二人はご指示を了解した。この時、宇和島公が落涙された。実にまごころが表わされた。
前に五代を通じてお願いしていたとおり、切腹後の屍の取り片付けを日置帯刀の家来に仰せ付けになるか、とお尋ねした。その他いくつかのことを伺ったところ、すべては薩長に相談するようにと仰せ付けられたので、退出した。
薩長の隊長と相談して、直ちに寺院見分に同道した。四、五ヵ所の寺院を吟味した上で、中ノ町の永福寺に取り決めて帰った。その後、惣左衛門をはじめ関係者を同道して、下検分に行った。
支度のあと、瀧善三郎の旅宿へ宇和島公が仰ったことを伝えに行った。澤井権次郎、下野信太郞、中堀惣左衛門が待機しているところに、佐藤左源次が瀧善三郎を召連れて出て来たので、宇和島公が仰ったことの詳細を申し渡した。善三郎は退席し、左源次が承諾の旨を伝えた。我々二人は帰路に中島作太郎の旅宿に行き、種々相談し、暮れ頃宿に帰った。
午後六時頃、瀧善三郎の用意が調い出発すると言って来たので、我々二人も同行した。
永福寺の奥座敷に善三郎が入り、佐藤左源治が同じ部屋で警固した。次の間に日置帯刀殿の家来、御徒目付が付き添い警固した。広間に伊藤俊介、中島作太郎、宇和島公の御使者、薩長の隊長四人、わたし権次郎と下野信太郞、折れ曲がった次の間に外国人七人、さらに次の間に薩長の番士と検証人が詰める部屋割だったが、伊藤俊介が遅延した。
午後八時頃薩摩藩の岩下と寺嶋の使いが来て、薩長の隊長に面会し、「今夜午後六時過ぎに外国検証人が来るはずであったが、交渉することがあり、伊藤俊介と五代才介は英国公使館へ行っている。
【補足】
(一) 我々というのは、「兵庫一件始末書上」を参考にすると、著者澤井権次郎と下野信太郞であると思われる。中堀惣左衛門が徒目付として立会った、と推測した。
(二)『部屋割だった。』の部分の原文は単に部屋に待機する者を列挙しており、部屋割という言葉はない。しかし、遅参している伊藤俊介や外国側検証人についても記されているので、予定していた部屋割であると判断した。
配置は、「兵庫一件始末書上」及び「日置帯刀摂州神戸通行之節外国人江発砲之始末書類」(S6-120)の図を参照した。
また、原文で『御徒目付並附添警固』となっている部分は、御徒目付と付添いが警固した、とも読めるが、同図の注では、『日置家来 介錯介添』と『惣左衛門 鹿之助』の二名のみが記述されている。これを踏まえて、『付添い警固』とした。