二、慶応四年二月八日。読みやすくするため読点を入れた。
なお、同じ日に同人の名前で銃隊 三百五十人以下、五百七十人からなる兵力を東征軍に従軍させると届け出ている。(『史料草案』巻二十二)


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補注

※1.万国公法
 伊達は最初から万国公法による処断を決めていた。伊達に代表される幕末の知識人に万国公法は「天の法」と理解されていたようだ。
 伊達とパークスのやりとりは先生と生徒のようである。万国公法について三角マーク

※2.ラウダ―夫人
 ジュリア・マリア・ラウダ―(Julia Maria Lowder)。アメリカ人宣教師の長女として来日。神戸事件当時二十代後半である。後、ラウダ―とともに横浜に居住。ラウダ―死後も日本に住み、横浜で没した。

※3.瀧善三郎の遺書
 残念ながら『瀧善三郎神戸事件日置氏家記之写同人遺書并辞世之歌』など、転写によるものしか閲覧できていない。前記文書の「遺書の写」には末尾に帯刀養子、日置健太郎の 気負った文章が追記されている。
 また、辞世の歌に関しては、旧来から異説がある。(瀧善三郎辞世の歌三角マーク参照)。
 当サイトでは引用した『瀧善三郎神戸一件日置氏記録ノ写 遺書並辞世ノ歌写』(池田家文庫 資料番号S6-116)に記載されているものではなく、墓碑に刻まれたものが本来の辞世であった可能性が高いと考えている。善三郎の切腹後、遺骨の一部を兄源六郎が岡山に持ち帰っている。その時辞世の歌が誤って伝えられるとは考えにくく、また、墓碑に刻まれたものと同じ文を後年日置帯刀が自身の報告書に記載している。

※4.瀧善三郎の家族
 瀧善三郎は、母、兄夫婦、妻、二人の子どもが一緒に住んでいる家族であった。なお、引用したものは、岡山藩京都留守居・澤井権次郎が記録した『兵庫一件始末書上』(池田家文庫 資料番号S6―128―1)による。他の資料では、兄夫婦を記載していないものが多い。

〇母 ちか(七十三才) [当主]滝 源六郎(四十九才) 源六郎妻 まさ(四十五才) 〇滝 善三郎 三十二才 善三郎妻 はつ(二十八才) 善三郎忰 成太郞(四才) 同娘 いわ(二才)